好きと言わないための練習会 ――沈黙の持ち帰り方
※この作品は、
「好きです」と言わないための練習会の記録です。
会話と沈黙が中心になります。
会議室を出た瞬間、身体の中の音が一斉に戻ってきた。
靴底が床を打つ音。空調の低い唸り。誰かの咳。
あんなに静かだったのに、と思う。
いや、違う。
静かだったのは、会議室じゃない。
自分の中だ。
エレベーターを待つ間、無意識にスマホを取り出していた。
通知はない。
わかっていたはずなのに、少しだけ落胆する。
「言わない」と決めた。
だから当然だ。
画面を消そうとして、指が止まる。
送信履歴のないトーク画面が、やけに明るい。
もし今、ここで一言送ったら。
好きです。
それだけでいい。
討論で積み上げた理屈。
誠実だとか、不誠実だとか。
沈黙は暴力か、配慮か。
全部、この一文で崩れる。
エレベーターが来る。
乗る。
扉が閉まる瞬間、なぜか息を止めていた。
下に降りるだけなのに、落下している気分になる。
ビルの外に出ると、夜の空気が冷たい。
思ったより冷たい。
会議中、体温が上がっていたことに今さら気づく。
歩き出す。
駅までの道は、何度も通ったはずなのに、今日は少し長い。
「沈黙は、誠実か」
誰かの声が頭の中で再生される。
それに答えた自分の声も。
誠実だ、と言った。
嘘ではない。
でも、真実でもない。
本当はただ、怖かった。
言ってしまった後の、取り返しのつかなさが。
好きです、は軽い。
でも、その後に発生する沈黙は、重い。
返事が来るかもしれない。
来ないかもしれない。
笑われるかもしれない。
困らせるかもしれない。
何より怖いのは、
「何も起きない可能性」だった。
それでも世界は続く。
関係も、曖昧なまま続く。
駅のホームで立ち止まる。
電車を待つ人たちの中で、自分だけが少し浮いている気がした。
誰も知らない。
ここに立っている全員が、
言わなかった言葉を一つずつ持っている可能性を。
電車が来る。
乗る。
ドアが閉まる。
ガラスに映った自分の顔は、思ったより平然としていた。
うまくやっている。
問題なくやっている。
そういう顔だ。
だから余計に、胸の奥に残る。
言わなかったことは、
選ばなかったことだ。
選ばなかったものは、消えない。
使われなかった反応は、内側に沈殿する。
今日の会は終わった。
でも、練習は終わっていない。
家に着いて、部屋の電気をつける。
いつもの景色。
いつもの夜。
それでも、
さっきまで話していた「好きです」は、
ここまで一緒についてきている。
布団に入って、目を閉じる。
沈黙は、誠実か。
その問いに、今は答えなくていい。
ただ一つだけ、はっきりしている。
この沈黙は、
ちゃんと自分のものだ。
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