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好きですと言わないための練習会―― 手前

※この作品は、

「好きです」と言わないための練習会の記録です。

会話と沈黙が中心になります。


会場に来るまでの道を、

誰も正確には覚えていなかった。


角を曲がった記憶も、

信号を待った時間も、

途中ですれ違った人の顔も。


着いた、という感覚だけが残る。


扉は開いている。

閉められてはいない。

けれど、開いている理由も見当たらない。


中は静かだった。

音がないわけではない。

ただ、数えられない。


椅子は、円を保っていない。

完全に崩れてもいない。

少しだけ、歪んでいる。


記録者はいない。

少なくとも、見える位置には。


誰も開始を告げない。

それでも、全員が中に入る。


立ったままの者。

座る者。

壁にもたれる者。


どれも、許されている。


「今日は――」


声が出かけて、止まる。


言い直しはされない。

続きを待つ者もいない。


言葉は、

途中で置かれることが増えている。


練習が始まったのかどうかは、

誰にも分からない。


ただ、

“好きです”という言葉が、

今日は遠い。


使わないようにしている、

という感じでもない。


最初から、

手の届かない場所にある。


代わりに、

別のものが近い。


足元の床。

冷たさ。

自分の重さ。


誰かが、息を吐く。

それを合図に、

別の誰かも吐く。


揃えようとはしていない。

それでも、

間が似てくる。


「今、ここにいる理由を、考えなくていいです」


どこからか、

そんな声がする。


命令ではない。

助言でもない。


ただの、通過音。


理由を考えない。

判断もしない。

選択もしない。


そうしているうちに、

“戻る”という概念だけが、

薄くなる。


戻る場所が消えるのではない。

戻る必要が、

思い浮かばなくなる。


窓の外は暗い。

街灯の光が、

規則的に床を切り分けている。


その境目を、

誰も跨がない。


跨いだらどうなるか、

想像しない。


想像しない、

という行為だけが、

ここではまだ可能だった。


しばらくして、

誰かが靴を履き替える。


帰るのかどうかは、

分からない。


それを見て、

他の者は何もしない。


引き止めない。

見送らない。


練習会は、

解散したのかもしれないし、

まだ続いているのかもしれない。


違いは、

もう重要ではなかった。


外に出たとき、

夜の空気が思ったより軽い。


昼に戻った感じもしない。

夜に沈んだ感じもしない。


ただ、

境目の手前に立っていた感覚だけが、

足裏に残る。


それを越えるかどうかは、

次の話になる。


――今はまだ、

言わないままで、

立っていられる。


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