好きと言わないための練習会 ――増えていないという事実
※この作品は、
「好きです」と言わないための練習会の記録です。
会話と沈黙が中心になります。
【昼】
その日は、開始前から会議室が静かだった。
誰かが早く来たわけでもない。
遅れている人がいるわけでもない。
ただ、音が少なかった。
「今日は、人数の確認からします」
彼女は名簿を開く。
数えるような間が、ほんの一瞬だけ入る。
すぐに、いつもの速度に戻った。
「前回と同じです」
彼女は言う。
「増えてもいないし、減ってもいません」
誰も反応しない。
「この会では」
彼女は続ける。
「増減は、あまり重要ではありません」
それは、ずっと前から共有されている認識だ。
「ただ」
彼女は少しだけ間を置く。
「“変わらない”ことが続くと、人は安心します」
数人が、小さく頷く。
「同時に」
彼女は言う。
「確認しづらくなります」
「何を、ですか」
誰かが聞く。
「境目です」
即答だった。
ホワイトボードに、短く書く。
――今が、どこか。
「減っていない」
彼女は言う。
「これは、維持です」
「増えていない」
一拍。
「これも、維持です」
線で囲まず、二つを並べる。
「では」
彼女は問いかける。
「維持されている間に、何が起きていますか」
沈黙。
「……何も」
誰かが言う。
「そうですね」
彼女は肯定する。
「少なくとも、表面上は」
「表面上、というと」
別の声。
「下で起きていることは」
彼女は言う。
「記録に残りません」
誰も、メモを取らない。
「残らないものを」
彼女は続ける。
「無いと判断するのは、簡単です」
空気が、少しだけ締まる。
「今日は」
彼女は言う。
「“増えていない”という事実だけを、持ち帰ってください」
「良いとも、悪いとも言いません」
「判断もしません」
ホワイトボードを消しながら、付け足す。
「境目は」
彼女は言う。
「だいたい、変化が止まったところにあります」
解散。
誰も、急いで出ていかない。
それでも、長居もしない。
部屋は、すぐに空になった。
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【夜】
帰り道、同じ人数で歩いている気がした。
もちろん、実際には一人だ。
誰も並んでいない。
それでも、
横に人がいる前提で歩幅を調整している。
立ち止まり、気づく。
少し、速かった。
歩く速度を落とす。
それで、何かが変わるわけじゃない。
家に着く。
鍵を開ける音が、今日は少し大きい。
中に入ると、
部屋は昼よりも暗い。
増えていない。
減っていない。
その言葉が、頭の中で反復される。
増えない、というのは、
誰も来ていないということだ。
減らない、というのは、
誰も去っていない、ということだ。
どちらも、
確認した事実だ。
なのに、
椅子の数を数える癖が、まだ抜けていない。
数えて、意味がないと分かって、やめる。
境目。
彼女はそう言った。
変わらないところ。
布団に入る。
天井を見る。
何も増えていない夜だった。
何も減っていない夜だった。
それが、
少しだけ、落ち着かなかった。
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