好きと言わないための練習会 ――確認されなかった速度
※この作品は、
「好きです」と言わないための練習会の記録です。
会話と沈黙が中心になります。
【昼】
その日は、議題が最初から書かれていた。
――最近、早くなったこと/遅くなったこと
彼女は、席に着く前にそれを指した。
「今日は、変化の話をします」
そう言ってから、すぐに付け足す。
「ただし、評価はしません」
誰もペンを取らない。
「早くなったこと」
彼女は言う。
「遅くなったこと」
「どちらも」
一拍。
「自覚がなくても構いません」
沈黙。
「……特に、思いつかないです」
誰かが言う。
「そうですか」
彼女は頷く。
「では、別の聞き方をします」
ホワイトボードに、小さく書き足す。
――急がなくなったこと
「これは」
彼女は言う。
「“遅くなった”とは、少し違います」
数人が、わずかに姿勢を変える。
「急がなくなった」
彼女は続ける。
「理由は問いません」
「……あります」
前の席の人が言った。
「どんなことですか」
「考える前に、結論を出さなくなりました」
その人は言う。
「良いか悪いか、すぐ決めなくなった」
「それは」
彼女は確認する。
「困っていますか」
「いいえ」
即答だった。
「楽です」
彼女は、メモを取らない。
「他には?」
「返信が遅くなった」
「予定を決めるのが遅くなった」
「判断を保留する時間が増えた」
声が、ぽつぽつと出る。
「共通点がありますね」
彼女は言う。
「何ですか」
誰かが聞く。
「どれも」
彼女は言う。
「外からは、見えにくい」
沈黙。
「速度は」
彼女は続ける。
「数字にすると、管理できます」
「でも」
一拍。
「体感速度は、共有できません」
ホワイトボードの文字を消す。
「今日は」
彼女は言う。
「“変わっていない”と思っていたものの中に」
少し間を置いて、
「実は、変わっていた速度がある」
その事実だけ、持ち帰ってください。
解散。
誰も急がない。
でも、誰も立ち止まらない。
その感じが、
少しだけ前回と違っていた。
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【夜】
帰り道、信号が赤に変わる。
前なら、
間に合うかどうかを計算していた。
今日は、立ち止まった。
止まった理由は、特にない。
急ぐ必要が、見つからなかった。
スマートフォンを見る。
通知は、来ていない。
前なら、
来ていないことを確認していた。
今日は、
見ただけだった。
歩き出す。
速度が、一定だ。
速くも、遅くもない。
ただ、
調整していない。
昼の言葉が、遅れて届く。
――体感速度は、共有できない。
確かにそうだ。
誰にも説明していないし、
説明する気もない。
部屋に戻る。
時計を見る。
思っていたより、遅い。
でも、
遅れた感覚はない。
急がなくなったことが、
変化だとは思っていなかった。
ただ、
楽になっただけだと思っていた。
布団に入る。
目を閉じる直前、
一つだけ気づく。
「楽」という感覚は、
速度が落ちた結果かもしれない。
それを、
昼には報告しなかった。
報告しなかったことが、
今は、少しだけ引っかかっている。
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