第一話 突然のスイッチ
1
遠くから電車の走る音が聞こえる。
いつも聞いていた音とはどこか違う。
懐かしい音。
でも、あの電車が通っている現実は今なのだから、
私が懐かしいと思うのはおかしいことだ。
音が懐かしさを運んでくるのだろうか。
じゃあ、声もそうなのだろうか?
ふと見ると、さっきまで向こうの鉄橋を渡っていた電車が、はるか遠くの方でまっすぐな線になって消えかけていた。
その景色の中に、下の方からすっと入り込んでくる人影。
西の空に傾きかけた太陽の光を、肩口から露になった透き通るように白い肢体が反射している。ノースリーブのワンピースが、すらりと伸びた手足をより美しく見せていた。丈の長いスカート部分が、カーテンのように風に揺れていた。
しなやかに伸びた指が、吹き抜ける風に目の前で舞う長い髪をそっとかき上げた。
私は、彼女のことをもう遠い昔から知っていた。
まだ女性と呼ぶには早過ぎて、それこそ麦藁帽子と赤い靴を連想するくらい絵に描いたような少女時代。
彼女の名前は、瑠香と言った。
いつも、男子にちょっかいを出されては泣いていた。今思えば、そのちょっかいも少年期にありがちな、どこか憧れに似た淡い気持ちの現われなのだと知っている。抵抗の仕方を知らない要するに「女の子」だった彼女が恰好の標的になっていただけの話だ。ひょっとしたら男子の女子に対する興味や憧れを一手に引き受けさせられていたのかもしれない。
私が、男子たちを力ずくで止めたこともあった。運悪く間に合わなかった時もあった。
いつも、瑠香はその場にひざを抱えて、うずくまって声も出さずに残りの涙を流した。
私が一番憶えているのは、そんな時、彼女が最後に見せるお決まりの笑顔だった。
泣いているのに、悔しそうに手をぎゅっと握っているのに、私に向けて「まただ」とつぶやいては優しい微笑を浮かべていた。私が「どうして?」って何度も聞いても「うん、うん」と頷いてはその微笑だけ返した。そして、どうしてか私の頭を撫でた。
困ったような笑顔。
そう。
今、目の前に拡がる景色を見つめている瑠香は同じ笑顔をこぼしていた。
「聴いてる?」
私は、瑠香に確かめた。
「聞こえてますかぁ?」
どこかおどけたような口調で繰り返す。
瑠香は、困った笑顔のまま一つ深呼吸した。
「また困ったような顔してんじゃないの?」
「してないよ」
今度は、きちんと音として聞こえる返事をした。
あの頃から変わらない優しい声だった。
「いつもそうだった。困ったような笑顔を見せて、こっちはさっぱり意味不明。何考えてんだか…」
ほんの少しだけ間をあけて、私は瑠香に話しかけた。
「困ってなんか…」
瑠香は、慌てたように視線を泳がせながら言った。ハの字になった眉に加えて目まで細めて、まるでくしゃくしゃにしてから広げた似顔絵みたいな顔をした。
私は、そんな瑠香を気にせず続ける。
「なんていうんだっけ、そういうの。自嘲ってやつ?どこか諦め入ってるような笑顔」
「そんなことない」
瑠香は、少しだけ頬を膨らませて言う。
「そんなことないって言った」
私は間髪入れずに、きっぱりと言った。
瑠香は、言い返さない。
「どうしてわかるかって?私を誰だと思ってんのよ?」
「…慧?」
少しだけ不安そうに瑠香は答える。
「そう。あんたの大親友様よ」
私は、きっぱりと自信に満ちた口調で言った。
瑠香は、半ば諦めたようにため息をつくと、「うん」と頷いた。またあの困ったような笑顔が零れ落ちた。
「ほらっ。またそういう顔した」
私は、少しだけトーンを上げた声で言った。
きっと笑っていた。
そして、瑠香は困っているような笑顔をしている自分に気づいて、今度は少しだけ頬を赤らめた。
遠くから、また電車の音がする。
音は不思議だ。近づいてくれば何かを運んでくるような、そして遠ざかると何かを持っていってしまうような気がする。
まるで、そう、電車。
瑠香は、自分を落ち着かせるように、また一つ深呼吸をした。
その瞬間、そう一瞬だけ、鋭い目を見せた。
時々こういう目を見せることがあった。別にどこを見ているわけでもない。言うなれば自分の奥底にある何かを真剣に見つめてるようなそんな目。そこには、いつもの困ったような笑顔も弱弱しい部分は微塵も感じられなかった。
瑠香が振り向くと、そこには舗装された並木道の下り坂が続いていた。コンクリートの道と整然と並んだ樹木が、昔と今の境界線のように感じる。少し前までは、普通の砂利道で、そこかしこに雑草が生えていて、土草の香りが季節を感じさせてくれていた。今では「心地よい暑さ」が、「ただ暑い」に変わってしまったように思える。
昔と今。
そこには、どうしようもなく流れていく時間があった。
「あのさ」
瑠香が再び歩き出すのを待っていたかのように、私は話しかける。
「やっぱりこっちが引っ張らなきゃ出てこないよね」
「そんなこと…」
「ある」
瑠香が真顔でつぶやいた言葉は、最後まで言わせてもらうこともなく、きっぱりとした声で遮られた。
「今日もきっとそうだったんでしょ?行ってやらなきゃ、あんたはきっと出てこない。また部屋の中で塞ぎ込んで、どうにもならない世界を見つめて、一人取り残されていくなんて、どうでもいいことを考える。でしょ?」
そう促されて、瑠香は少しだけ困惑しているような顔を見せた。
「違う?」
うつむいた瑠香に、私は明るい口調で確かめる。
「私は…」
瑠香が真剣な眼差しで何かを言おうとしたその時、どこからかカチャリと無機質な音がした。同時に、瑠香の歩いていた足がすっと止まった。
その時、さっきまで聞こえていた電車の音が、既に聞こえなくなっていたことに気付いた。
2
並木道を抜けて小高い丘の頂上に着くと、今までの舗装されたコンクリートの道が消え、あたり一面土と草が拡がっていた。とはいっても、昔のようにただ鬱蒼と茂る原っぱとは違い、そこには作られた自然が根を下ろしていた。まるで牧場の放し飼い(それは、限られた範囲という前提がある)のように、木製の柵がもともとあった自然との境界線を上手に描いていた。
瑠香は、頂上に着いた喜びと同時に、サンダルの中に入り込んだ砂利を、うまいこと履いたまま取り除くことに必死になっていた。
相変わらず困ったような顔をしている。さすがに、上り坂が長く続いていたせいか、額には汗が光っていた。
「着いたね」
私は、さらりとした口調で言った。
「うん」
瑠香は、まだ砂利が取れないのか、気持ち半分といった具合の生返事を返した。
「さて、問題」
「え?」
突然、切り出された言葉に瑠香は、片足立ちの状態から見事にバランスを崩し、その場に尻餅を付いた。
「ここは何処でしょう?」
響いた鈍い痛みに少しだけ目を潤ませていた瑠香は、投げかけられた質問に、はっと息を呑んだ。そして座ったまま、ふと目の前の景色を見上げた。
木々が、ザワザワと鳴いた。
丘の中央。一番背の高い木が、昔と何も変わらない姿でそこにいる。そこだけは、瑠香があの頃過ごした景色のままだった。
「チチチチチ」
私は、予告なしにカウントダウンを始めた。
瑠香はそれに気づいているのか、いないのか、か細い声でつぶやく。
「秘密の…場所?」
また、瑠香の目が少しだけ潤んだ。もう転んだ痛みはとっくに消えていたはずだった。
瑠香はそっと自分の目元に触れた。
「想い出の場所」
今度は、質問に答えるようにしっかりと告げた。
すると、それに答えるように、私は、少し高くしたトーンで「きっと、正解」と笑い声交じりに言った。
それを聞いて瑠香は、「よかった」とそっとつぶやいた。
「憶えてる?」
「うん」
「お疲れ様」
「大丈夫」
お互いの気持ちを確かめ合うように言葉を交わす。
瑠香は、安心したような笑顔を見せると、未だに座り込んでいた自分に気づいて照れくさそうに立ち上がり、服に付いた土草を丁寧に払った。
そして、改めて、久しぶりに来た場所を見回した。真っ直ぐとした芯の強い目だった。
「あのね?」
今までに比べ、少し優しく私は話しかけた。
「結構、気遣ったんだよ。予定表を作る時。家を出る時間から、電車の発車時間。待ち時間。休憩場所。そこで過ごす時間。トイレ休憩。全部。」
「うん、すごい」
「すごい」
二人の言葉が重なった。
瑠香は、刹那驚いたような顔をしてから、吹き出して笑い声を上げた。しかし、その声も笑顔もすぐに止み、優しさと不安が混じったような表情だけが残った。
「無事着いたね」
瑠香の様子を気にしていないように、私は明るく言った。
「慧のおかげだよ」
瑠香は、目を瞑って答えた。
「念のため確認。これからのご予定は?」
私が声のトーンも変えずに続けると、瑠香はポケットから一枚の折りたたまれた便箋を取り出し丁寧に開いた。そこには、見覚えのある小さな文字でびっしりと予定が書かれていた。
「えっと…とりあえず…」
「そう」
今度は、瑠香も驚くことなく、二人、声を重ねた。
「休憩」と。
遠くから電車の音が聞こえた。