好きですと言わないための練習会――仕様としての空白
※この作品は、
「好きです」と言わないための練習会の記録です。
会話と沈黙が中心になります。
開始前、会議室のドアは開いていた。
誰かが早めに来た形跡はない。
それでも、入室にためらいがなかった。
席は、自然に埋まっていく。
一脚だけ、最初から空いている。
誰も指摘しない。
誰も数えない。
「始めましょうか」
彼女は名簿を開かない。
それだけで、今日は確認が少ないと分かる。
「前回から今日まで」
一拍置いて、
「特に問題はありませんでしたね」
返事は要らない、という言い方だった。
「なので」
彼女は続ける。
「今日は“確認しないこと”を確認します」
誰かが小さく笑う。
冗談として成立している。
「言わなかったこと」
「起きなかったこと」
「報告されなかったこと」
指を折る。
「これらはすべて、仕様です」
“仕様”という言葉が、
やけに便利に聞こえた。
「不具合ではありません」
「例外でもありません」
記録者が、頷く。
ノートは相変わらず白い。
「欠けた席についても」
彼女は一度だけ視線を向ける。
「問題はありません」
理由は説明しない。
説明が不要だからだ。
「この会は」
彼女は淡々と言う。
「完成しています」
完成、という言葉に、
誰も違和感を覚えなかった。
質疑応答はなし。
雑談もなし。
「以上です」
「お疲れさまでした」
拍子抜けするほど、きれいな終わり方だった。
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【夜】
夜になると、
身体が先に反応するようになった。
考える前に、止まる。
選ぶ前に、引き返す。
スマホを開いて、
誰かの名前を見て、
閉じる。
理由は、ちゃんとしている。
でも、それを確かめる前に、
指が戻ってしまう。
呼吸は、昼より少し楽だ。
ただし、浅い。
深く吸うと、
余計なものまで入ってきそうで、
無意識に避けている。
「完成しています」
昼の言葉が、遅れて浮かぶ。
完成、というのは、
これ以上触らなくていい状態のことだ。
触らなくていい。
直さなくていい。
変えなくていい。
それは、安心のはずなのに。
風呂で、
息を吐くタイミングが分からなくなる。
湯気の中で、何度か咳き込む。
大丈夫。
過呼吸ではない。
寸前ですらない。
ただ、
身体が“言わない前提”を覚え始めている。
誰かに何かを言おうとして、
言葉を組み立てる前に、
喉が閉じる。
失敗じゃない。
成功でもない。
練習の成果、と言うには、
あまりに自動的だ。
布団に入る。
天井を見る。
今日、
“好き”に近づいた瞬間は、
一度もなかった。
それなのに、
一日が終わるころには、
何かを遠ざけた感触だけが残っている。
距離は保たれている。
関係も壊れていない。
ただ、
自分がどこに立っているのかだけ、
少し分かりにくくなった。
息を吸う。
吐く。
今度は、吐くほうが早い。
それが正しいのかどうか、
判断する基準は、
もう、身体の外にはなかった。
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