こちら霊障特務課
そこは「霊魂」の存在が一般的に世間に認められた世界。
「霊障特務課所属 竜崎浅黄だ。現場に入らせてもらう」
霊により人に害が及び、それを公的に取り締まる組織が存在した。
「同じく霊障特務課所属 犬山蘇芳。入らしてもらいまスッ。って浅黄、ちょっと待てって!」
かつて人だったものが人に害をなす世界。それでも人は生きていく。
「やべぇ!予想以上に実体化がはやい・・・・・・。浅黄、結界がもたねぇ!!」
同じように時を生きた存在は生から解放せれ、死に迎えられ生に縛られた存在に牙をむく。
「おい・・・ちょっとまて!こんな状況で何銃なんて構えてんだよ!!」
死してなお「存在」するもの。そしてそれらを取り締まり排除するもの。
「排除する」
「後のことも少しは考えろ~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!」
世界は異常で歪。
「世界は死んで害をなすものまで面倒見るほど懐が深くはない。あるべき場所へと還れ」
光は何を導き、人は何を思うのか・・・・・。不条理と不公平をうちに抱えながらも憎らしいほどに世界はその有り様を変えようとはしない。
夕方 五時三十分 霊障特務課
その日の夕方。犬山蘇芳は非常に機嫌が悪かった。
「がるるるるっ!!」
狼のように唸りながら頭を掻き毟る蘇芳に部屋の中にいる誰もが哀れみの視線を送るが・・・それで終わりである。誰も助け船を出そうとはしない。
元々悪い目付きをさらに悪くしながら彼が睨みつけているのは気に喰わない上司でも無表情で非常識で無口なくせに皮肉や文句だけはスラスラ出てくる非常に気に喰わないでも顔だけは(腹が立つことに)理想の顔をしている七つほど年上の童顔の相棒でもない。
それは薄い。ついでに言えばそれ自体には殺傷能力も物理的攻撃能力も備わってはいない。そいつに備わっているのは精神的攻撃能力だ。
「報告書」
それがこいつの名前だ。
ただの紙、されど紙。こいつを文字で埋め尽くさないことには蘇芳はいつまでたっても机から解放はされず自動的に家にも帰れないということになる。
そこまで考えた蘇芳の眉が嫌そうに歪む。
それは嫌だ。ものすごく嫌だ。
ただでさえ少数精鋭の部署なせいで休みが潰れまくって家に帰れないでいるのだ。
蘇芳の脳裏にもう何日も逢っていない家族の姿が浮ぶ。
蘇芳は早くに両親を亡くし、五つ上の姉と三つ下の弟を筆頭に弟三人・妹四人に姉の旦那に去年生まれた双子の姪と甥という少子化の現代に珍しい大家族なのである。
にぎやかで楽しい大切な家族・・・・。だが致命的に貧乏だった。
子供達の教育費だけでも馬鹿にならない。いくら姉と義兄が働きに出ていても一家の生活はギリギリであった。
三年前、義務教育を終えようとしていた蘇芳は当然のごとく就職する気であった。が、姉と義兄の猛反対にあい蘇芳は家族と揉めていた時期であった。
「俺は高校に行く気はねぇ!働いて金稼いでそんで皆に楽な暮らしをさせてやりたいんだ!!」
「だから!お前がそんな心配する必要はないんだ!高校に行け!」
「そうだよ!お願いだから考え直して!」
連日連夜こんな会話を互いに持ちうる語彙を駆使して怒鳴りあっていた。
因みに、セリフの前が姉・後のが義兄の言葉である。
蘇芳は自分たちのために働く二人をどうにか楽にしてやりたかったし姉たちは蘇芳にそんな心配をかけたくなかった。
いつまでもいつまでも続くかと思われた家庭内紛争は意外な形で終結した。
ひょんなことから出会った現上司と相棒が追っていた事件に巻き込まれ、それまで気付かずにいた能力を開花させた彼を二人は霊障特務課にスカウトしてきたのだ。
条件として高校への進学と学費全額免除そして学生の間は学業優先、卒業後は霊障特務課に就職することを提示して。
願ってもない好条件に蘇芳は喰いついた。姉たちの願いも叶えられるし金も稼げる。
一石二鳥だ。その時はそう、思った。
霊障特務課という「霊」を相手にする特殊な仕事に最初家族の誰もが戸惑ったがどいう訳だが信頼を得た上司と相棒の言葉に最終的に家族は納得したのであった。
そして、今、蘇芳は少数精鋭と言う名の「人材不足」のしわ寄せを思いっきり被っていた。
この仕事確かに給料はいい。特殊で危険性も高いが蘇芳の性にあっている。
だが・・・・・。
「・・・・・・こんな面倒な書類さえなかったら最高なんだがなぁ・・・・」
霊障特務課に入って三年。何が嫌かって事件後に必ず待っているこれである。
蘇芳は机の上の書類を親の仇のように睨みつける。
埋めろ埋めるんだ俺!今日の午前中に担当した事件のあるがままを。
現場に着いた時点で対象は半実体化。物理的干渉能力を得つつあった。
うんうん。いい感じだ。
竜崎浅黄が問答無用で霊銃をぶっ放し、ほぼ力技で対象を浄化。その際、周囲への被害が甚大になった。終わり。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
最後の一文字を書き込むと同時にたらりと嫌な汗が蘇芳の頬を流れた。ペンを持つ手が完全に止まっている。
だ、駄目だ~!
真実そのままを書くとほんの数行で終わる。
しかもこんなものを出したら大目玉の上に始末書ものである。どうにか言い訳もとい整合性を捻り出して納得させないといけないのにこれでは・・・・。
頭を抱え、机に伏せる。気分は殆どやさぐれ状態である。
「大体、なんでいつもいつも俺が報告書を書かなきゃいけねぇんだ~~~~~~!!」
怒り狂って吼えてはみるが原因は分かっている。
相方の外見はどうみても十代、それも十八の自分より年下にみえるくせに実年齢が二十五歳という「詐欺」な外見の相方が面倒くさがって蘇芳に押し付けてくるからだ。
あの憎らしいぐらいに整った顔で・・・・初対面の時に蘇芳が不覚にも「好みだ」とときめいてしまった美少女顔を一ミリたりとも変化させずに一言。
「イヌ、書いとけ」
思い出した途端、怒りがムクムクと湧き上がってきた。
「俺は犬じゃねぇ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!」
苗字のせいで子供の頃から何度も何度もからかわれ続けた少年にとっては当然聞き捨てならぬ言葉を浅黄は放ったのだ。
心にわきあがる衝動のままに突然立ち上がり、叫んだ蘇芳にその場にいた全員から「うるせぇ!」「黙れ!」「こちらと張り込む明けだ、ボケ!」などと罵倒と物理的攻撃が加えられる。この部署殆どが男性で占められている上に揃って男の後輩には厳しい。
逆に女性には滅法弱かったりするので警察機構には珍しくこの部署は女尊男卑の傾向が強い。
「い、イテッ!ちょっと誰すか灰皿なんぞ投げたのは!!」
スチール製の灰皿が頭に直撃した蘇芳の背中を新たに入ってきた人物が叩く。
「おや~?どうされたのですか?そんなに怒って」
振り向いた先にいたのは三十代半ばぐらいの温和そうな男性。見ているからに癒されそうな空気をあたりにかもし出している。警察の中にいるより保育園で子供の相手をしている方が何倍も似合うこの男こそ、霊障特務課のトップ 鳥飼 青都係長その人であった。
万年笑顔と噂される笑顔がにこやかに蘇芳に向けられていた。
「・・・・・鳥飼係長・・・・・」
上司の笑顔に毒気を抜かれた蘇芳が大人しく椅子に座る。それに習うように同僚達も各々作業にもどっていく。一人取り残された鳥飼は「あれ?皆?結局なんだったの?」とうろたえているが誰も取り合わない。
「あ、蘇芳くん。報告書また押し付けられたんだね」
かまって欲しいのか後ろから鳥飼が手元を覗き込んでくる。
「そっす。・・・鳥飼係長はあいつとは付き合い長いんスよね?どうにかしてください」
憮然とした表情の蘇芳に鳥飼も困ったように頭をかく。問題の部下は蘇芳が来る前から報告書は書かず人に押し付けていたいわば常習犯だということを思い出したからだ。
「あはは。あの子がうちに配属になった時から知っているけどどうにもならないよ。だって浅黄に報告書を書かせたら一言「処理済み」しか書かなかったんだよ?それ以来あの子に書けとは言えなくなったね~~」
「それは・・・・・」
蘇芳の数行報告書よりひどい。
「やり直させてもどうしても「処理済み」以外書けないらしくてね・・・・。それで絶対に書かなくなっちゃったんだよ」
だからって相棒に丸投げっていかがなもんだよ。と蘇芳は心の中で突っ込んだ。しかもしおらしく頼むならまだしも「イヌ」呼ばわりだぞ?誠意ってもんを感じられない。
「ったく・・・・面倒くせぇ~女」
椅子の背もたれに体重をかけ天井を見ていた蘇芳だが逆さまに覗き込む少女と目が合いしばらく固まる。少女は人間味の感じさせない無表情で一言。
「誰が面倒くさい女だと?」
「のあっ!!」
突然降って湧いた声に蘇芳は思わず椅子から滑り落ちそうになる。目の前には明らかにサイズの合っていない黒い男物のロングコートに黒いブーツにズボンという純和風の一見美少女風だけど実年齢二十五歳の相棒・・・・竜崎浅黄が音もなくいつの間にやら部屋の中に立っていた。気配も足音もドアを開ける音すらしなかった。一体いつの間に入ったのかは蘇芳には分からない。側にいた鳥飼も一緒になってのげぞっていたのでこの場合どちらが異常だったのか分かってもらえるだろう。
「浅黄!!てめぇ!!気配もなく現われるな!!」
心底驚いたらし蘇芳の言葉に彼女の表情は変わらず無表情なりに肩をすくめ。
「気付かないイヌの鈍さを私のせいにするな」
「イヌ言うな!!」
浅黄は蘇芳のことをイヌと呼ぶ。本人は苗字を縮めたつもりだけのようだが呼ばれるほうからしてみれば飼い犬扱いされているようで非常に不愉快である。断固やめさせるべく何度も何度も「イヌ言うな!」と怒鳴っているのだが今のところ成果が上がっているようにはみえない。
「ところでイヌ」
言った先から再び「イヌ」呼ばわりである。蘇芳の中で何かがぶちりと音を立てて切れた。
「だ~か~ら~!イヌ言うなと言ってんだろうがぁ!!」
なんでわかんねぇかなこの女は!!
周りがにやにやと面白そうに見ているのにも気付かずに蘇芳は浅黄に顔を近づけすごんでみせる。だが、浅黄はささ波ほどにも動揺しない。ただいつものように考えの読めない目で蘇芳を見ていた。
蘇芳の額に青筋が浮ぶ。
「俺の名前は犬山蘇芳!いい加減に覚えろ!!」
「失敬な。お前の本名ぐらい覚えているぞ。イヌ」
「なら本名で呼んでくれ」
切なる願いは悲しいかな浅黄には届かない。
蘇芳の顔が大いに引きつる。
なんのこだわりがあってイヌに呼びに執着するんだ。お前はと蘇芳は言いたい。
本気でその場で膝をつきたくなる蘇芳に浅黄が無表情に首を傾げる。
「?なにを怒っているんだ。・・・・・・ああ、更年期障害」
「あほか!俺はまだピッチピッチの十代だ。なんで更年期障害にならなきゃならんのだ!」
年齢・性別からいけばその危険性が高いのはお前だろうがと蘇芳は言いたい。
「ならカルシュウム不足か。牛乳や小魚はまめに取れ」
「だぁ!!話が通じねぇ女だな!イヌって言うから怒ってんだよ!気づけよそれぐらい!」
浅黄が小首を傾げる。
「イヌはイヌだろ?」
「俺の苗字は確かに犬山だが断じてイヌと呼ばれる筋合いはないぞ」
額に青筋を浮かべ、メンチを切る蘇芳にだが浅黄は一切の動揺を見せずしばし考え込み、やがて真っ直ぐ蘇芳を見る。
「・・・・・やはりイヌだ」
その言葉に蘇芳以外の全員が納得していたが誰も言葉には出さない。
「分かってねぇ~~~~~~~~~~~~~~~~~!!」
頭を抱え込む蘇芳。本気でどうしてくれようかこの女は。
二人の漫才のようなやり取りに周囲は噴出さないように必死に堪えていた。
どうやら今日も蘇芳の負けのようであった。
まったく蘇芳が浅黄の相棒になってから飽きることがない。
だが、二人・・・主に蘇芳は自分たちのやり取りが仲間内で娯楽扱いされているとは露ほどにも気付かずに言い争いを続けていた。
「今日という今日は・・・・・!」
「なんだ?」
「うっ!」
浅黄の言いようのない迫力に押されて思わずどもる蘇芳。まぁ、浅黄にしてみればただ聞き返してみただけだったのだが。
「~~~~~~っ!!なんでもねぇ!」
がんっと音を立てて椅子に座り直すと再び報告書に向き直る。そんな彼の後ろ姿を見つめる浅黄の眉が良く見なければ分からない程度に寄る。無表情なりに相棒の機嫌を損ねたことに気付いているのかも………しれない。
「なにを・・・不機嫌そうにしているんだ?」
「浅黄・・・・・。きみはもう少し人の心の機敏について聡くなりましょうね?」
ぽんぽんと鳥飼がまるで出来の悪い生徒を諭す教師のような顔で不思議そうにしていた浅黄の肩を叩いた。
「男心は複雑で傷つきやすいんですから・・・」
遠い目で語る鳥飼。なにか過去にあったのか?
「・・・?」
「鳥飼係長!!」
余計なことを言うなとばかり睨みつけてくる部下に鳥飼は「おお怖い」と嘘ぶきながらその場を去る。
実に見事な去り方で浅黄は勿論蘇芳もぽかんと見詰めるのみで引き止めることは出来なかった。
気付くと浅黄がじっと自分を見ていた。
なんとも居心地の悪い視線に晒されながら蘇芳は頭を抱え込んだ。
こんな状態で逃げるな!!
ほげほげと笑う上司に向けて内心でありとあらゆる罵倒を浴びせる。
事態を悪化させるだけさせて後を俺に放り投げるな!!
横を見れば無表情ながらも不思議そうな表情を浮かべる浅黄。その表情に何故だが蘇芳は「うっ」と追い詰められていく。
「今のは・・いったいどういう意味だ?」
「俺に聞くな!!」
なんて答えろと言うんだ俺に!!
叫ぶ少年は耳まで真っ赤になっていた。
「顔、赤いぞ?」
浅黄の冷静な指摘にとうとう蘇芳も切れた。
「うっせぇ!!始末書の邪魔すんならどっか消えろ!!」
泣きそうな顔で叫ぶ相棒に浅黄が怪訝そうに首を傾げる。
見事なまでの2人のすれ違い具合に周りにいた人間全員が肩を震わせて爆笑だけは堪えていた。
「ぐっ・・くる・・し・・・」
「ぷぷぷっ・・!!」
「青いねぇ・・・・青いよ・・・目に痛いぐらい」
訂正。あまり隠せてはいなかった。
というか話している内容がこっちまで筒抜けである。筒抜けということはもちろん蘇芳が黙っていられるはずもない。
「そこ!!なに、笑ってんスっか!!!」
ものすごい勢いで摑みかかってくる蘇芳に同僚たちの爆笑が容赦なく襲い掛かってきた。
「うっさい!!笑うな!!」
笑い声とからかいの声に我を忘れかけた蘇芳だったがその視界がいきなり真っ暗になる。
「のぁ!」
「なんだかよく分からんがそこまでにしておけ」
浅黄の冷たい一言で場の空気が一瞬にして静まり返る。
「うるさいんだ」
「「「すまない」」」
同僚の声が異口同音に同じ謝罪の言葉をだす。
でも、まて?可笑しくないか?
この場合謝るのは浅黄にじゃなくて俺にだろ?
だが、それを口に出せる雰囲気ではない。
視界を塞いでいたものに触れる。
顔面に投げ付けられたのはどうやら蘇芳のコートのようだった。
コートをどける蘇芳。そんな彼の前を長い黒髪をなびかせながら浅黄が通り過ぎる。そしてその向こう側には軒並み青い顔をして固まっている同僚の姿。
印象的な黒い瞳と一瞬目があい、不覚にも蘇芳の心臓は鼓動を速めた。
性格も言動も気に喰わないところだらけなのに・・・・・顔だけものすごく好みだなんて詐欺だ!!
馬鹿馬鹿と自分を叱咤したい気分に陥ってしまった蘇芳に浅黄は冷たい一瞥を食らわした。
「事件だ。いくぞイヌ」
目を白黒させる蘇芳に浅黄は冷たく一言言い放つとあとは後ろを振り向きもせずに歩き出す。その背中を呆然と見ていた蘇芳ははっと気付くと随分と遠くなった背中に声を掛ける。
「おい!ちょっと待て!っていうか俺はイヌじゃねぇ!訂正しやがれ!」
投げられたコートに慌てて腕を通すと置いてあった霊銃を掴み、相棒の後を追った。
視線の先で長い黒髪が窓から入ってきた風に揺れていた。
少年は少女を見詰めていた。
ずっとずっと。
好きだから。
護りたいから。
誰にも傷つけられずに彼女がただ笑ってくれたらそれだけで少年も幸せだった。
朝の六時五十分から七時十分までの時間同じ車両で彼女の姿を見て、楽しそうに友達と笑ってくれたらそれだけでよかった。
それは少年が運命の悪戯で突然にその命を断たれる前のささやかな恋と幸せ。
彼が狂う前の恋心。
意外と足の早い浅黄に蘇芳が追いついた時には彼女は車に乗り込むところだった。
慌てて助手席に滑り込む蘇芳を横目でチラリと見て浅黄は「遅い」。
蘇芳の額に青筋が浮ぶ。俺も大概荒んだ時期があったけどここまで腹が立つ奴にあったことなんぞねぇぞコラ!言うことなすこと本当にこの女は俺の癇に障ると言うかどこまでも気に喰わない!!だが、ここで怒鳴り散らすのも大人気ない。遅れたのも事実。蘇芳は素直に謝罪を口にした。
「そりゃ・・・悪かったな」
額の青筋と引きつったような声は隠しきれていない辺りまだまだ未熟であったが。
車がゆっくりと動き出す。浅黄が前を見ながら事件の詳細を語り始めた。
で、聞き終わった蘇芳の最初の一言は
「アホか!!」
だった。
言った瞬間「うるさい。騒ぐな」とわき腹に結構どころではない重いパンチを喰らい悶絶する破目になった。
一瞬、意識が飛んだ。荒れてた頃はそれなりに喧嘩などで場数を踏んでいたがここまでキツイのはトンと記憶にない。しかも繰り出したのは女だ。
(なんちゅう、女だよ)
やはり気に喰わない癇に障る。
殴られた箇所、ぜってぇ痣になった。と思いつつ蘇芳は何とか会話を続ける。しゃべる度に腹が痛かった。
「幽霊のストーカー・・・ストーカーって幽霊になってまでそんな犯罪的なことせんでも」
殴られたことは脇に置いて仕事の話に入れるあたり職業意識が出てきたということだろうか。鳥飼辺りが見たら泣いて喜ぶかもしれない。
赤信号でブレーキを踏み、車体が止まる。浅黄は前方に視線を固定させこちらを見ようともしない。それがなんだか酷く蘇芳には面白くない。
じっと睨みつけてみる。見られていることにはとっくに気付いているだろうに涼しげな顔はたじろぎもしない。
いつもそうだ。この女は蘇芳を気にもしない。いや、自分だけではなく他の誰もこの女の気をひけない。いつだって何考えているのかわかんねぇ顔で俺に背中を見せる。
弱さを見せない。
(こいつだって・・・・辛いことや悲しいことがあるはずなのに)
泣いた所を見たことが無い。縋りつくことも弱音を吐くとこともない。
いつも強くあり続ける相棒は自分より遙か遠くにいる。
追いつきたくても追いつけない。
(でも)
少しも変わらない相棒の横顔を見ながらふと、蘇芳は思う。
いつか・・・そう、いつか・・・・前をいく背中でなく・・・・・・。
「別段、不思議でもない。幽霊も元は人間だ。人間の中でもストーカーする奴がいる以上幽霊にだって
その傾向があっても可笑しくはない。
容疑者は被害者に生前好意を抱いていた男らしい。未練が余りにも大きすぎて残留したんだろう」
浅黄の声にはっと我に返る。おいおいおい。今、俺、何を考えてた?
よくよく考えて見なくても結構恥ずかしいこと考えていたような・・・・。
かっーと頬に血が上るの分かる。
(いくらなんでも恥ずいだろう俺!!)
いつか彼女を護れる男になりたいだなんて。
自分の無意識の考えにあわあわする蘇芳を横目で確認した浅黄が不審そうに首を傾げていた。
「イヌ。変な顔で黙り込むな。説明の二度手間はゴメンだぞ」
一気に蘇芳の頭から羞恥心が消え去り怒りに取って代わられた。
「誰がイヌだ!!」
反射的に言い返す。すでにこのやり取りはパブロフの犬のごとく染み付いてしまっている。
………また、犬かよ。
自分の思考に思わず突っ込む。
浅黄の「イヌ」発言により先ほどまで感じていた気持ちが奥へ引っ込んだ。
それにほっとすればいいのか残念に思えばいいのか蘇芳は複雑な気分だった。
「幽霊のストーカーだろうがなんだろうが俺らがすることは変わんねぇか」
ジャケットの内側の霊銃の重み。普通の拳銃と違い使用者の精神をエネルギーに変換する霊体を浄化する道具。
構造と材質の違いから通常の銃より軽いはずのそれはだけど使う者にとっては酷く重く感じる。
蘇芳もそしてたぶん浅黄もこの銃を撃つことの意味と重さをいつも考えさせられているはずだ。
法の上では「幽霊」には人権などの法の庇護は認められていない。
「法律」はあくまで「生きている」人間限定のものだと言う考えなのである。
そのため「幽霊」を撃つことも浄化することも例外はあれど法の上では違法性はない。だが、確かに人だったものを撃つのはひどく辛いのだ。
どんなに歪んでも歪でも彼らは「人間」であったころの姿と感情を色濃く残している。
「心」は死んでもなくなったりはしないのだ。
霊銃によって浄化されることが有り得ざる存在となってしまった彼らにとって救いなのだと分かっていてもやはりやるせなさを感じる。それを感じるのは生きているものエゴであり単なる感傷でしかないのだとわかってはいても蘇芳は時々引き金が必要以上に重く感じることがある。
信号が青になり、車が進む。景色が後ろに流れていくなかほんの少しだけ浅黄がこちらを見たため不覚にも蘇芳の心臓がドキリとする。
「変わらん。それが「私」がここにいる理由だ」
蘇芳が何か言うより早く再び浅黄の視線が元に戻る。その冷たい横顔から彼女が何を考えているのかやっぱり蘇芳にはわからなかった。
幽霊ストーカーの被害者は十六歳の高校生。いまどきの高校生にしては珍しく色を抜いていない黒髪のどこかおっとりした空気を持った真面目そうな少女であった。
親元を離れて女性限定のこのアパートに一人暮らしだという少女はよほど怖い思いをしているのか蘇芳と浅黄の姿を見るなりあからさまにホッとした顔し、二人を部屋に招きいれた。
問題が問題なだけにいくら無愛想で無表情だろうが女性の浅黄がいるのはかなり安心要素だったなと蘇芳は思った。
これが蘇芳一人だけだったら相手をあからさまに警戒させて怯えさせてしまっていたことだろう。
「どうぞ」
恐らく夜も満足に眠れていないのだろう少女の顔には疲労の色が色濃く残っていたが蘇芳と浅黄はあえてなにもいわず軽く自己紹介をしたあとに少女に続いて玄関をくぐった。
玄関に一歩足を踏み込んだとたん蘇芳の背筋を悪寒にも似た何かが駆け巡る。チラリと浅黄を見ると彼女も感じたのか黙って頷いてきた。
「どうか、しましたか?」
少し先にいた少女がひどく落ち着かない様子で二人をみていた。視線があっちこっちに彷徨っているところをみると例の幽霊を警戒しているようだった。
「いや、なんでもない」
「そう、ですか・・・」
少女は釈然としない様子だったが浅黄が真顔(以外しないが)で断言するとそれ以上突っ込めなかったらしく二人をリビングへと案内する。
女の子らしい明るい色彩の部屋で出された茶を啜りつつも蘇芳は事態が思ったより厄介な方向へ移行しつつあるのを感じていた。
さっきから背筋を駆け巡る悪寒は治まるどころが時間が経てばたつほど酷くなっていく。
(こりゃ・・・そうとう霊場が荒れてやがる)
霊場とはその土地の霊的な調和のことを示す。単純にいえばこれが調和している場所は事故も少なく悪いことはあまり起こらない。逆に荒れていた場合は事故が多発、家でも建っていた日には災難続きなど悪いことがつづくと考えてもらえればいい。霊場は本来そう簡単に荒れるものではない。が、何事にも例外というものが存在する。
幽霊と呼ばれる存在がこの霊場を荒らしてしまうのだ。
もちろん普通の幽霊がそこらをうろついていても霊場は荒れない。だが、未練が大きく自我を無くしたものやら他者に害意のあるもの定義は色々あるが特定の条件を満たした幽霊が頻繁に現われる霊場では陰の気が強くなりすぎて調和が崩れてしまうというのが一般的な霊場の考え方だ。
そして人に害をなす幽霊というのがもっとも力を発揮しやすいのが調和の崩れた霊場なのである。
(それでいったらこの部屋は幽霊にとっちゃ最高の活動場所だな)
なにせ探査能力や感応能力はとんと低い自分がここまではっきりと感じ取れるのだから相当なものである。
乱れっぷりがいっそスガスガしいほどだ。生きている人間には寒気がするほど居心地が悪いが。
もしかしたら少女が落ち着かない様子なのは霊場の乱れも関係しているのかもしれない。居心地の悪さはぴか一だ。
(下手すると実体化までいってんじゃねぇか?これ?)
幽霊といっても力に個体差がある。だが、時間が経つほどにその力は増す傾向があることは確認されている。順調に力をつけていった幽霊が最終的に行き着くのが「実体化」と呼ばれる現象だ。
これは文字通り幽霊が物理的に干渉できる実体を手に入れることだ。
そのくせ幽霊としての特性も残っており自由に二つを使い分けることができる。
しかも死なない。切ったとしても血は出ないし空腹もない。
非常にやっかいな状態なのである。もしもストーカーが実体化をしてしまっていたら。
ちらりと青い顔で浅黄の質問に答える少女を見る。恐らく彼女は死ぬより辛い目に遭う。・・・・生きていても、死んでも。
胸糞の悪い想像に吐き気がした。
「イヌ」
短く浅黄が蘇芳を呼ぶ。その声はいつもよりほんの少し鋭い。
「イヌ言うな。・・・・・・・解決は早い方がいいと俺も思う」
鋭くなった瞳に言いたいことを察してくれたのか浅黄が軽く頷いた。
いつも通りの無表情。なのにやけに好戦的に見えたのは蘇芳の見間違いなのかそれとも本気でそんな顔をしていたのか。
浅黄が重々しく宣言する。
「今夜、ケリをつける」
少年は死んだ。事故死だった。
死ぬ直前に思ったのは通学途中で見かける一人の少女の姿。
一目惚れだった。
声をかけることすらできなかった恋だった。
死んでしまった少年が次に目覚めた時、その身体は透けてしまい誰の目にも見えない存在となっていた。
少年は幽霊になっていたのだ。
徐々に狂気に犯されていく思考の中で執着したのは恋した少女。
側にいたい。誰にも渡したくない。
そんな思考はすでに自分勝手なものだということには気付かない。
自分こそが彼女に害をなす存在だということには気付かずにあくまで自分の正義に基づいた思考から離れない。
幽霊になった分さらに少年の性質は悪くなった。物質的な制約がないからドアの鍵も防犯道具も一切効かない。
少年は毎日のように少女の前に現われた。
少女にとって不幸だったことは彼女に霊を見る力が備わっていたことだろう。
その時点でまだ、力弱く一般の人間には見えなかった少年は少女が自分を認識したことに狂喜した。
少年は少女が自分を見ることが出来るのは運命だと思った。
そうして、一方的な守護が始まる。そして少年が死んで一月ほど経ったある日、異変が起きた。
一瞬だが自分の手で物に触れられた。生前のように触った感触も感じられた。
そして本能的に悟った。
自分は進化しているのだと。
驚愕が去ったあとにきたのは狂喜だった。ドンドン変わっていくのが分かる。強くなる。彼女を守れる!!
だが、残念なこともあった。
変わっていく過程でどうしても意識が途切れることが多くなっていた。強くなることに必要なことだとは分かっていたが少女から目を離すのが怖かったのだ。それでも強くなることは嬉しく、出来る限り少女の側にいた。
今までにないほどの強い眠気を感じた時、少年は思った。
次に目覚めた時、自分は今の自分と全く違う力を手に入れているだろうと。
幸せな未来を夢見ながら少年の意識は途切れていった。
そして、少年の意識が目覚める。意識せずとも力の使い方を熟知している自分に疑問も湧かず彼は力を行使する。
願うだけで体は実体化する。己の成果に思わず笑みが零れた。
完璧に生前の姿そのままである。試しに壁に触れてみてもちゃんと感触がある。
意識を変え、手だけを幽体に戻すと手首から先がずぶずぶと壁に沈みこんだ。
進化は完璧だった。
さぁ・・・・今、会いにいくよ。
愛しい少女の姿を思い浮かべながら少年は地を蹴った。
「なぁ・・・こんなんで上手くいくのかよ」
不満げに自分を見上げる相棒を浅黄は冷たく見下ろす。
「私の考えた作戦になにか文句が?」
「・・・・作戦ってほどのものか?これが?」
先ほど聞かされた作戦(?)内容を思い出すだけで蘇芳は溜息が出てくる。
「こ~~ゆうのはなぁ、無茶というか無謀っていうんだよ・・・」
「うるさい」
「へいへい。黙りますよ・・・ったくこれで相手が来なかったら俺単なる変態じゃねぇか・・・」
ぶつくさと文句の多い蘇芳はもう無視して浅黄は自身が張った姿くらましの結界の中で静かに腕を組んだ。
その瞳はいつも以上に鋭く前方を見据えていた
空気が不安定に揺らめいている。浅黄の勘が告げていた。
「もう、すぐだ」
確信めいた予感があった。
愛しい少女はどうやら眠っているようだった。にこやかに笑みが浮ぶのを止められない。
思えば少女に触れたことはなかった。生きている時は触れるところか名前すら知られていなかった。死んでからは触れることは出来ない。だけど今なら。
眠る少女へと手を伸ばす。もうすぐ、少女の温かさを感じられる。
あと少しで少女に手が届くという所で今まで無かった気配が突然背後に現われた。
「そこまでだ」
静かな女の声は鋭い刃のように少年の動きを縫いとめた。
声は淡々としているくせにこちらが何か妙な動きを見せれば即座に攻撃してくるのが分かった。
「予想通り実体化まで果たしていたか。はた迷惑な」
少年の後頭部に銃を突きつけた浅黄がぼやく。
「貴様は死後不当に現世に残留し生者に害をもたらした。よって強制的に現世より引き離す」
一方的な宣言にしかし少年は怯まなかった。驚異的なスピードで浅黄の手を払いのけ銃口をそらすと一目散に少女の眠るベットへと走る。
浅黄がすぐさま銃口を男に合わせるが少年が少女を掴む方が早い。
ああ、やっと君に触れられた!
歓喜に打ち震える少年の眉間にゴツッとした銃が突きつけられる。
目を丸くする少年。事態が上手く把握できずにいた。
「残念。ハズレだぜ?」
少女とは似ても似つかぬ低い声。布団を跳ね除け現われたのはやたらと目つきの悪い少年。少年はこちらを見るとニヤリととてもかたきには見えない壮絶な笑みを浮かべてみせる。
「狙いが分かっていて俺らが何の対処もしてねぇと思ったか?」
あざ笑うようなその声に少年は自分が嵌められたことを悟った。
「お姫さんはちゃーんと別の場所に保護してある。てめぇの手の届かない場所にな!」
背後から浅黄が再び銃口を男の後頭部に押し付ける。
「王手、だ」
静かなその声に少年はまだだと声にせず呟く。
浅黄の指に力が入る。引きかねを引かれたら自分はもう「存在」できない。消滅への本能的な恐怖。そしてそれを上回る少女への執着心が少年へ力を与える。
「がぁぁぁぁっぁぁぁぁぁ!」
自分の声とは思えないおぞましい叫びと共に少年は浅黄に襲い掛かった。
「浅黄!!」
無我夢中で少年は目の前の細い首に手を掛ける。浅黄の顔が微かに苦しさに歪む。
「てめぇ!!」
蘇芳が銃の引き金を引く。眩い光が銃口から発射され少年に向かう。少年は浅黄を抱きかかえたままそれを避けた。
「動くな!!動けばこの女を殺す!」
少年が浅黄の首に手をかけそう叫ぶ。実体化するほどの幽体だ。人間の首を一瞬で捻じ切ることなど造作ない。それが分かるため銃を構える蘇芳の手が震えた。
蘇芳が動けないことを確信した少年は心に余裕が戻り、不敵な笑みを浮かべた。
そうだ、自分は生まれ変わったのだ。こんな連中に自分をどうにかできるわけがない。
生前の意識とはどんどん違ってきているのに少年本人は気づかない。
死んで「存在」しているうちにどんどん狂っているのだ。
生前の意思そのままを保てる幽霊は珍しい。よほど強い意志を持たないと変質していき生前の面影などなくなるのが普通だ。
そして少年も例に漏れず狂っていた。
「あの子の居場所を言え。でないとこの女の首を捻じ切る」
蘇芳の目がさらに凶悪にすぼめられる。ギリッと奥歯を噛締める音が聞こえた。
「どうした。早くしないとこの女、殺す」
見せ付けるように浅黄の長い髪を引っ張る。白い喉元に鋭く尖った爪を当てる。だが、気を失った浅黄はされるがままであった。蘇芳は悔しげに顔を歪ませ、俯く。手にした拳銃を降ろすのを見て少年はほくそえんだ。
だが、蘇芳が再び顔を挙げたときその優位は一気に崩された。
「なにを、笑っている」
そう、蘇芳は笑っていた。
まるで道化でも見ているかのように。
「・・・・・・・お前、やっぱりバカだな」
予想もしていなかった返答に少年が一瞬呆けた。少年の表情を意地の悪い顔で見詰めながら言い放つ。
「その女がお前ごときの攻撃で本気で意識を失うと思うか?」
俺が知っている中で一番物騒で厄介な女だぞ?
そう言って蘇芳がにやりと笑う。少年の脳裏に嫌な予感が走る。
男が本能的に浅黄から離れようとするが。
「いい演技だったぞ。イヌ」
冷たい感情しか感じさせない声が少年の耳を撫で鎖のように動きが止まった。
いけない。この声は危険。
ほぼ本能的に少年は悟った。
この女は危険。
警報が鳴っている。
恐ろしいほどの確信が胸に刻まれる。
出会ってはいけない女に自分は出会ったのだと。
ごつりと顎に冷たい銃の感触。
気絶していたはずの浅黄が少年の顎に銃口を押し付けるのと男が破れかぶれで浅黄に襲い掛かるのはほぼ同時だった。
鋭く伸びた、もう人のものともいえない鋭利な爪が浅黄を引き裂こうとするが爪は浅黄の頬を軽く裂いただけだった。痛みに浅黄は顔色一つ変えることなくほぼ正確に敵を見据えた。
血が数滴宙を舞う。それらが床に落ちるよりも早く。
浅黄の構えた拳銃が少年を捕らえる。少年は自分を見据える浅黄の目を真正面から捉えた。
底冷えするようなその瞳を。そしてその瞳をみた瞬間少年は動けなくなる。
浅黄に迷いはない。躊躇なく引きかねを引いた。
「世界は死んで害をなすものまで面倒見るほど懐が深くはない」
真っ白な精神エネルギーが男に叩き込まれる。それは浄化の光。この世にあるべきではない存在をこの世からひき離す力に満ちたもの。
その光に迫り来る消滅に心底怯える自分の他にどうしてだろうほっとしている自分を少年は確かに感じていた。
(・・・・終われる)
「残留」したことで変質していた意識。その根底に僅かに残された生前と同じ
心が終焉を喜んでいた。
「あるべき場所へと還れ」
自分を見つめる瞳はどこまでも冷たいのにどうしてかその言葉は優しく少年に響いた。
神に許されたようなそんな気にさせてくれる。
「ぼくは・・・・・・・・・」
少年が最期になんて言おうとしたのかわからない。
少年が口を開きかけると同時に光が弾け彼の姿は消えた。
それを確かめるより早く、蘇芳は浅黄の顔を両手で包み込む。
珍しく浅黄が驚きの表情で自分を見ていることにさえ気付かずに蘇芳は彼女の頬に刻まれた傷跡を確認して目を凶悪に細めた。
「怪我・・・・」
「え?」
「顔に・・・怪我、している」
低く恫喝するように呟く蘇芳に訳がわからず浅黄はこれまた珍しく困っていた。
「あ、ああ。でもこれぐらい・・・」
なんでもないと言いかけた浅黄に蘇芳がものすごい形相で詰め寄る。
「これぐらい?女が顔に傷をつけられてこれぐらいって言うな!」
常にない迫力で怒鳴る蘇芳に思わず浅黄の背筋が伸びた。
なんだろう。どうしてか相棒が怒っている。
なにが彼の逆鱗に触れているのかわからずに浅黄は困惑した目で自分を睨んでいる少年を見返す。
蘇芳は「あーもう!」と苛立つと浅黄の手を引っ張ってベットに座らせると自分は棚に近づき勝手に漁った挙げ句なにやら四角い箱のようなものを持って戻ってきた。
白い箱の表面には赤十字。
救急箱?
などと思っている内に蘇芳は中から消毒液をガーゼに濡らすとそれを容赦なく浅黄の傷口に当てる。
「・・・っ!」
軽く走った痛みに小さく呻いてしまう。
蘇芳は手際よく手当てを済ませて、ほっと息を吐いた。
「・・・・イヌ?」
「イヌじゃねぇよ」
恐る恐る(のワリにはいつも通りの平坦な声と態度だったが)顔を覗いてくる浅黄に蘇芳はぶっきら棒にそれだけ言う。
俯いた顔は酷く何かを悩んでいるようでもあった。
白い頬にくっきり残っている赤い傷が目に焼きついて蘇芳は軽く唇を噛んだ。
もう少し、俺が強ければこんな目に遭わせたりなんてしなかったのに。
女の顔に傷を付けるなんて最低だ。
苦い苦い後悔が胸に染みのように広がっていた。
「たまには・・・・俺を・・・・・・」
頼れと言うつもりだった言葉は空回りして出てこなかった。代わりにものすごくぶっきら棒に顔を見られないように背けた。
「・・・・・ったく!こんな恥ずいこと真顔で言えるかってんだ!」
脈絡のない言葉に浅黄の顔に珍しく驚いたような表情が浮ぶ。
「?なんなんだ。お前は・・・・」
なんだんなと言われても自分でもわからないから答えようがない。蘇芳は顔を真っ赤にして・・・・怒鳴った。
「なんでもねぇ!」
まるで子供の癇癪のような怒り方だった。
実際に子供の癇癪と大して変わらない。
自分の気持ちがなんなのか分からない苛立ちをついつい浅黄に八つ当たりしているに過ぎない。
うっせぇ黙れ!この怪我人が!と蘇芳に騒がれ耳を押さえた浅黄の方はサッパリ訳が分からない。
どうして自分が怒鳴られなければならないのだろうか?
納得のいかない顔の浅黄に蘇芳は延々と怒鳴り続けていた。
こうして事件がまた一つ終わりを告げたのであった。
「結局あいつは自分の勝手な思い込みで好きだった女を付回したんだろ。死んでも付きまとうとは迷惑極まりない野郎だな」
帰りの車の中。スイスイと進む景色を見ながら蘇芳は事件を思い返しそうコメントした。
「よほど執着していたんだろう。死んでもなお、現世に留まるぐらいに強く」
「わかんねぇな・・・他人にそこまで執着するの・・・。言葉も交わしたことのない奴のことそんなになんで強く思えんだよ」
頬杖をつきそんなことを言う蘇芳。内心、納得というか理解が出来なかった。
一人の人間にそこまで執着した男の心理が蘇芳には謎であった。
「しかもストーカーにまでなって・・・大切な相手を自分が怖がらしてどうすんだよ」
「・・・・間違ったんだろう。ただ単に」
まさか浅黄から意見が返ってくるとは思っていなかった蘇芳は完全に不意をつかれ言葉に詰まる。
「最初の気持ちに嘘はなかった。だがその後の行動を間違った。ただそれだけのことだ」
感情の篭もらないその声はそれゆえに根拠のない信憑性を感じさせてしまう。
いつか、自分も誰かに特別な気持ちを抱く日がくるのだろうか。
そしてその時自分は間違えずにいられるのだろうか。
答えは出ない。だが。
間違えない自分でありたいと、思う。
相手の気持ちを考えない、自分の気持ちだけを押し付けるようなそんな恋はしたくない。
もし、恋をするのであれば・・・どんな結果であれ自分も相手も・・・笑って想い出せるそんな恋がいい。
窓の外を見ればきれいな夕日が世界を緋色に染め上げていた。
「おや~?蘇芳くんま~た報告書ですか~?」
机の前でうんうん唸っていた蘇芳の背後から鳥飼が無断で手元を覗き込んでくる。
大変ですねぇ~と全然大変そうでない顔で言う鳥飼に毎度の如く毒気を抜かれる。
「鳥飼係長・・・・・」
パフパフと頭を叩かれふくれっ面になる蘇芳。そんな顔をすると目付きの悪さが少しだけ和らぎガキ大将のような印象に変わる。
そんな蘇芳に意外なほど優しい眼差しを鳥飼は向けていた。出会った頃は家族を支えよと無理に背伸びしている感じがあったが今はそれもない。
鳥飼はにっこりとまるで親戚の子供の成長を見るかのように笑った。
「うん・・・・君は変わりましたね・・・・いいことです」
「はぁ?」
訳がわからず生返事を返す蘇芳。そんな彼を無視して鳥飼はポンと手を叩いて蘇芳を見た。その瞳が異常に輝いているのをみて蘇芳はいや予感に駆られた。
この男がこんなに楽しそうにしているときはろくなことを言い出さない。
案の定、嬉しそうに鳥飼は爆弾を投下してくる。
「仕事熱心な部下に上司からプレゼントです。浅黄は甘いもの大好きなんですよ。甘いものをプレゼントして好きな子の株を上げてみてはいかがです?」
「ごはぁ!」
いたずらっぽくそう言う鳥飼に思わず噴出してしまう蘇芳。言葉の意味を理解し、上司がものすごい誤解をしているのをなんとか説こうとブンブンとものすごい勢いで首を振る。
なんと言うか衝撃がすごすぎて言葉が出ない。ちょうど恋愛というものについて考えさせられる事件に関わったばかりなので破壊力が強すぎだ。
株ってなんだ!株って!!
「いや~。青い春と書いて青春。善哉善哉」
ふぉふぉふぉとまるで仙人のような笑いを残して去っていく上司の姿を呆然と見送る蘇芳。鳥飼が面白がっているのは明白である。だが、言われた方はそれに気付く余裕がない。
「す、好きな子・・・・って・・・浅黄・・・?」
口にしてから猛烈に恥ずかしくなってくる。真っ赤になる顔を手で隠すが気恥ずかしさというかどうしようもない感情は引かない。
好き?
俺が?
あいつを?
勢いよく頭を振って脳裏に思い浮かんだ図式を消し去る。
「いや、違う!あいつとはそんなんじゃねぇ!」
誰もいない場所に向かって握りこぶしで力説する蘇芳。その異常さには気付いていない。そんな余裕はなかった。
気に食わなくて相棒でうんでもっていつかは絶対に俺のことを認めさせてやりたいやつ。
それだけだ・・・それだけなのに・・・・。
なぜ、顔の火照りが止まらない!
「た、確かに顔は滅茶苦茶好みだけどそんな風に思ったことなんて・・・・・・・・・・・なんて・・・・・・・・」
言い訳というよりかは自分に言い聞かすようにそう繰り返す蘇芳だがその時点でもう色々と致命的だということには生憎と気付いていない。
そんな彼に周囲の先輩方がそっと目元を涙で濡らした。(それは同情と爆笑とが半々だったが)
(いい加減。気づけよ。どう考えてもベタ惚れだろうがお前!!)
先輩達の心の声は当然の如く蘇芳には届かない。
「と、とにかく!あいつは俺の・・・相棒だぁ!!」
(まったくこの名(迷)物コンビは・・・・)
その場にいた全員が重くて仕方が無い溜息を零した。
大声で相棒宣言した蘇芳がその舌の根も乾かないうちに甘い物に詳しい女性同僚に美味い店を聞き出し、買った甘味片手に彼曰く「気に食わなくていつか絶対に認めさせてやりたい」相棒に真っ赤な顔で差し出し、驚かれ逆に怒鳴り返して大喧嘩をして結局二人で食べることになるまでほんの少し。
そして彼が自分の恋心をハッキリと自覚するまでにはしばしの時間を要することになる。