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好きですと言わないための練習会―― 残る音

※この作品は、

「好きです」と言わないための練習会の記録です。

会話と沈黙が中心になります。


会場は、昼の名残を引きずっていた。

窓は開いているのに、風は入ってこない。

外の明るさだけが、床に薄く貼りついている。


椅子は円形に並べられていたが、

今日は一脚だけ、少し距離があった。

誰かが意図したわけではない。

最初から、そうなっていたように見える。


記録者は、その椅子の近くに立っている。

ノートは閉じたまま。

開く予定も、なさそうだった。


「今日は、集まりました」


それだけ言う。

始まりの合図にしては、弱い。


誰も返事をしない。

返事を求められていないことは、全員が分かっている。


最初の練習は、音を聞くことだった。


空調の低い唸り。

遠くの車の通過音。

誰かの、呼吸。


「今、残っている音を一つだけ選んでください」


選ぶ、という言葉が使われたが、

実際には、勝手に残る。


選ばれなかった音は、消えたわけではない。

ただ、意識の外に退いただけだ。


誰かが、少しだけ姿勢を直す。

椅子が鳴る。

その音が、場に残る。


「それが、今日の基準です」


説明は、そこで止まる。


昼の言葉は、もう使われていない。

判断、理由、選択。

そういう単語は、場に置かれない。


代わりに、沈黙が増えていく。


しばらくして、記録者が椅子に座る。

距離のあった一脚ではない。

円の中でもない。

その中間。


「“好きです”を、今、言おうとしないでください」


否定形なのに、命令に近い。


言おうとしない、という行為は、

意外と難しい。


言葉は、思考の手前に浮かぶ。

浮かんでから、沈める。

その動作だけで、胸が少し重くなる。


誰かが、目を閉じる。

誰かは、開けたまま一点を見ている。


「今、何が起きていますか」


答えは求められていない。

それでも、内部では言葉が生まれる。


緊張。

安心。

焦り。

遅れ。


けれど、それらは外に出ない。


音だけが、残る。


さっき鳴った椅子の軋みが、

まだそこにあるような気がする。


「今日は、ここまでです」


終了は、唐突だった。

拍子抜けするほど、あっさりしている。


立ち上がる者はいない。

誰かが帰る気配もない。


ただ、音が減っていく。


最後に残ったのは、

自分の呼吸が、少しだけ遅れて聞こえる感覚だった。


それを、誰にも伝えないまま。

言葉にしないまま。


練習会は、また記録されないまま終わる。


外に出ると、夜だった。

いつから切り替わったのかは、分からない。


ただ、

中で残った音だけが、

まだ耳の奥にある。


――言わなかったことよりも、

消えなかったものの方が、はっきりしていた。


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