好きですと言わないための練習会――原則の補足
※この作品は、
「好きです」と言わないための練習会の記録です。
会話と沈黙が中心になります。
ホワイトボードが、久しぶりに使われた。
書かれたのは、原則そのものではない。
その下に、小さな文字。
――補足。
「原則は変わっていません」
彼女は最初にそう言った。
「今日は、理解を揃えるための説明です」
説明。
それは今まで、避けられてきた。
「“言わない自由”について」
彼女は続ける。
「これは、言えないことを肯定するものではありません」
誰も反応しない。
聞いている。
「言わない、は」
一拍。
「判断です」
判断。
責任が、少しだけ付与される。
「判断には、揺れがあります」
「揺れは、正常です」
ホワイトボードに、線が一本引かれる。
左右に、矢印。
「揺れた結果、言わない」
「揺れた結果、何もしない」
「その間に」
彼女は言う。
「何も起きないことがあります」
全員が、頷く。
よく知っている状態だ。
「それを」
彼女は続ける。
「“成功”と呼ばないでください」
空気が、少しだけ動く。
「成功でも」
「失敗でもない」
「ただ」
彼女は言う。
「維持です」
また、維持。
「維持が続くと」
彼女は視線を巡らせる。
「理由を探したくなります」
誰も否定しない。
「理由探しが始まったら」
彼女は言う。
「原則に戻ってください」
原則。
最初に戻る。
説明は、そこで終わった。
「質問は?」
形式的な確認。
誰も手を挙げない。
「では」
彼女は言う。
「今日も、問題なしです」
その言葉が、
以前より少しだけ、重く聞こえた。
⸻
【夜】
説明されると、安心する。
何をしているのか。
何をしていないのか。
境界が見える。
昼の会は、きれいだった。
整理されていた。
揺れすら、想定内に収まっていた。
だから、夜も大丈夫なはずだった。
はず、なのに。
説明された原則を、
頭の中でなぞる。
言わない自由。
判断。
維持。
どれも、正しい。
それでも、
理由を探したくなる衝動だけが、
説明されていない。
なぜ、探すのか。
何を、探しているのか。
理由を探すな、と言われた。
だから、原則に戻る。
戻る場所は、知っている。
でも、
戻った先で、
何をすればいいのかは書かれていない。
維持。
そのまま。
そのままでいると、
胸の奥で、
未処理の熱が溜まる。
壊れるほどではない。
行動に出るほどでもない。
ただ、
少しだけ、息が詰まる。
スマホを手に取る。
誰にも送らない画面。
言葉を打ちかけて、
消す。
判断。
原則。
消したことに、
丸をつけたくなる自分がいる。
これは成功じゃない。
失敗でもない。
維持。
でも、
維持が続くと、
理由を探したくなる。
昼に言われた言葉が、
そのまま、自分の中で再生される。
説明は、役に立つ。
ただし、
説明が必要になった時点で、
何かはもう、変わっている。
その変化を、
まだ、誰も記録していない。
それが、
今夜いちばん、
眠りにくい理由だった。
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