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プロローグ

九月二十九日午後二時半、魚住孝祐(うおずみ こうすけ)は久しぶりに大学から長い坂道を下り住宅街近くにある雑居ビルに向かう、ビルの名誉のために複合ビルと呼んだほうがよいのかもしれないが、それは五十歩百歩の違いでしかないと魚住はつくづく思う、用事があるのはそこの二階、柚留生(ゆるき)探偵事務という、なんともいかがわしい名前の場所である。

 古びてくすんだ色に変化した煉瓦の壁を見ながら、昼なのにうす暗い階段を二階までのぼる、足取りは軽い、この夏に様々な出来事があり心の整理のつかない日々が続いていたが、もう淡い昔の思い出のように、徐々に過去の思い出になろうとしていた、それは手に持った氷が溶けて水になるように自然的でありふれた現象であり、溶けて水になったそれは、少しの冷たさの余韻を残し魚住の手の中から少しずつ流れ出していた。

 相変わらず運動不足の魚住は、少し乱れてしまった息を整えるために深呼吸をしてから、ドアの横にあるインターホンを鳴らす。

「はい、いまあけます」

電子音から少し遅れて、ドアの向こうから返事が聞こえる、魚住はドアから一歩下がり、何気なく階段と格子の隙間から見える景色に目を向ける、外から差し込む午後の日差しには茹だるような真夏の暑さをもう感じることはできなかった、小さな季節の変化にふと気付き少し感傷に浸っていると、ガチャリと鍵の外れる音がして事務所のドアが内側に開く。

「おや、お久しぶり? ですね魚住さん」

そこから、宇佐美夕季(うさみ ゆき)の顔がのぞく彼女は魚住と同じ大学の同級生であり、この事務所のアルバイト兼助手である、長く伸びた黒いきれいな髪に、切れ長の猫の様な目、七分袖の白いカーディガンと焦げ茶色のロングスカートが絶妙に彼女の雰囲気と適合している。

「なんで、お久しぶりに疑問形がつくんだい?」

彼女が言った第一声の「お久しぶり」のアクセントは聞き間違いじゃなければ疑問形だった。

「私は大学で、昨日で全四回目になる魚住さんを、お見かけ致しましたので、どちらかと言うと、お久しぶり、という表現は適切ではないかと、ついつい考えてしまいました」

「大学で見かけたんなら、声ぐらいかけてくれても良いじゃないかと思っちゃったりなんかしちゃったりして」見かけた回数まで覚えていてくれたことが、嬉しかった魚住は、少しおどけて質問を試みる。

「いえ、時間がもったいないです」と冷たい回答が即座に返ってきてしまったので、痛い目を見ない内にこの不毛な話題を切り変える。

「ですよねー、えっと、今日突然きちゃったけど、柚留生さん、いる?」

事務所のソファーに腰掛けざっと周りを見渡しながら流し台のある場所に歩いて行った宇佐美に質問する。

「いえ、今でかけています、少ししたら戻ると思いますけど、待ちますよね?」

宇佐美は流し台の有る場所へ歩いて行くお茶の準備をしているようだ、近くの店で購入し、お土産として一緒に持ってきたケーキ屋の箱を目ざとく発見したのだろう。

「まあ、もちろん待つよ」と言いつつ箱を開封する、中にはシュークリームが四つ入っている、中からそっと取り出しテーブルに二つ並べる。

ふと久々に訪れた室内を見回す、今座っている安物のソファーや無駄に大きな柚留木のディスクなど夏に初めて来たときから大きな変化は見られなかった、この事務所は立地の関係で日当たりが悪いらしく、室内は昼をちょっと過ぎぐらいなのに、もう蛍光灯が点いている。

「シュークリームですね、ありがとうございます」台所から帰って来た彼女はテーブルに紅茶と玉露を置く「いや、お茶って」と魚住は驚き一瞬身を引く。

「魚住さん、まあどうぞ、それに言うなら、紅茶もお茶ですよ」

玉露がこちらに差し出される、どうやら魚住に一種のジョーク、悪戯のようなものを仕掛けようとしているみたいだが、彼女の変化に乏しい表情からは、真面目に持ってきたようにしか見えない。

「シュークリームにお茶って、なんだかなぁ…」と項垂れ、皓々と白い湯気が立ち上る玉露に目を落とす。

「一応お客様専用の良い玉露です」

「和洋折衷… なんか違う気が」

「あまり、ちまちましたことに気をとられていると、次回来た時にはペットボトルの蓋に飲み物を淹れて出しますよ」

魚住は、宇佐美なら本当に次回やりかねないと、彼女がペットボトルの蓋に並々と玉露を器用に淹れる姿を思い浮かべる。

「酷い、そして無駄に器用すぎる、嫌がらせだよ、」

「まあそれはそれとして、今日は、久々ですが、また、一種の面倒事ですか?」

 彼女の悪戯で始まった話題だった筈だが、他人が始めた話を遮るかのように、話題を即座に変え、宇佐美はいきなり酷い質問をする、彼女はシュークリームを驚愕するほどに上品に細かく切り分け、一欠片ずつ口に運んでいる。

「ええ、いきなり辛辣な質問だなぁ」と言って魚住はシュークリームを頬張る。

「ほらこれで、苦い、甘い、辛いが一挙に味わえて、お得ですよ、それっぽく言うと、味覚のバーゲンセールや― といった所でしょうか」

 宇佐美は、棒グルメ番組タレントが言いそうな台詞を、抑揚よくようの無い声で臆面もなく言い放った、だがこれが本当のグルメ番組なら降板間違いなしだろう。

「えっと、それギャグ?」驚いて魚住は宇佐美を見る。

「昨日見ていたテレビからヒントを得た、渾身のギャグです」

「うん、ハイセンスなギャグ過ぎて俺には、笑うポイントが分からないよ、宇佐美さんはマイペースすぎる…」

「それは、魚住さんが、自分のペースを基準にしているからです。自己中心的になってしまってはダメですよ」

 宇佐美が教え子を諭す教師のような口調でゆっくりと喋る。

「ええ、なんて言うか、今自分を棚に上げなかった?」

「私は、棚には上がりません、人の棚に隠してある牡丹餅を見つけるのが得意です」

「はあ… え?」

 虚を突かれたよくわからない宇佐美の例え話に、黙ってしまった、こういったところが一般の人と多少違った思考回路をしている宇佐美独特の会話術だ、突拍子の無いことを、空気を読まず口走ることがあり、そうかと思うと至極まともなことを考えていたりする、未だに彼女の思考パターンは、複雑怪奇かつ奇想天外であり、複雑に絡み解けなくなった電気コードのようだ。

「棚から牡丹餅ってこと?」

「この場合は揚げ足を取るほうが正しい気がします」

「揚げ足を取るのが得意って… 自分で言ったのに気がするって…」

 呆れて宇佐美の顔を見る、彼女は背筋をピンと伸ばした姿勢で、上品に紅茶を呑気に飲んでいるその姿はさながら、午後の優雅なティータイム、そんな題名の絵画に見えなくもなかった。

「で、要件は?」

 宇佐美は思い出したかのように話題を戻す。

「えっと、少しお願いがございまして…」

「ではそちらを、早く、簡潔にお聞きしましょう?」

「はい…」

 彼女のマイペースには、どうしても勝てないようだ、玉露を一口飲むと口内に残る洋菓子の甘味に渋味が足される、悪くない、そう魚住は思った、その時ガチャリと音がして扉の鍵が開く、どうやらここの家主が帰宅したようだ。

「ただいま」

「おかえりなさいです、先生」

 のそりと長身の男が入って来る彼こそがこの探偵事務所の名前にもなっている柚留生銀子(ゆるき ぎんこ)その人だ、探偵事務所を名乗っているが、探偵としての仕事より七不思議や都市伝説を扱う某オカルト雑誌などで書いている記事いわゆる、フリーライターとしての副業のほうが儲かっているらしい探偵がオカルトとは矛盾している気もするが、本人はいたって気にしていない、他にも数多くの副業をしているらしいのだが、詳しくは謎だ、名前に「子」がついているがれっきとした男性、実は良く見ると非常に中性的な顔立ちをしているが、散髪が面倒臭いという理由で伸ばしっぱなしの、ぼさぼさな髪に隠れてしまっている、眠たそうな目を来客者である魚住に向ける、着ているワイシャツが整っているだけに表情と格好が不釣り合いだ。

「おや、お客さんかい? 君は、えっと、うんと、あぁ、そうそう、魚住君だね、やあやあ、ようこそ、ん? そのテーブルに乗っているのは、あのケーキ屋の箱じゃないかぃ、そして君らが食べているのは、シュークリーム… 魚住君、僕の分のシュークリームは?」と帰ってきていきなり堰を切ったように話しながら、宇佐美の横に座り、魚住の返答を待たず、素早く箱を取り上げ開封する。

「あ、えっと、はい、柚留生さんのは、二つ買ってきました、あと、急にお邪魔してすみません」とりあえず、挨拶を返し様子をみる。

 宇佐美は「お茶入れますね」といって、また台所に消えていった。

「いや、まあ、暇だから全然いいよ、今日はどんな用事かい、世間話でも全然構わないよ、井戸端会議とか、一度はやってみたいものだね、まあこの辺に井戸は無いけれど」それだけ言って、柚留生はすごい勢いでシュークリームを取りだしがつがつと、食べ始めた、それはさながら一人大食い選手権でもしているかのようである、だが器用なことに全くクリームなどをこぼす様子はない、あっというまに一つ食べてしまい、もう一つのシュークリームに手を出そうとしている、すると宇佐美が玉露と急須を一緒にお盆に載せて運んできた、こちらも仕事が早い。

「ありがとう」

 お礼を言いながらいったん口に運びかけたそれをテーブルに置き、お盆の湯飲みを慎重に受け取っている。

 お土産のおかげで、柚留生探偵の機嫌はいいようだ、宇佐美とは正反対で、感情の起伏の激しい彼にとっては珍しい。

「さすがあの店の一品だ、美味い、そして玉露が合う」のんきに独り言を呟きながら、今持ってきた玉露を豪快に飲む。

――柚留生さんにも、また俺の時と同じでジョークかな?――

「俺も宇佐美さんに悪戯でお茶を出されましたけど、お茶と洋菓子って割と合いますね」

「お茶は基本的に何にでもあうよ、だいたい洋菓子にも抹茶ロールケーキとか抹茶カステラとか有るじゃないか」

――なるほど、先程はいきなり玉露を出されたから少し動揺したけれど、考えてみたら、そんなに悪い組み合わせでは無いな――

 魚住は、納得した素振で首を縦に振り頷く。

「先生は、お茶がお好きですから、先生に淹れるときはだいたいお茶ですね、魚住さんに持ってきたのは、一種のジョークを利かせてみました」

「まあ良いんだけどね、俺が入って来た時、思いっきりケーキ屋の箱を手に持ってるのをガン見してなのに紅茶じゃないもんなぁ、分かってたよ」

「魚住さんが入って来るなり、ケーキの箱を熟視していたなんて、それじゃあまるで、私が意地汚いみたいではないですか」

「違うの?」

「違います、ケーキお箱を熟視していたのには、きちんとした理由がありますよ」

宇佐美は相変わらず、無表情な顔と抑揚の無い声で話す。

「へーどんな、理由?」

 そこで珍しく宇佐美の会話が止まる、多分本当は理由を考えて無く、今即興で考えているのだろう。

「そうですね、魚住さんの顔が見るに堪えなかったので、仕方なくケーキの箱に焦点を合わせていました」

「酷、理由が酷い」

「冗談です、即興で考えたブラックジョークというやつです」

 やはり淡々とした声で話す、いつも話について行き難い宇佐美との会話だが、いつも以上に様子が変だ。

――そう言えば、宇佐美さんと会うのも、あの事件以来、初めてだ、そう今年の夏、経験した忘れようもないあの事件の… もしかして、気遣っている、俺を? まさか、でもジョークをこんなに言っているのはもしかして、俺を和ませようとか笑わせようとしている? うーん、表情と言葉づかいが一定すぎて、全然分からない… とりあえず聞いてみようか ――

「宇佐美さん、あの、えっと」

「どうしました?」

「もしかして、俺に気を遣っている?」

 一瞬の間が開いた後、宇佐美は瞬きを何度か繰り返し、無表情な表情を少しだけ崩す。

「ふふ、自分でも良く分からないですけれど、もしかしたら、そうかもしれないです… 慣れないことをするものではないですね」

 宇佐美は少しだけ口を斜めに曲げて、目を細めて笑う、それは自然的なのだが、どこか自分でも笑っていることに気が付いていないのではないだろうかと、疑ってしまうほど、一瞬で儚げな笑顔であった。

「ありがとう、もう大丈夫、もう大丈夫なんだ」

 二度、自分自身に言い聞かせ、分からせるように、呟く。

「いつもの魚住さんらしくは無いですね、成長期ですか?」

「いつだって、人は何かしらの成長を続けて行くものさ、多分ね」

 魚住は肩をすくめる、我ながら臭い台詞だったかと思い、照れ隠しに玉露を啜る、ちょうど柚留木探偵がシュークリームを食べ終わり、一息ついている、そろそろ本題に戻っても良いだろう。

「あの、柚留生さん、この前は本当にありがとうございました、早くお礼を言いに来ようと思っていたのですが、なかなか時間がなくて」

「魚住君、元気かい?」柚留生は聞く。

「はい、まあ、ぼちぼちです」玉露を飲んでいる柚留木を見ながらそう言った。

「ふーん、そうかいそれはよかった、それと別にこの前のことについて、僕にお礼を言わなくてもいいよ、僕は何もしていない、僕は事件についてのプロセスを少し手助けしただけだよ」

「それでも、それがなければ…」

「結末に不満かい?」すかさず柚留木が聞く。

「……まだ、わからないです、ですが、一つの決着には行き当たりました」

「ほうそれは?」

「この出来事を、一つの小説にしようかと……」

「それで今日来たのは、それが理由かい?」

「はい、お恥ずかしながら、こんな素人が描く小説に、柚留生さんと宇佐美さんを主要な登場人物として、出していいかという承諾をとりにきました」

「主要ねえ、僕は別にかまわない、一つ条件があるけど、宇佐美君は?」

「私もかまいませんよ、私も一つ条件がありますが」

「えっと、その条件とは?」と魚住は恐る恐る二人に聞き返す。

「私も完成したら一度読ませて下さい」

「そう言うこと」


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