白詰草の少女(2)
アキは幼い頃に両親を流行り病で亡くし、それからはずっと、この村の村長の一家に引き取られて育った。まるで血の繋がった家族のように、幸せに暮らしていた。
村は決して裕福ではなかったが、貧富差が少なくとても平和な村だった。
そんな、幸せで美しい日々を送っていたある日、アキを我が子のように愛して育ててくれた村長が、実の両親と同じく、流行り病でその命を失った。
村人全員が嘆き、悲しみ、村を挙げての御葬式が行われた。しかし、一番悲しんだのは、血の繋がっていないアキ自身だった。
その病気は、かかったことが判明すればすぐに村から離れた小さな小屋に隔離されていたので、村の存続に支障が出るほどひどいものではなかったがじわじわと村の命を削っていった。
そして、村長の地位を引き継いだのは三十余りの若い息子だった。彼は、アキを幼い時から知っていて、兄のような存在だった。
華奢で背が高く、翠色のいつもどこか物悲しげな瞳をもった、青年であった。
たまにアキは彼のもとへゆき、あまり表へでることのない彼に本を読み聞かせてもらっていた。
その青年に、アキはいつしか恋心のようなものを抱いていた。
彼が村長の地位を引き継いだその直後からだった。まるで疫病の犠牲者の祟りのように、村には、不作、不猟、日に日に広がっていく流行り病、連続で不幸が降り注いだ。
翆色の瞳の青年はとうとう疲労で倒れ、民衆の前に姿を現す事はなくなった。
そんな彼が、唯一、心を許した相手がいた。それが、アキだった。
青年は、アキのことを実の妹のように可愛がり、彼女にだけはいつでも笑顔を見せた。
アキは、この頃まだ九歳ばかりで幼い子供だった。幼い彼女は、青年に元気になってもらおうと少しずつ花をつけ始めた草原に出て、青年のために花輪を作った。
花輪を握りしめて、青年の住む家の近くに小走りで駆けていくと、そこにはなぜか見知らぬ男がいて、青年の実の姉と何か揉めていた。その男は強引に青年の家の中へと入っていった。
アキは、すかさず家の中へ追いかけて入ろうとしたが、家の前で足を止めた。中から、話し声が聞こえた。
「ほお、この村はそのような状態にあるのですか。まさに絶望の淵ですな。ハッハッ」
最初に聞こえたのは、妙にトーンの高い見知らぬ男の声だった。
「……話は、それだけですか」
“兄さん……!”
次に、か細いが聞きなれた、落ち着いた口調の青年の声が聞こえた。
「いやいや! 無論、解決策があるわけですからここまでやってきたのですよ」
「……」
「いやなに、簡単ですよ。私が思いつく、村の損害が最少になる方法はですね―」
「それは、なんですか」
青年は男が今度はまた何を言い出すのか、呆れていた。
「私の出身地である西の国では、ごくごく普通でよくあることですがね。この場合、亡くなった犠牲者達に村民の命を捧げるのが最善です。そうすれば犠牲者達もこの村を許し、救ってくださるはずですよ」
男は両手を胸の前で組み、如何にも自分が正論を言っているかのように青年に微笑んでみせた。
「それは、できません。村人を失えば意味がありません」
「そうですか? 森のはずれに、確か美しい花畑がありましたね? その花が満開になる頃に三人、村民を捧げればきっと亡くなられた方々も成仏されるはずですよ。それに……大金を払って薬を買うよりも、村の損害は少ないと、いや、払う金なんてもうこの村には」
「いい加減にしてください」
男の、いつまでも続くように思われた言葉の羅列は、青年によって遮られた。遮った言葉から、青年の揺らぎのない思いを感じとることができた。
“兄さんが、怒ってる……”
「まあまあ、そう怒りなさんな。あなたはこの村を支えなければならない、それ
よりも重いものがありますか?」
「帰りなさい!」
アキは、ずっと家の前で聞き耳を立てていたが、耐えきられなくなってその場を駆け出した。
幼い少女に、今の会話のすべてが理解できていたわけではない。ただ、怖くて、青年を助けたいという思いよりも、恐怖心が上回ったのだ。
少女は全速力で、段々畑の連なる村を駆けていった。知らない内に、その瞳からは涙がこぼれ落ちていた。
“あの日”から、もう二ヶ月が過ぎた。
あれ以来、アキが青年に会いに行ったことはなかった。ただ、着実に村民はじわじわと減ってゆき、村は滅ぶ方向へと歩を進めていた。
アキは、いつものように川へ水を汲みに大きな桶を持って、村から少し離れた森の中を歩いていた。
空は嫌味のように晴れ渡り、新緑がつくるいくつもの木陰を縫って、日の光が輝いて降り注いでいた。
“あれ……?”
森の木の狭間から、人影がみえた。
“兄さん……?”
影を見つめると、それは紛れもなくあの青年だった。手には何も持っていなくて、どこか遠くを見つめていた。髪が少し伸びて、ぼさぼさだった。
アキは、恐る恐る彼に近づくと、あちらの方が先にアキに気づいた。
「! アキ……」
「兄さん……? どうして……ここにいるの?」
アキは小さく震えていた。今、目の前にいる彼は、アキの知っている青年ではなかった。
明らかに、生気を失って痩せこけた“人”がそこにいた。
「アキ……もう、安心していいよ……これで、また村は平穏に戻るから……」
「え……? どういう意味ですか……?」
「旅人さんが、これで大丈夫だって言ってくれたから、もう、心配しなくて……いい……」
青年が、光を失った翆色の瞳をアキに向けて微かに微笑んだ。
「…………」
―カランッ
アキの小さな手から、持っていた木製の桶が転がり落ちた。
「やめて……いやよ、兄さんじゃない! 貴方は、兄さんじゃないわ!」
アキは後ずさり、すぐにくるっ、と半回転してそのまま一直線に走った。まるで、青年から逃げるように。
「アキ……! アキ……!」
青年は力なくその手を伸ばし、その場にドシャッと音を立ててへたり込んだ。
それからだった。まだ子供だったアキには何も知らされることはなかったが、村では不可解に人が消えていくのがわかった。
もう、アキが青年と会うことはなかったが、彼女がひそかに身に持っていた恋心が、彼女の心を強く締め付けた。今でも、青年のことを思うと瞳から涙があふれた。
「あの人があんなに弱くなければ……」
アキは小さく呟き、そっと目を閉じた。
サラが無事であることを祈り、身支度を始めた。
サラと少年は花畑を後に、新緑がきらきらと輝く森の中を真東に歩いていた。すると、遠くから光が強く差し込み、森がひらけているのがわかった。
開けた視界の先に、一つの集落があった。
昼間なのに、人っ子一人いなく、時折うぐいすのさえずりが聞こえるだけの静かな集落だった。
「そういえば、今日は村人は外出禁止だってアキさん言ってたな……」
サラはそう呟いて、集落の中を見回しながらゆっくり歩いた。
集落は広大な段々畑が広がっていて、ちらほらと民家が見えた。
サラが辺りを見回していると遠くに、人のようなものが見えた。
「あれ? 人がいる……」
近づくと、どこまでも広がる畑を前に、岩に背を丸めて腰掛けた老人がいた。 彼は薄汚れた着物を着て、髪の毛は真っ白でぼさぼさだった。
「ああ……、旅人さん」
老人はサラ達に背を向けたまま、そう話しかけた。
「……今年も、豊作ですね」
そう老人が言った。老人の目の前の畑には、待ちわびていた春を迎え、太陽に向かってまっすぐに伸びる新芽がきれいに整列していた。
「ええ、そうですね」
サラがぶっきらぼうに返す。
「―すべては旅人さんのおかげですよ。あなたの言う通りにして、村は豊かになりました。皆、喜びました。でももう昔の、あの時の村ではなくなりました」
老人は、背を向けたまま続けた。
「たくさんの村民が犠牲になりました。今日も、一人の“幼い少女”が犠牲になりました。私に、白詰草で編んだ花輪を持ってきてくれた、優しい女の子でした」
「…………」
サラの瞳に、絶望が一つ浮かんだ。
「でも、旅人さんが仰ったのですから。きっといいのです。旅人さん、今年は後二人、生贄に捧げなければならないのでしょう? 次は、誰なのです? 教えてください。ねえ! 旅人さん」
老人は、確実に正気を失っていた。
「……残念ですが、もう旅人はいませんよ。もう、誰も犠牲にする必要なんて、ないのです」
サラはたったそれだけいって、そこを立ち去った。
「……そうですか、―やっとですね、やっと、私の番が来たのですね……皆は、きっと私を許してはくれないでしょう」
老人は一人で、どこか遠くを見つめてそう言った。
「来年も、きっと、豊作ですね―」
もうひかりの射さない翠色の瞳を持った老人はそう言い残し、何の躊躇もなく自身の舌を噛み切った。
白詰草の少女は終わりました。