好きですと言わないための練習会―― 境目
※この作品は、
「好きです」と言わないための練習会の記録です。
会話と沈黙が中心になります。
会場に入ったとき、
最初に気づいたのは音だった。
人の気配はある。
椅子も、配置も、前と変わらない。
けれど、空間が一段深くなったように感じられる。
昼の明るさは残っている。
ただ、それを頼りにしていいのか分からない。
誰も開始を告げないまま、
各自が席につく。
記録者は、今日は立っていない。
壁際の椅子に腰を下ろし、
ノートも持っていない。
それだけで、場の性質が変わる。
しばらく、何も起きない。
以前なら、
この沈黙は「待ち」だった。
今は違う。
待っているのではなく、
すでに何かが進んでいる。
空調の音が、少しだけ低い。
それに気づいた瞬間、
他の音が遠のく。
誰かが、息を吸う。
それが合図になる。
「今日は、話さなくていいです」
声は小さい。
指示というより、確認に近い。
話さなくていい。
話してはいけない、ではない。
その差が、
ここでは大きい。
椅子に座ったまま、
全員が同じ方向を見る。
正面ではない。
どこでもいい方向。
言葉が使われないぶん、
身体の反応が前に出る。
足の裏。
背中。
喉の奥。
何かが、
そこまで来ている。
「“好きです”を、思い出さないでください」
否定形なのに、
ほとんど不可能な指示。
思い出さない、という行為は、
思い出すことを前提にしている。
胸の内側が、わずかに騒ぐ。
理由は浮かばない。
言葉も浮かばない。
ただ、
距離だけがはっきりする。
誰かとの距離。
言葉との距離。
ここから外に出たときの距離。
記録者が、ゆっくりと視線を上げる。
「今、境目にいます」
説明はしない。
何の境目かも言わない。
それでも、その言葉だけは、
場に残る。
境目。
こちら側と、向こう側。
昼と夜。
言える場所と、戻らない場所。
どちらに立っているのかは、
確認されない。
確認された瞬間、
決まってしまうから。
しばらくして、
誰かが立ち上がる。
帰るわけではない。
ただ、立っただけだ。
それを合図に、
他の者も少しずつ動く。
椅子の音。
衣擦れ。
足音。
その一つ一つが、
過剰に響く。
「今日は、これで終わりです」
終わりは、
いつもより遅れて届いた。
外に出ると、
完全に夜だった。
昼がいつ終わったのか、
誰にも分からない。
分からないままでも、
問題は起きていない。
ただ、
戻り道が、少しだけ見えにくくなっている。
それに気づいた者から、
言葉を減らして歩いていく。
境目は、越えたのかもしれないし、
まだ立っているだけかもしれない。
それを確かめる方法は、
もう使われない。
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