表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
50/58

好きですと言わないための練習会――適用

※この作品は、

「好きです」と言わないための練習会の記録です。

会話と沈黙が中心になります。


出席は、いつも通りだった。


空席も、増えていない。

減ってもいない。


「今日は、確認は省きます」


彼女はそう言ってから、

一拍だけ置いた。


「代わりに、一つだけ共有します」


ホワイトボードには、何も書かれない。

口頭だけで済ませるつもりらしい。


「この会の原則は」

彼女は言う。

「自分に使うためのものです」


誰も異論を挟まない。

聞き慣れた言い回しだった。


「ただ」

続ける。

「最近、それを人に向けて使っている例が、少しだけ増えています」


少しだけ、空気が動く。


「責めているわけではありません」

すぐに補足が入る。

「自然な流れです」


誰かが、安心したように息を吐く。


「例えば」

彼女は続ける。

「相手に“探さない方がいい”と言ったり」

「“今は言わない選択だと思う”と助言したり」


それは、確かにあった。

ここ数回で、何度か。


「それ自体は」

彼女は言う。

「原則に反していません」


ペンを持ち上げるが、

結局、何も書かない。


「ただし」

そのまま、手を下ろす。

「それが“判断の代行”になった瞬間」

一拍。

「会の役割は、変わります」


誰も、質問しない。


「今日は」

彼女は言う。

「自分に使った原則を、他人に渡した経験がある人だけ、手を挙げてください」


半分ほどの手が、迷いながら上がる。


上げなかった側は、

視線を落とすでもなく、

ただ、待っている。


「ありがとうございます」

彼女は言う。

「下ろしてください」


誰も、咎められない。

誰も、評価されない。


「次に」

彼女は続ける。

「それを“助け”だと思った人はいますか」


数本、手が残る。


「“正しかった”と思った人は」


さらに、減る。


「では」

彼女は言う。

「“楽だった”と感じた人は」


今度は、

一瞬のためらいのあと、

さっきより多くの手が上がった。


誰かが、小さく笑いそうになる。

すぐに、やめる。


「共有、ありがとうございました」


それ以上、踏み込まない。


ホワイトボードは、

最後まで白いままだった。


問題は、特に起きていない。



【夜】


原則を、人に渡した。


そう言われて、

思い当たる場面が、すぐに出てくる。


あのときは、

助けたつもりだった。


相手が迷っていて、

言葉を探していて、

沈黙が重くなり始めていた。


だから、

自分が使っている言葉を、

そのまま差し出した。


探さない方がいい。

今は、言わない選択だと思う。


相手は、安心した顔をした。

少なくとも、そう見えた。


その瞬間、

会話は、止まった。


帰り道、

それを「うまくいった」と思った。


余計なことが起きなかった。

波風も立たなかった。


昼の質問で、

「楽だった」と答えた人の気持ちが、

よく分かる。


楽だった。

確かに。


でも、

今になって考えると、

あの場で止まったのは、

感情だけじゃなかった。


相手の判断も、

一緒に止めていた気がする。


原則は、

自分のためのものだったはずだ。


それを使って、

相手の未来を、

少しだけ先取りした。


善意だった。

正しさもあった。


それでも、

胸の奥に残っているのは、

違和感だけだ。


責められてはいない。

禁止もされていない。


だからこそ、

修正の仕方が分からない。


原則を疑う理由もない。

守っている。


ただ、

使い方だけが、

少しだけ、ずれている。


スマホを見る。

今日も、連絡は来ていない。


送ろうとも、思っていない。


それなのに、

昼の会議室より、

この部屋の方が、

少しだけ狭く感じる。


問題は、起きていない。


けれど、

原則が、

人と人の間に

置かれ始めている。


それが何を意味するのか、

まだ、言葉にできない。


だから今夜も、

考えるのをやめて、

原則を、

静かにしまい直す。


――使い方だけが、

後から、追いついてくる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ