白詰草の少女(1)
そこには、夕焼け空に照らされ、ややオレンジがかった小さな白い花の群生が、見渡す限りどこまでも広がっていた。
そして、春の花畑に取り残されたかのように、ぽつんと人間が二人立っていた。
それらはただ、オレンジに染まりぼんやりとしたまるいものが遥か遠くに見える方角を向いて、佇んでいた。
二人の内の一人は華奢で背が高く、栗毛の少年。真っ黒なマントに足元をベルトで留めた黒いズボンを着た、首から下が黒一色の服装だった。栗色の瞳の、平凡だが整った顔つきをしていた。
もう一人は、栗毛の少年の半分くらいの背丈の、かなりやせた幼い少年にみえた。服装は薄い袖なしの簡素な着物を着ていて、顔には大きなまるいお面をつけていた。つまり、彼の表情は外見からまったく察することができなかった。
東の方角に、地平線の少し手前に小さく小屋のようなものが見える。
「とりあえず、あそこを目指そうか」
栗毛の少年がもう一人の少年にそう言って、もう一人の少年がこくりとうなずき、二人は東へ歩きだした。
ほどなくして二人は目指した小屋にたどり着いた。
それは小さな藁葺き屋根の民家で、濃い木の色と、夕焼け空の緋色がきれいなコントラストをなしていた。
二人はその民家の前で立ち止まると、少し外観を眺めたのちに栗毛の少年が戸を軽くたたいた。
「すみませーん、誰かいませんか?」
すると、民家の中から何かが動く物音がして、やがて戸が開いた。
中から出てきたのは、長い黒髪の二十代ほどの若い女性。かなり驚いた表情をして二人に目をやった。
「あら? ……どちらさま……?」
女性が栗毛の少年に尋ねた。
「いきなり申し訳ありません。僕たちは旅をしているのですが、今夜泊まる場所を探しています。できれば建物に泊まりたいのですが、もしよければ最寄りの村を教えていただけませんか?」
栗毛の少年はそう丁寧に答えた。
女性は更にもう一度驚いた表情をみせたが、少し考えて、すぐに前を向いてこう言った。
「なら、ここに泊まっていくといいわ」
いきなりの返答に、今度は栗毛の少年が少し驚いた様子をした。
しかし女性は続ける。
「もう少しで日も沈むし、村もここからだと少し遠いから一日だけならここに泊まってもいいわよ」
女性は笑顔でそう言った。
二人にとってこれはかなり予想外の答えだった。だが、ここ数日野宿できていた彼らに断る理由はなかった。
「本当ですか! いいんですか!?」
栗毛の少年は、さっきとは打って変わって食いついてきた。
「ええ、きっと遠くからやってきて疲れているでしょう、私は気にしないで少し休んでくださいな」
女性が微笑みをうかべてそういった。
「本当は野宿も覚悟してたんだけど、運がいいのかもしれない……」
栗毛の少年が、ぼそっとつぶやいた。
「どうぞ、あがって」
女性は、重そうな引戸を開けて少年たちを中に案内した。
家の中は、玄関との境目に大きな段差が一段あり、その奥に畳の一間があった。目立つ家具は大きめのタンスが壁際に、中央には小さな木製のちゃぶ台が置いてあるだけの質素な空間だった。
「まだ名前を聞いてなかったわね……私はアキよ。名前を聞いてもいいかしら?」
女性が少年たちに振り向いた。
「僕はサラです。この子は…………まだないんです」
「?」
栗毛の少年はもう一人の少年を横目にそう言ったが、女性は栗毛の少年の言葉に、一瞬不思議そうな顔をした。だがそれを、あえて追及することはしなかった。
「じゃあ、これからよろしく。サラさん」
「感謝します。よろしくおねがいします。アキさん」
サラは少しぎこちなかったが、アキは微かに微笑んでいた。
「……もう夕刻ね、そろそろ晩ご飯を用意しようと思うけど、サラさんも食べるかしら?村から支給されたものがたくさんあるの」
「―! 助かります……」
「遠慮しなくていいのよ」
優しくそういって、アキは暖簾の奥にある台所へと消えていった。
サラは一旦家から出て、黒いマントの下から小さな布の包を取り出した。その中には今朝、森で見つけたうさぎの肉の欠片が入っていた。そして、サラは躊躇なく、それを勢いよく放り投げた。
それは地平線の彼方まで一直線に飛んでゆき、やがて森の少し手前でドシャっと音をたてて崩れ落ちた。すぐにその近くにいた獣が無惨にそれを食い散らかした。
だんだんと、ぼやけた太陽が地平線に沈んでいき、濃い藍色が空を覆いだした。
暖簾の向こうからいいにおいが漂ってきた。すぐに、アキが大きな鍋をもって顔をだした。
「おまたせ!」
満面の笑顔で、アキはちゃぶ台の上に湯気がほくほく漂う鍋を置いた。
「これはね、この村の伝統料理! うさぎをまるごと煮ていて、お祝いごとをするときにはしょっちゅうでてくるの!」
その鍋の端からは、長い耳が特徴的なうさぎの首が突き出ていた。
「おいしかったです……まさか、こんなに豪華なものが食べられるとは今朝は思いもしませんでした……」
サラは、三人で一頭まるまる食べ終わった後に、感慨深げにそう呟いた。
「気に入ってもらえてよかった。この村ではうさぎを大量に捉える狩猟法がある
のよ。だから、毎月生きたうさぎが各家族に支給されるの」
アキが嬉しそうにいった。
「そういえば、すぐそこの森で、僕も今朝うさぎの死骸を見かけました」
「そうだったのね! ―食べたかしら?」
「……食用だとは、最後まで考えていませんでした。」
「―そりゃそうよね。村によって風習が違うから、旅人さんならびっくりしちゃ
うわよね……本当は、食べたくなかったんじゃ……!」
アキは、やってしまったと言わんばかりに、サラに少し赤みがかった瞳を向けた。
「いや、野宿するときの最終手段として食べることも考えていたので、問題ないです。それより、うさぎがこんなに美味しいとは思っていませんでした」
それを聞いて、アキはほっとした様子を見せた。
「旅人さんに会ったら、一度聞いてみたかったことがあるのだけれど、一つだけいいかしら? 無理なら、別に構わないけど」
「大丈夫ですよ」
「ほんと! なら、聞くわね。思ったのだけれど、サラさんはどうして、自分の村を出て旅立ったのかしら……? 決して、楽ではないでしょうに」
サラは、傍らに座っている小さな少年に一度ちらっと目を向け、それから答えた。
「……僕は、この子に罹っている呪いを解いてあげたいんです。その為に旅をしています」
「……?」
「この子には、どうしても幸せになってもらいたいんです」
アキはサラが言ったことが理解できなかったが、彼なりの理由があるかもしれないと察して特に何も言わなかった。
「そうなの……ありがとう。教えてくれて」
それから、少しの間、誰も何も言わなかった。
「実はね、私も、旅がしたかったんだ」
アキが、どこを見つめるでもなく呟いた。
「……アキさんも、ですか?」
「うん。私、小さい頃からこんな狭い村を出て、何処か別の世界を見てみたかったの。そして、旅先で会った人達と、世界のいろんな話をしてみたい。それが、私の夢だったの」
「……」
サラは、かなり驚いていた。自分なら、考えることもない小さな願いだった。次に言う言葉が、すぐには思い浮かばなかった。
悩んだ末、彼はこう言った。
「……その夢は、“叶い”ますか?」
「!」
アキは、その問いに答えるのに、かなりの時間がかかった。
そして、
「ええ、勿論よ。必ず、叶えてみせる」
アキの瞳の中に、こみ上げてくる思いがあった。果たして、これを本当に目の前にいる少年に言ってよかったのか。
彼女は、サラに初めて嘘をついた。
「それにしても、この花畑は綺麗ですね。ずっと続いていた森が、いきなり途切
れてこの花畑に出たときは感動しました」
サラが外を観ながら、ふと思い出してそう言った。他愛ない会話をするつもりだった。
「……サラさんは、そう思う? この花畑……」
いきなり、花畑の話を持ち出した途端、アキの表情が変わった。悲しみをもった、冷たい表情だった。
「……」
「この花畑のことを綺麗だなんて思う人は、今ではこの村には、いないと思うわ……」
「―? 何故ですか……?」
「……実はね、昔、平原が一面にこの花で埋め尽くされるこの季節に、村では不作や不猟が続いていたの。本当に、このままでは村の壊滅寸前まできていたわ」
アキは一度、温かいお茶を啜って、続けた。
「―この村は代々、同じ血筋の一族だけが村長を務めていたの。でも、ある日村長が病気で亡くなってしまって、当時まだ若い息子が、村長になっていたのよ。彼は本当に悩んでいて、日々人が死ぬかもしれないことを恐れていたと思うの。
でも、まだこの村はあるでしょう? なんでだと思う?」
アキの口調は、嬉しそうに話していたさっきとはまるで別人のようだったが、サラに尋ねるときだけは、少し優しい口調になった。
「なにか、あったのですね……?」
「……ええ、そうよ。ある日、この村に旅人がきて状況は一変したわ。彼はまだ若い不安定な村長に、ある提案をしたの。でも、それは恐ろしいものだった。彼が提案したのは―」
アキは一度言葉を止めた。というよりも、続けられなかった。
「今までは村の誇りであったこの花畑が満開になる季節に、毎年三人の村民を生贄にすること。そうすれば、疫病の犠牲者達も村を許してくれるって。
……ほんと、なにを許すのかしら。」
アキの声は震えていて、その頬には、細く涙が伝った。
「……」
アキの涙はそれ程長くは続かなかった。やがて、彼女は涙を拭い、顔をあげて、まっすぐにサラを見つめてこういった。
「それでも、サラさんは、この花畑を美しいと思うことができる?」
サラは少し考えて、それから答えた。
「……ええ。僕は、この花畑を美しいと思いました。」
サラもまた、まっすぐにアキを見つめていた。
「……」
アキは暫くなにも言わなかった。またもその場を静寂が包み込んだ。
「あはっ、あははははははははははははははははははははははははははははははは!!!」
いきなりだった。
アキが甲高く笑った。しかし、その笑い声は普通ではなく、不安定で、不穏なメロディが、静寂を掻き消した。
「…………」
アキの、叫び声に似た笑い声が部屋中に響いている間、サラは彼女を見つめていた。哀れんでいたかもしれない。
しかし、彼は何も言わなかった。、彼女を見つめ、笑い声が終わっても、何も言わなかった。
「……ごめんなさい。でも、やっぱりサラさん、あなたって面白い。本当に正直なのね」
アキは散々笑って、瞳が少し赤らんでいた。そして、サラに目を向けた。
「本当にごめんなさいね。こんなの、ただの愚痴だわ。馬鹿みたいね、私」
「いいえ、この村のことを知ることもできたので、僕はまったく気にしていません。大丈夫です」
サラはいつもと変わらない、他愛ない話をするときと同じ口調でそういった。
もうすっかり辺りは暗くなり、アキはろうそくに火をつけた。オレンジ色のひかりが、部屋を照らした。
「そろそろ寝ないと、もう真っ暗ね」
アキはそう言って、ちゃぶ台を横にして壁際に置いた。そして、押入れの引戸を開け、中からぺたんこの敷布団を引っ張り出した。
「私は奥の部屋で寝るから、サラさんはここで寝てね。あと、何かあったらすぐに呼んでね。……じゃあ、おやすみなさい」
そういって、台所の隣にある小さな自室へと入っていった。
サラはそのまま布団には入らずに、暗闇が世界を覆う外へ出た。
名の無い小さな少年が後を追った。
外へ出ると空には雲一つなく、澄み切った星空が広がっていた。遮る物は何もなく、南の空には満月が光り輝いていた。遠くで、キリギリスの鳴く声がした。
「お前は、この花畑をどう思うかい?」
サラが誰もいない空間に向いて、名の無い小さな少年に話しかけた。
小さな少年は何も答えなかったが、サラは独り言のように呟いた。
「お前の名前も考えないとな。君が好きなのを決めると一番いいのだけれど……」
すると小さな少年はサラの近くへ寄ってきて、力なく首を左右に振った。
「名前はいらない、か……。君は、本当に僕に何も教えようとはしてくれないんだね。きっと、僕が死ぬまでずっと、僕は君のことが分からないんじゃないかな」
「……」
小さな少年は、肯定も否定もしなかった。ただ、サラはこういう場合、彼が前者を表していることを知っていた。
「僕は、ほとんど以前の記憶は忘れてしまったけど、ただ君を守らなければならない、ということだけははっきりと覚えているんだ。そして、それはとても重要なことだと思うんだ」
小さな少年は、一言も口を利くことはなかった。ただその場にかがみこみ地面になにかを書いた。
それは、暗くてはじめは何も見えなかった。だが暗闇に目が慣れると、月明かりに照らされ文字が浮かび上がった。
「わたしからにげて」
サラは、かがんで俯いたままの小さな少年に、後ろからささめくように言った。
「安心して。僕が逃げるような場所なんてどこにもないんだ」
結局、その夜誰一人として眠ったものはいなかった。アキの部屋の窓からは、微かなろうそくの光が漏れ出て闇に消えていった。
次の日。濃い藍色の空の色が徐々に薄らんでいき、東の地平線から眩しい光を放つ朝日が昇ったばかりの時刻に、サラはふと表へ出た。
虫の音は聞こえず、とても静かだった。鮮やかな朝日のせいか、目に映るものすべてが鮮明に見えた。
そして、この時見た景色を、彼は一生忘れることはないだろう。この、朝日に照らされ輝く、真っ白な花畑の光景を。
サラが家の中に戻ると、台所から物音が聞こえた。そっと暖簾をくぐり様子を窺うと、アキが朝食の準備をしていた。
背後に近づいた気配に、アキが気づいた。
「ああ、おはよう。いい朝ね」
彼女は、一睡もしていないわりにとてもすがすがしい表情で、サラに振り向い
た。
「おはようございます。静かで、いい朝ですね」
「サラさんはぐっすり眠れた? 私ね、ずっと考え事をしていて、全然眠れなかったのよ」
アキがニコッと笑ってそう言った。
「僕も、あまり眠れませんでした」
サラも、昨日より少しは親しげな様子で、調理しているアキを見ていた。
「朝ごはんができたわよ、さあ、食べましょう!」
昨日と同じく、アキが暖簾をくぐりちゃぶ台の前に座っていた二人の前に朝ごはんを差し出した。その瞬間、アキはあることに気づいた。
「あれ……? そんな子、昨日いたっけ……?」
「?」
「……いや、そんなことは、どうでもいいわ、 じゃあ二人とも、召し上がれ。いただきまーす」
不可解な発言を残した後、アキは何事もなかったかのように、朝食を食べ始めた。
朝食を食べ終わった頃には、太陽はかなり高い位置に上り、外は明るくなっていた。
「サラさんは何時頃出発するの?」
「そうですね……朝食も頂いたので、できれば早めに、発とうと思っていま
す。」
「そう……わかったわ、私も道がわかりやすくなる場所まで送りたかったのだけど、今日は村の者の外出は禁じられているから……」
アキは、そういってサラに微笑んだ。
「さようなら。サラさん。元気でね。」
「ええ、お世話になりました。本当に、感謝しています。……さようなら」
そう言って、サラ達が立ち去ろうとした瞬間、
「―待って!」
アキはいきなりサラ達を呼び止めた。
「サラさん! 絶対に、絶対に、その子を幸せにしてあげてね!」
「!」
「さようならー‼」
サラは最後に、初めてアキに微笑んでみせた。
サラと少年はそのままアキの家を後にした。アキは去りゆくサラ達の背中を、見えなくなるまでずっと、ずっと、見送った。
そして、アキは幼い頃村に起こったことを、静かに思い出していた。
「そう、あの日、すべてが変わったんだ」
作者の妄想を爆発させて書いた小説です。次回へ続きます。