好きですと言わないための練習会―― 混ざる
※この作品は、
「好きです」と言わないための練習会の記録です。
会話と沈黙が中心になります。
朝は、いつもより少し遅かった。
目覚ましが鳴ったことには気づいたが、
止めるまでに間があった。
二度寝をしたわけでもない。
ただ、すぐに動く理由が見当たらなかった。
窓の外は明るい。
天気も悪くない。
それで十分だと思う。
洗面所で顔を洗う。
水は冷たい。
一瞬だけ息が詰まって、すぐに戻る。
鏡を見る。
変わったところはない。
少なくとも、見える範囲には。
通勤の電車は混んでいた。
隣に立つ人との距離が近い。
以前なら、少しだけ身構えたはずだ。
今日は、そのまま立つ。
つり革を握る手に、力が入っていないことに気づく。
緩めたわけでも、意識したわけでもない。
駅をいくつか過ぎて、
アナウンスが流れる。
聞いているようで、聞いていない。
意味を取る前に、音だけが通り過ぎる。
職場では、
短いやり取りが続いた。
「お願いします」
「了解です」
「後で共有します」
それ以上は、要らない。
誰も不満そうではないし、
円滑に進んでいるように見える。
昼休み、
一人で外に出る。
どこかに行くつもりはない。
歩いて、
自販機で飲み物を買って、
戻るだけ。
ベンチに座る人たちの会話が、
途切れ途切れに聞こえる。
笑い声。
ため息。
名前を呼ぶ声。
どれも、
自分に向けられていない。
それが、
少しだけ楽だ。
午後は淡々と過ぎる。
時計を確認する回数が減っていることに、
帰り際になって気づく。
帰宅途中、
信号待ちで立ち止まる。
青になるまで、
あと少し。
その「少し」を、
以前より長く感じる。
急ぐ必要はない。
遅れても、困らない。
青に変わる。
横断歩道を渡る。
渡りきったところで、
何も起きなかったことを確認して、
少しだけ安心する。
家に戻り、
照明をつける。
部屋は、昨日と同じだ。
物の位置も、
空気も。
それなのに、
どこか違う。
違う、というほどでもない。
ただ、
説明できるほどではない。
夕食を終えて、
椅子に座る。
スマートフォンが近くにある。
通知は来ていない。
触らなくてもいい、と思う。
画面を伏せたまま、
しばらくそのままでいる。
言葉にしなかったものが、
今日一日、
どこにも引っかからなかった。
それは、
うまくいっているということかもしれないし、
そうでもないかもしれない。
どちらでもいい。
夜が、
静かに混ざっていく。
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