好きですと言わないための練習会――適用
※この作品は、
「好きです」と言わないための練習会の記録です。
会話と沈黙が中心になります。
出席は、いつも通りだった。
空席も、増えていない。
減ってもいない。
「今日は、確認は省きます」
彼女はそう言ってから、
一拍だけ置いた。
「代わりに、一つだけ共有します」
ホワイトボードには、何も書かれない。
口頭だけで済ませるつもりらしい。
「この会の原則は」
彼女は言う。
「自分に使うためのものです」
誰も異論を挟まない。
聞き慣れた言い回しだった。
「ただ」
続ける。
「最近、それを人に向けて使っている例が、少しだけ増えています」
少しだけ、空気が動く。
「責めているわけではありません」
すぐに補足が入る。
「自然な流れです」
誰かが、安心したように息を吐く。
「例えば」
彼女は続ける。
「相手に“探さない方がいい”と言ったり」
「“今は言わない選択だと思う”と助言したり」
それは、確かにあった。
ここ数回で、何度か。
「それ自体は」
彼女は言う。
「原則に反していません」
ペンを持ち上げるが、
結局、何も書かない。
「ただし」
そのまま、手を下ろす。
「それが“判断の代行”になった瞬間」
一拍。
「会の役割は、変わります」
誰も、質問しない。
「今日は」
彼女は言う。
「自分に使った原則を、他人に渡した経験がある人だけ、手を挙げてください」
半分ほどの手が、迷いながら上がる。
上げなかった側は、
視線を落とすでもなく、
ただ、待っている。
「ありがとうございます」
彼女は言う。
「下ろしてください」
誰も、咎められない。
誰も、評価されない。
「次に」
彼女は続ける。
「それを“助け”だと思った人はいますか」
数本、手が残る。
「“正しかった”と思った人は」
さらに、減る。
「では」
彼女は言う。
「“楽だった”と感じた人は」
今度は、
一瞬のためらいのあと、
さっきより多くの手が上がった。
誰かが、小さく笑いそうになる。
すぐに、やめる。
「共有、ありがとうございました」
それ以上、踏み込まない。
ホワイトボードは、
最後まで白いままだった。
問題は、特に起きていない。
⸻
【夜】
原則を、人に渡した。
そう言われて、
思い当たる場面が、すぐに出てくる。
あのときは、
助けたつもりだった。
相手が迷っていて、
言葉を探していて、
沈黙が重くなり始めていた。
だから、
自分が使っている言葉を、
そのまま差し出した。
探さない方がいい。
今は、言わない選択だと思う。
相手は、安心した顔をした。
少なくとも、そう見えた。
その瞬間、
会話は、止まった。
帰り道、
それを「うまくいった」と思った。
余計なことが起きなかった。
波風も立たなかった。
昼の質問で、
「楽だった」と答えた人の気持ちが、
よく分かる。
楽だった。
確かに。
でも、
今になって考えると、
あの場で止まったのは、
感情だけじゃなかった。
相手の判断も、
一緒に止めていた気がする。
原則は、
自分のためのものだったはずだ。
それを使って、
相手の未来を、
少しだけ先取りした。
善意だった。
正しさもあった。
それでも、
胸の奥に残っているのは、
違和感だけだ。
責められてはいない。
禁止もされていない。
だからこそ、
修正の仕方が分からない。
原則を疑う理由もない。
守っている。
ただ、
使い方だけが、
少しだけ、ずれている。
スマホを見る。
今日も、連絡は来ていない。
送ろうとも、思っていない。
それなのに、
昼の会議室より、
この部屋の方が、
少しだけ狭く感じる。
問題は、起きていない。
けれど、
原則が、
人と人の間に
置かれ始めている。
それが何を意味するのか、
まだ、言葉にできない。
だから今夜も、
考えるのをやめて、
原則を、
静かにしまい直す。
――使い方だけが、
後から、追いついてくる。
⸻




