53/58
幕間:好きですと言わないための練習会―― 記録
記録者は、今日は書かなかった。
書けなかった、ではない。
書こうともしなかった。
ノートは膝の上にあったが、
開く理由が見つからなかった。
言葉は、場に存在していた。
ただ、形を取らなかった。
いつもなら、
開始時刻。
参加人数。
空調の状態。
誰が遅れたか。
そういうものを、
無意識に拾っていた。
今日は、それが起きない。
拾おうとすると、
音だけが先に来る。
椅子の軋み。
呼吸のズレ。
誰かが立ち上がったときの、重心の移動。
記録に向かないものばかりだ。
境目、という言葉を使ったのは、
自分だった。
使った瞬間、
少し遅れた。
言葉が、
場の速度についていかなかった。
境目は、
記すものではない。
越えたかどうかも、
後からしか分からない。
記録者は、
ノートを閉じる。
閉じたまま、
終わりを待つ。
待っているつもりはない。
ただ、
書かれなかったものが、
確かに残っている。
それだけを、
覚えておく。
⸻




