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好きと言わないための練習会 ――空席が前提になる


その日、会議室に入ったとき、

最初に目に入ったのは、椅子だった。


一脚、空いている。


誰もそこを見ない。

誰も数えない。


「始めましょう」


彼女は、遅刻もなく現れた。

名簿を開き、出席確認を始める。


途中で止まらない。

欠けた名前を、読み上げない。


それを聞いて、誰も何も言わなかった。


ホワイトボードには、今日も議題が書かれる。


――言わなかった結果、何が“変わらなかった”か。


「変わらなかったこと、ですか」

前の席の人が言う。

「全部、じゃないですか」


「仕事も」

「人間関係も」

「相手との距離も」


次々と声が重なる。


「特に問題は起きていません」

誰かがまとめる。


「そうですね」

彼女は頷く。

「では、確認します」


ペン先が、空席の方を向いた。

ただし、名前は出さない。


「欠けたことで、何か変わりましたか」


沈黙。


「……席が空いたくらい」

誰かが言う。


「それは、変化ですか」

彼女が聞く。


「物理的には」

少し笑いが起きる。

「感情的には、特に」


「そうですか」

彼女は言う。

「記録上は、“変わらなかった”」


――記録上は。


その言葉を、誰も訂正しない。


「では」

彼女は続ける。

「“言わなかった側”の状態について」


ホワイトボードに、短く書く。


――維持。


「守った、ではなく」

彼女は補足する。

「維持した、です」


「何を?」

誰かが聞く。


「日常を」

即答だった。


少し間が空く。


「維持って」

別の声。

「成功なんですか」


「失敗ではありません」

彼女は言う。

「ただ」


ペンが止まる。


「代謝が起きていない」


誰かが、息を吸う。


「代謝、ですか」


「はい」

彼女は頷く。

「入れ替わりがない」


「それって、悪いことですか」


「評価はしません」

彼女は言う。

「ただ、状態です」


会議室の空気が、少し重くなる。

誰も反論しない。


「欠席者について」

彼女は、あえて言葉を選ぶ。

「“戻る前提”で考えている人はいますか」


誰も手を挙げない。


「では」

彼女は言う。

「“戻らない前提”で考えている人は」


やはり、誰も動かない。


「そうですか」

彼女は小さく頷く。

「どちらでもない」


名簿を閉じる。


「それが、この会の現在地です」


解散の合図。


立ち上がるとき、

誰かが、空席の椅子を無意識に避けた。


避けられた椅子は、

何も言わない。


それでも、

そこに“いた”という事実だけが、

静かに残っている。


問題は、起きていない。


ただ、

欠けたままの形が、

もう“普通”になりつつある。


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