好きと言わないための練習会 ――安全ではなくなった理由
※この作品は、
「好きです」と言わないための練習会の記録です。
会話と沈黙が中心になります。
「今日は、確認から始めます」
彼女はホワイトボードの前に立ち、こちらを見た。
「この会は、基本的に安全です」
一拍置いてから、続ける。
「少なくとも、そういう前提で運営されています」
誰も異論を挟まない。
今さら確認するまでもない、という空気。
「ただし」
彼女はペン先で机を軽く叩いた。
「最近、その前提が少しだけ揺れています」
ざわつきは起きない。
代わりに、全員が姿勢を微妙に直す。
「誰か、理由に心当たりはありますか」
沈黙。
「発言は任意です」
彼女は付け足す。
「言わないことも、この会では正解ですから」
それでも、しばらく誰も話さなかった。
「……安心、しすぎたんじゃないですか」
ようやく一人が言う。
「どういう意味です?」
「ここに来れば、言わなくていい理由が増える」
その人は、言葉を選びながら続けた。
「それが、ちょっと楽になってきた」
数人が、小さく頷く。
「楽になるのは、悪いことですか」
彼女は問い返す。
「悪くはないです」
別の声。
「でも、安全かどうかは、別かもしれない」
「具体的には?」
「言わない選択が」
少し間を置いて、
「“選択”じゃなくなってきてる気がします」
空気が、わずかに沈む。
彼女は、その沈黙を急がせない。
「つまり」
彼女は言う。
「ここが、“逃げ場”として機能し始めている、と」
誰も否定しない。
「この会は」
彼女はペンを置く。
「逃げ場ではありません」
声は強くない。
むしろ淡々としている。
「言わない練習はします」
彼女は続ける。
「でも、言わないことを正当化する練習はしません」
「その違いって」
誰かが聞く。
「そんなに大きいですか」
彼女は、少しだけ考える。
「大きいですね」
そう言ってから、
「正当化が始まると、練習は止まります」
会議室が静まる。
「今日の議題です」
彼女はホワイトボードに書く。
――この会は、何を守っているのか。
「自分」
「相手」
「関係性」
いつもの答えが出る。
いつもより、少し弱い声で。
「では」
彼女は言う。
「それ以外に、守られているものは?」
誰もすぐには答えられない。
僕は、無意識に手元のペンを転がしていた。
「……沈黙、ですかね」
誰かが言う。
「どういう意味です?」
「言わなくて済んでいる状態そのもの」
その人は言った。
「壊れていない、という感覚」
彼女は、ゆっくり頷く。
「それが守られ始めた瞬間」
彼女は言う。
「この会は、安全ではなくなります」
「え?」
「沈黙は」
彼女は続ける。
「手段であって、目的ではありません」
ホワイトボードの文字を消しながら、付け足す。
「目的になると、必ず誰かが置き去りになります」
少し間を置いて、
「大抵は、自分自身です」
誰も笑わない。
誰も反論しない。
「本日の結論です」
彼女はいつものように言う。
全員が顔を上げる。
「この会が安全でなくなった理由は」
一拍。
「ちゃんと機能し始めたからです」
誰かが、息を吸う。
「以上です」
彼女は資料を閉じる。
「今日は早めに解散しましょう」
立ち上がる人、座ったままの人。
動きはばらばらだった。
僕は、椅子に残ったまま思う。
安全じゃなくなった。
でも、危険になったわけでもない。
ただ、
ここが“使える場所”になり始めた。
それが一番、
落ち着かない理由だった。
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