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第一章

梅雨の雨が降り止んだ、六月二十日午後八時少し過ぎ、外灯の少ない細い道を魚住孝祐は歩く、長く降り続いた梅雨の雨が止み、辺りには虫たちの合唱が響く、ところどころのひび割れたコンクリートに雨水が溜まりそれが月明かりを受け輝いている、今まで続いた梅雨のじめじめとした、蒸し暑さが嘘のように退き、曲がり角に置いてある橙色の道路反射鏡には、規則正しく点滅を繰り返す外灯だけが映し出されている、魚住は進めていた歩みをいったん止め、空を見上げる、都会と比べるとここはまだまだ田舎であるおかげか、月が輝き、星は瞬いていた、再び暗い道に向き直る、昔どこかで聞いたことがあるが、星が見えないのは地球が明るくなったからだと言う、だがここの風景だけを見ているとそんな話が嘘のように思える、立ち止まってみると、夜風が心地よい。

魚住は一息ついて再び歩みを進める、目的地はもうすぐそこだ、最近運動不足のためか、これしきの距離を歩いただけで少し息が上がってしまっている、情けない限りだ、少しは運動することも必要なのかもしれない、そんなことを何気なく考えている間に目的の場所である日之出小学校が見えてくる、なぜこんな時間にこんな場所に用事があるのかというと、それは今年の四月に届いた、一通の手紙へとさかのぼる、差出人は田中裕児(たなか ゆうじ)、そこに書かれていたのは、小学校同窓会開催のお知らせについて、そして最後の一行に「当日はタイムカプセルを掘り出します」と書かれていた、タイムカプセルといえば魚住が小学校を卒業のときクラスの皆で校庭の隅にある、大きな金木犀(きんもくせい)の下に埋めたものである、確か中には「大人の自分へ」という手紙を入れたはずだが、自分で書いたはずのその内容を覚えてはいない。

そもそも、なぜこんな時間に同窓会をするのか、という疑問が残るが、まあそこはついてから、手紙を送ってきた田中裕児に聞いてみることにしよう、日之出小学校の校門はどうやら開いているようだ、そこから学校の敷地内に入る、周辺は一戸建ての民家とアパートが多せいか、蛍光灯の灯りがちらほら遠くに見える、確か集合場所は学校の職員玄関、校門から入ってすぐの場所だ、前には人だかりができていることが分かる、もう皆集まっているようだ。

「よう」

その集団に一声かけ近づいていく、何人かがこちらに振り向き手を振っている、懐かしい顔ぶれだが、流石に小学校の頃の仲間ともなると顔と名前が一致しにくい。

「お、魚住か、遅いぞ」

その集団から抜け出しこちらに話しかける人物が一人、手に持つ名簿のようなものに丸をつけている、当時から老け顔だったので、昔とあまり変わっていない、この同窓会の幹事を務め、招待状を送ってきた人物、田中裕児のようだ。

「おう、みんな早いな」

魚住は片手をあげて挨拶を返す。

「いや、お前が遅すぎるだけだ、時間にルーズなところ、昔から変わらないな」

「まあ、こればっかりは、治らん」

「重病だな」

田中は呆れたと言わんばかりに肩をすくめる、確かに携帯の時刻を確認してみると、もう始まる時間を十分程過ぎていた。

「よし、多分全員そろったかな?」

皆に聞こえるよう田中が大きな声で聞く。

「いや、まだ沢村先生がいらっしゃってないわ」

そう言ってこの暗闇の中、よく通る声で返答したのが、林千佳子(はやし ちかこ)のようだ、どうやら当時学級委員をしていた二人が幹事をしているらしい、昔は眼鏡を掛けていたのだが今はコンタクトになり、髪も短くなっていたので、一瞬誰かだかわからなかったが、昔からのよく聞こえるアナウンサーのような特徴的な声でなんとか見当がついた。

「あれ、ほんとうだ、沢村先生が遅刻ってなあ魚住じゃあるまいし、ごめん一度先生に電話してみるから、始めるのはもう少しだけ待って」

と言って田中は携帯を掛けるのと、確認のために、校門のある方向に歩いて行った。

「久しぶり、沢村先生が遅刻なんて驚きだね」

そんな田中の姿を何となく見送っていると、隣から突然話しかけられる、声を掛けられたのはいいが、彼女が誰なのかどうしても魚住はどうしても思い出せなかった、肩まで伸びた髪が夜風になびき、整った顔立ちを月明かりが照らしだしている、彼女の前では月や花壇に咲く花は、閉月羞花(へいげつしゅうか)に等しく、綽約多姿(しゃくやくたし)な容姿を、つい一点に、無言のまま見入ってしまった。

「おや、久しぶりの再会に、感銘し涙腺のダムが決壊するのを抑えているのかな、それとも私の名前が出てこなくて困り果て冷や汗を掻いているのかな?」

ずいっと見上げるように顔を近づけこちらを一点に見つめながら彼女は流暢(りゅうちょう)に言葉を(つづ)る、後者なのだがこうも見つめられてしまうと、切り出すのが難しい、できれば誰かの助け船がほしいのだが、周りを見回そうにも、彼女から視線を外せない感覚に陥った。

滝本彩子(たきもと さいこ)だよ」

ひと時の間が過ぎた後、そう言って彼女は視線を外し、髪を掃って言う。

「おいおい、酷い奴もいるものだ、クラスメートの名前を、ド忘れするなよ、俺は今でも全員覚えているぜ」

横から素早く会話に乱入してきたのは五百蔵信司(いおろい しんじ)小学校時代から今まで交流がある一人だ、彼は県外の医学系の大学に在籍しているが、今日の同窓会のために帰って来ると前日電話で聞いていた、身長は魚住より高く、かなり調子の良い性格でその口からは歯の浮くような一言が簡単に湧き出してくる、その台詞臭い言い回しと眉目秀麗な顔立ちが相俟(あいま)って女性関係の問題が後を絶たない、だが彼のおかげで完全に思い出すことが出来た、彼女の名前は滝本彩子、小学校最後の学期に隣同士になり良く話した覚えがある当時はどちらかというと地味だった印象があるが、五百蔵の一言を聞く限りでは間違いだったろうか、だが彼女の今の姿は五百蔵の言うとおり驚くほど綺麗だった。

「わわっ、勝手に話を進めるな、滝本彩子さんでしょ、ちゃんと覚えているよ、失礼な」

「嘘つけ、失礼はどっちだよ、声が上擦っているぞ」

まさに五百蔵の言うとおりであった、ぐぅの音も出ないとはこのことだ、魚住は「うっ」

と、唸ったまま言葉に詰まってしまう。

「う、ご、ごめんなさい、滝本さん、本当は思い出せませんでした」

魚住は我に返ると、慌てて滝本に向き直り頭を下げ謝る、この時ほど自分の記憶力の悪さを改善したいと思ったことはない。

「あーあ、酷いなぁ」

そう言って滝本彩子は、微笑む。

「その本当に、ごめん」

「ふふ、ごめん、ごめん、ちょっとからかっただけ、気にしてないよ、魚住君、五百蔵君改めて久しぶり、元気にしていた?」

「もちのロンだよ」と五百蔵は答える、というより「もちのロン」なんて今どき使う奴がいることに魚住は驚いた、「まあ、それなりかな」魚住はきまり悪そうにありきたりな返答をする。

「まいったなあ」

田中が校門のほうから戻って来た、どうやら沢村先生に電話が繋がらなかったようだ、携帯の画面に目を落とし画面を確認している。

「つながらないのか?」

と田中と話しているのは伊熊弘樹(いくま ひろき)、小学校時代はみんなのガキ大将的立場だったと魚住は記憶している、彼の性格上苦手なタイプであり、勝手に水と油のような関係と定義づけている、要するにあまり関わり合いにはなりたくない存在である、ふとなぜ自分はそんなことばかりは覚えていて、滝本彩子のことは思い出せなかったのかという考えが浮かぶ、この魚住孝祐という人物を簡単に分析するにあたり、悲観的面が強く保守的な性格をしているのだろうという結論が即座にあがったが、そんなマイナスな自分を即座に振り払う。

「もう先にタイムカプセルを掘り出しちゃおうよ」

シャベルを持った江藤直美(えとう なおみ)が田中に話す、彼女は魚住と同じ大学であり同じサークルに所属している、今日の同窓会に参加することは事前にメールで聞いていた、茶色く染めた短めの髪に大きな瞳が特徴的であり、性格は男勝りの行動派で低い身長からは考えられない程のポテンシャルを誇る、そんな江藤の意見に周囲は魚住を含めて賛成のようだった、第一この場所でこれ以上待っていても(らち)が明かない。

「そうだな、とりあえずそうしますか」

田中裕児は頷いてシャベルを手にする、タイムカプセルの埋めてある校庭の隅、用具倉庫の隣にある大きな金木犀の下に移動する、地面の土は連日の雨のお陰で少し湿っている、集団の中間から魚住、五百蔵、滝本達が続いて行く、すると江藤が前から引き返してきた。

「五百蔵君に滝本さん、おまけに魚住、久しぶり」

「わぁ、お久しぶり江藤さん元気だった?」と滝本が答え、「江藤ちゃん、久々」と五百蔵もいつもの調子で答える、魚住は自分の扱いに文句を言いかけたが、ばんと背中を叩かれ口を(つぐ)んだ、後ろを向くと伊熊がこちらを向いて頬を吊り上げている。

「よお、お前らひさしぶりだな、元気だったか?」

伊熊は一般的なつまらなくありきたりな質問をしてくる、叩かれた背中を手でさすりながら、顔を(しか)めるが、そんなことはお構いなしに伊熊は他の三人と喋っている、魚住は軽くため息をつき「はあ、ついてない」と独り言を呟く。

皆で金木犀をとり囲むようにして集まり、田中と伊熊がシャベルで土を掘り起こす、魚住は皆が集まっている後ろの用具倉庫に寄りかかりそれを眺めていた、金木犀にしては大きいのだが、久々見みたその木は昔より随分小さく感じた、こうやってまじまじと見てみるとだいたい小学校の校舎二階ぐらいの大きさである、湿って少し泥濘(ぬかるみ)を残した地面は簡単にシャベルによって(えぐ)られていく。

「ねえ、魚住君、タイムカプセルに入れた手紙になんて書いたか覚えている?」

横に立った滝本が質問してくる。

「いや、それがなんだったか全然思い出せないんだ…」

背中をさすりながら魚住は答える。

「魚住が覚えているわけないよ、滝本さん、こいつ年から年中ボケっとしているもん、多分きっと、今日食べた昼飯も既に忘れかけているよ」

「失礼な、流石に今日食べたご飯ぐらい、覚えているよ」

余計なことを言うなと思いながら、横から会話に乱入してきた江藤に言い返す、彼女は悪戯する子供のような顔でこちらを見て無邪気に笑っている。

「本当に? じゃあ今日は何食べたの?」

「何も食べてない、金銭的理由で昼ご飯抜きでした」

魚住は肩を竦めて言う、最近少し出費が(かさ)み財布の中が寂しくなっていたので、昼ご飯は抜くことにしていた。

「ええ、よくそれで生きていけるな、私だったら一食抜いただけで、餓死する自信があるよ」

江藤は舌を出し信じられないといった表情で魚住の顔を見る、彼女にとってそんなに驚くことだったのだろうかと魚住は内心可笑しく思った。

「あいにく、俺は江藤さんと違って食いしん坊体質じゃないから一食二食抜いたって、大丈夫だよ」

「なんだ、それじゃあ私がちっちゃいくせに、食いしん坊だってきこえるんだけど」

「いや、いや、そんなことは、断じて気の所為(せい)だよ」

先程のささやかな仕返しという点での目標は達成されたといっても過言ではないと魚住が満足している隣で、江藤は頬を河豚(ふぐ)のように膨らませ腕組をしてこちらを睨んでくる、そんな二人の会話が面白かったのか、滝本は可笑しそうに笑った、彼女は今度、江藤に同じ質問をする。

「ちなみに江藤さんは何を書いたか覚えている?」

「うーん、そういえば、なんて書いたかな……」

すかさず魚住は江藤に追い打ちをかける。

「え、俺のこと、馬鹿にしときながら自分も覚えてないの?」

「う、うるさい、魚住だって覚えてないくせに」

江藤をからかうのはいちいち突っかかってくれるので、反応が良く面白い、うろたえる江藤に滝本に滝本が助け船を出す。

「ごめん、ごめん、変なこと聞いちゃって、私だって何書いたか覚えてないから、そんなことで喧嘩しないの」

「だよね、だよね、滝本さん、普通小学校の時書いた作文なんて覚えてないもん」

「おい、おい」

魚住は呆れたという表情をして、未だに汗を流して掘り進める田中と伊熊に視線を移す、まだタイムカプセルは見つからないのだろうか、穴は結構な深さまで掘られていた。

「まだ、見つからないのかな」

滝本は呟く、確かに埋めた正確な位置までは解らないものの、そろそろ見つかっても良いはずである。

「タイムカプセル掘り出したら、近くの居酒屋で飲み会らしいけど、時間とか大丈夫なのかな」江藤は自分の腕時計で時間を確認している。

「それ、見えるの?」

魚住は江藤の腕時計を横からのぞくが、暗過ぎて針は見えない。

「暗いと針が光るから、目を凝らせば、まあ何とか」

「へえ、今何時?」

「うーんと、八時半過ぎぐらいかな」

「ふーん」魚住は自分で聞いておきながら、特に興味が無いといった適当な返事をして、田中と伊熊の方向を何となく眺める、二人はまだ頑張って金木犀の周りを掘っている、シャベルは二つしかないらしく作業は進んでいないようだ、前で五百蔵と林達が話している姿が網膜の端に映る。

「お、これじゃないか」

突然田中の声が小さく響く、すぐみんな田中の周りに集まり興味津々に落ち窪んだ地面に目を向ける、興味はあったものの、動くのが面倒だったので、魚住は花壇の横にある体育倉庫の壁にもたれ掛かり、遠巻きにその様子を眺めていた、江藤は声を聞くと同時に一目散に一番前を目指し駆け出していってしまった、滝本は何故かどこか違う方向を見つめている、あまり興味がないようだ、前の一団で何やら歓声とも奇声とも区別のつかない声が響く、誰が鳴らしたかもわからない口笛が夜空に溶ける、タイムカプセルが見つかったようだ。

「どうやら、あったみたいだね、滝本さん」

滝本は両手を組んで、顔の前に上げ微笑む。

「そうね、何と書いているのかとても楽しみ」

そう言って彼女は、ゆっくりとその一団の中に溶け込んでいった。

「ほんと、なんて書いたかな」

魚住は独り言を呟くと、その場に突っ立って目を細める、そこから中身が見えないことは百も承知だったがあの一団の中に入っていくのが何より億劫(おっくう)だったのでその場で待機する。

「早く、開けてみようぜ」

「待て、待て、あんまり時間が無いから、開封は飲み屋に行ってからな」

早く開けたそうな伊熊を田中が制する姿が見える、どうやら開けるのは飲み会の会場に移動してからのようだ、周りからは「えー」とか「ぶー」とかいうありきたりな批判の声が上がっている。

「そういえば、移動するなら沢村先生にもう一度連絡してみたら?」

佐々木が思い出したように提案する。

「まったく何やっているのだか、あの先生は」

特にどうでも良いといった調子で五百蔵は独り言のように呟く。

「まあ、少し心配だな、しょうがない、もう一回連絡をいれてみるか」

田中はジーンズのポケットから携帯電話を取り出し電話を再び掛けようと指を滑らせる。

「まさか、道に迷ったとかねーだろな」

伊熊はそう言って缶で作られたタイムカプセルの土を払い落している。

「やっぱり、繋がらないな」

田中がぼやいている、魚住には田中の掛けている電話の発信音が聞こえる、これは送っている音か送られている音か、ここから電話を掛けている田中までの距離は最低でも15m程離れているので、聞こえる筈はないだがその機械的な音は確かに魚住の耳まで届く、魚住は耳を澄ます。

――なんだ、携帯の音か? 何処で鳴っている? 後ろ? 真後ろから着信音が聞こえる、何故、どうして、俺の今いる場所の後ろには、のっぺりとしたコンクリートの壁しか無いはずだぞ――

音は中から脊髄を通って、全身に響いてくる、静かにそして鋭利に、魚住は振り向きそっと壁に手を当てて、コンクリートで出来た無機質な壁を見つめる、音は止んだようだ。

「やっぱし、繋がらないみたいだ、とにかく居酒屋に移動してもう一回掛けなおしてみるか」

「お、おい、た、田中もう一度沢村先生の携帯に掛けてみてくれるか」

魚住は大声で叫ぶ、少し声が上擦ってしまった、兎にも角にも理解が追いつかない、何故、体育倉庫の中から携帯電話の音がしたのか、何故、田中が電話を切った途端に、音が消えたのか、理解できているのに、わからない、奇妙な感覚に自分が陥っている、周りから見たら、何故、魚住が奇妙に上擦った声で叫んだのかも、理解できていないだろう、魚住のいる方向に自然と注目が集まる、辺りには、夏虫の音色がさめざめと聞こえる魚住は何故、自分がこんなにも焦っているのかわからない。

「なんだ、魚住変に大きな声なんか出して、まあ、もう一回掛けるぐらい、別にいいけれど」

また、田中が電話を掛けるべく、携帯の上で指を滑らせ、耳に当てる、すると少し間を置いてまた、その無機質なコンクリートの壁の中から電子音が聞こえてくる、静かにそして

鮮明に。

「おい、どうした、魚住、壁なんかを見つめて?」

「それが、どうやら、なんていたら良いのか、沢村先生の携帯電話がこの中に有るみたいだ」

「は?」

田中は事情が呑み込めない様子で携帯電話を耳から離し魚住に近づきながら答える。

「いまいち、言っていることが、理解できないぞ」

伊熊も笑いながら近づいてくる。

「え、いや、その、用具倉庫の中に沢村が隠れているって言うのか、そんな奴だっけ」

伊熊の言うように、沢村教員は当時、小学校でも有名な厳しい先生であった、冗談めいたことをする性格の人間ではないと、うっすらと記憶している。

「そんな、先生ではないだろう、あの先生は」

魚住は少し落ち着きを取り戻して、そう言う。

「まあ、確かに」

田中は首を縦にゆっくりと振る、携帯の着信音はいつの間にか止んでいた。

「聞こえないぞ」

伊熊はやっぱりと、馬鹿にしたように、魚住の顔を見る。

「いや、どうやら、留守番電話に繋がってしまったようだ、もう一度掛けなおしてみる」

再び田中は携帯電穂のディスプレイの上で滑るように指を動かし、耳に電話を押し当てる、魚住、伊熊、田中の三人は、用具倉庫の出前で三人並んで立つ、ひと時の間が開き、また無機質な電子音が流れ出す、静かにそして深々と冷たい音がじわりじわりと波打ってくる。

プルルルルル、プルルルルル、プルルルルル、プルルルルル、プルルルルル

「ほ、本当だ」

「た、確かに、この中から聞こえているみたいだな」

「嘘―」

「マジで」

「あの、先生、いつの間に、こんなユーモアセンスを身につけたのか」

「おいおい」

「なんで、中に」

「携帯電話を、中に落としたとか」

「そりゃ、ないだろ」

「とりあえず、開ける?」

「隠れているとしたら、面白すぎるな」

口々に様々な声が飛び交っている、いきなり騒がしくなった、夜の学校は僅かな喧騒に包まれる。

「とりあえず、開けてみよう……」

「でも、シャッター閉まっているぜ」

伊熊は軽くシャッターを小突く。

「鍵掛かってないだろ、たぶん、中に隠れているわけだし」

魚住はシャッターの取手を掴み、持ち上げようとする、だが建てつけが悪いのか、単に魚住の筋力が貧弱なだけか、なかなか上げることができない。

「あ、あれ、もちあがらない?」

そんな魚住を見かねて伊熊が手伝う。

「相変わらずだな、手伝ってやるよ」

伊熊と魚住は渾身の力でシャッターを持ちあげる、金属が擦れる音がして、ゆっくりと持ち上がる、中には今は使うことの無い、懐かしい跳び箱やサッカーボール、バスケットボールそれにカラーコーンなどが無秩序に置かれていた、月明かりが小窓からやけに眩しく、室内を照らしている、地面に奇妙に影が広がる、それは黒い水たまりように、薄汚れていた、そのほぼ中心部、その暗闇に沈む、何かがある、魚住は背筋から汗が流れ、頭の奥でサイレンの音に酷似した耳鳴りがした。

「な、何だ、これは」

伊熊の狼狽し震える手が目につく、震える声が遠くで聞こえる、音が遅れて、塞ぐことのできない耳の奥に這いずり寄る、魚住はいきなりの出来ごとに脳の処理速度、解析速度が追いつかない、じっとその人形から目を離すことができなかった、彼はいつの間にか無意識の内に足を中に踏み出しその人形を観察していた理解するために、その人形の顔には覚えがあった特徴的な角張った頬に薄くなった頭、小学校の頃、自分達の担任であった沢村國仁であると、彼のどこかが考える、いつの間にか死体であるはずの「それ」の傍まで、魚住は近づきすき手を伸ばそうとしていた、伊熊が「それ」から目をそむけながら、そんな魚住を掴み引きずり下がらせる。

「ま、待て、馬鹿魚住、入るな」

その声を聞きふと我に返った魚住は、慌ててその場から下がる、その中に存在したのは紛れもなく、沢村國人であった、だが一つ認識として間違っていたのは、彼の周りには、血だまりが広がり、腹部は闇に淀んだ空虚の如く深い黒に染まっていた、辺りからは悲鳴とも、絶叫とも取れない唸りが常に響く。

「し、死んでいるのか?」

田中は青い顔をして、魚住に聞く。

「うん、沢村悪いけど、とりあえず警察と救急車を呼んでくれ」

「わ、わかった」

先程の雰囲気はどこに消えてしまったのか、この予想しない状況に、誰もが一様に放心していた、魚住は入り口前に近づく五百蔵に声をかける、彼も不測の事態に苦虫を噛み殺したような顔をしているが、幾分冷静なようだ。

「やっぱり、死んでいるよな」

「ああ、ここから何となく見える推測だが、どうやら腹部を刃物で刺されているみたいだな」

五百蔵は、外から中を注意深く、観察している。

「流石、医学部だな」

「この状況じゃ、誰でもわかるだろ、俺が素人目でいくら考えたところで意味がないさ」

「いや、そこじゃなくて、死体を見てやけに冷静なところがさ」

「いいや俺は表情を作っていないと顔にあまり出ないだけだ、魚住お前こそ、あの状況で中に入ろうとするなんて」

「こんな状況で、いささかおかしいかもしれないけど、何故か、いつもより随分落ち着いているんだ」

「そうか、とにかく、警察が車で現場を保存しなきゃならん、俺達素人が見てもこれ以上わかるわけがない、このままにしておく訳にもいかないから、シャッターを閉めよう」

「確かに賛成だ」

こうして、五百蔵と魚住は開けてしまった用具倉庫のシャッターを下げる、また金属音が大きく響き、そのパンドラの箱の蓋は閉められる、もう眼を背けることの無い現実を眼下に焼き付けながら。

「十五分ぐらいで、到着するそうだ」

それだけ聞こえるか聞こえないかぐらいの音量で呟く、林の「これ以上この場所の近くにいたくない」という意見に皆が賛成し職員玄関まで戻る、誰もがこの予想しなかった事態に焦燥し先程までの時間が遠い昔の出来事のように感じていた、一同に口数少なく警察の到着を待つ、田中は居酒屋にキャンセルの連絡を入れるためにまた電話をかけている。

「なあ、なんで沢村先生はあんなところで死んでいた? 殺されていたのか?」

そう言って職員玄関手前の階段に腰掛けている魚住の横に、伊熊が座る、先程木の隅で嘔吐した所為か健康的な表情は影を潜め、顔色が悪い。

「そんなこと、俺が知るわけが無いだろう」

「だよな、そうだよな」

それだけ呟いて、伊熊は再び項垂れてしまった、魚住は一分がいつもの数倍長く感じる不思議な感覚に陥っていた、やけに夏虫の声だけが透き通るように聞こえてくる、今になって少し手が震えているのが解る、先程まで引いていた汗が、決壊したダムのように噴出してくる、自分の体は少なからず動揺していることに、ここで初めて自覚することができた、だが未だに魚住はこの出来事がやけに非現実的に見えていた。

「大丈夫?」

滝本が魚住の隣に有る階段に座り、心配そうに顔を覗き込む、月明かりが彼女の姿を照らしだす、だがその表情は先程と比べ陰りを帯び沈んでいるようだ。

「滝本さんこそ、大丈夫?」

「うん、なんか、おかしいんだ、凄く怖いのに変に落ち着いているっていうのかな、こんなこと言ったら、魚住君、私のこと変な奴って思っちゃうかもしれないけど……」

「いや、そんなことないよ、いきなりだったし……」

「うんそうだね、私も江藤さんみたいに、素直になれると良いんだけど」

そう言って、滝本は江藤がいる方向を見る、彼女は林達に支えられて、顔をくしゃくしゃにして泣いている。

「俺も、変に現実味が無い、脳は理解しているのに、心は今の事態を認識しないようにしているみたいな感覚かな?」

「うーん、確かにそんな感覚に近い気がする、そう、なんだかちぐはぐ、そうちぐはぐなんだよね、今の私は」

そう言って滝本は月が爛々と輝く空を仰ぐ、そうしていると、遠くから微かにサイレンの音が聞こえてくる、やっと警察が来たようだ、携帯電話の時計を見てみると、ちょうど先程の時間から十五分が過ぎようとしていた。


文字数が多くなってしまったので、誤字脱字がないか心配です,

もっと語彙力を上げたいです……。

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