第9話 喪失の境界
夜は深いのに、音はやまない。鐘はもう鳴らないはずなのに、耳の奥ではまだ鉄の響きが薄く残っている。城下の屋根の線がわずかに歪み、瓦の継ぎ目で二つの世界の素材が擦れて軋んだ。石畳には糸みたいなひびが走り、そこから白い霧がうすく漏れている。境界が浅い場所だ。踏みしめるたび、足裏の感触が半拍ずれて返ってくる。
ミリアは結界の縁に片手をつき、額に汗を浮かべていた。毒を触媒化した反動で体温が落ち、唇の色がいつもより白い。カイは膝をつき、彼女の呼吸を数える。十、十一、十二。乱れてはいない。浅いだけだ。浅い呼吸は長く続かない。続かないから、代わりに周囲を整える。
叫び声と泣き声と、笛の練習みたいな音が混ざる。騎兵の鬨の声は遠く、赤子の泣き声は近い。笛は下手だ。下手な音は、なぜか少し落ち着く。整列はもう崩れているのに、秩序だけが「崩れていない」と言い張っている。見かけの隊列はまっすぐだが、目の奥に走る線は曲がっていた。
「見ろ。世界は決着を急いでいる」
ヴァルグが乾いた笑いを一度だけ漏らし、黒い外套の裾を払った。彼は影の中でこまごまと手を動かし、暴れ足りない連中の懐に銀貨を滑らせていく。金は火の粉を沈める。理想ほどきれいではないが、いまはそれでいい。
境界が薄い場所から霧がふき上がり、視界が抜けた。霧の粒が光を折り、広場の灯りが二重になる。ミリアの掌で一度消えた“魂の鏡”の余波が、霧の中でふたたび灯った。目を閉じても、記憶が滲み出す。誰かの初日が、他人の瞼の裏に映る。
レイの初日は冷たい石の床だった。床は磨かれていて、足跡の形も音も残さない。円の中心、二重に走る紋がきしんでいる。老術師の囁きは呪いではない。淡々としている。
「弱さを切り離せ。強さだけを残せ。英雄とはそういう像だ」
命令ではない。最適化の提案だ。選べば救える数が増える、と数字で納得できる調子。少年は頷いた。頷いた瞬間、胸の中の何かが「締まる」感じがして、薄皮一枚ぶんの熱が抜けた。痛くない。むしろ軽い。軽いほうが動ける。動ければ間に合う。間に合えば、人は死なない。そう思った。切り離された熱は流れて、遠いほうの陣へ落ちた。そこに“カイ”が生じる。
カイの初日は逆だった。見知らぬ聖堂の天井を、燭台の火が揺らしている。腕の中に温かいものがあった。自分の掌だ。震えている。隣で同い年くらいの少女――ミリア――が泣いていて、まつげに水がたまっている。勇者と呼ばれ、期待を渡され、恐怖を抱いたまま歩く方法を覚えた。怖いときの歩幅。怖い時の呼吸。怖い時の笑い方。どれも少しずつ覚えた。
同時に起きた二つの初日は、互いに知らないまま重なって、いまほどけていく。知らなかった線がつながると、背中が熱くなる。熱は、空洞の輪郭を浮かび上がらせる。
「……僕は、選んだ」
レイが独り言みたいに言った。高段の縁で、脚を真っ直ぐに揃えたまま、指先だけが震える。群衆に背を向けかけて、ふと止まる。彼にとって民衆はいつも“守る対象”で、“評価者”ではなかった。視線を向けると、秩序がぶれる。そう覚え込んできた。だが今、広場の隅で膝を抱える子どもと、嗚咽を噛み殺す女と、両手を開いたまま立ち尽くす老人が、同じ高さの光で彼の網膜に刻まれた。涙の粒が灯りを屈折させ、その屈折で格子の規則が破ける。
「最短を。多くを救う、最短を。だけど、最短は“間”を奪う。泣く時間、笑う時間、躊躇う時間。僕は救いの名で、それを奪ってきた」
カイは一歩近づいた。刃の届く距離のすぐ外。腰は落とさない。肩の力も入れない。ただ、目だけを合わす。ミリアの声が、弱いけれど明瞭に追いかけてきた。
「二つの世界は、二人の決断に同期してる。あなたたちが凍れば世界が延び、動けば決着へ進む。猶予は、あなたたちが作るの」
ヴァルグが指を鳴らし、暴れたい者の周りに別の用事を作ってやる。「猶予を買ってやった。三分だ。金利は高いぞ」その皮肉は、意外なくらい優しかった。
レイはミリアを見、カイを見、それから空を見上げた。シアリの白い月が欠けて、リシアの青い月が満ちていく。二つの輪が雲の上で重なりかけている。ミリアの指輪がかすかに脈を打ち、凍結の“合図”が遠くで鳴った。
「凍結を実行すれば、弱さも強さも、順番に主導権を握れる。けどそれは、僕たちが“僕たち”であることを一部あきらめるってことだ」
「譲り合いは、あきらめじゃない。共有だ」
カイが言うと、レイの灰眼はわずかに細まった。反論はすぐに出てこない。指先の震えだけが残る。
その瞬間、城壁の上で爆ぜる音がした。乾いた破裂音。シアリの治安部隊の一部が独断で殲滅行動に移ったのだ。鎮圧ラインが勝手に動き、泡の角に硬い刃が差し込まれる。命令系統が揺らぐ時、秩序は一番鋭くて一番もろい。
レイは走った。自分の秩序を、自分で止めるために。カイも走った。止血具と盾を背負い直し、ミリアの枕元から離れる瞬間、細い指が袖を掴む。
「戻ってきて。二人で決めるの」
「必ず」
約束の言い方は短くていい。短いほうが重くなる。カイは段差へ躍り出て、斜面を駆け降りた。足場が時々滑る。滑りは境界のかすれだ。半拍ずらして着地する。ずらせば、転ばない。
城壁の上では、鎧の列が波になって崩れかけていた。命令なしの突撃を誰かが止めようとして、別の誰かがさらに押し出す。レイは格子の線を三本だけ立ち上げ、暴走した列を緩やかに曲げた。止めない。でも、向きを変える。角に当たる速度が落ちる。落ちた分だけ、ぶつかっても折れない。清潔すぎない暴力。それが今の彼の手だった。
「退け。命令は出していない」
レイの声はよく通る。鎧の影で、二人がぎくりと肩を揺らす。命令に従いたい者ほど、命令が不明瞭になると荒れる。荒れに合わせて、外周から火が上がった。誰かが布束に油を染み込ませ、角の隙間をくぐらせて投げた。火柱は高くない。けれど、目を奪うには十分だ。
「水、右の樋から取れる!」
カイは最初に目についた若い兵の肩を叩き、樋の位置を指で示す。そこで止血具の布を外し、樽に突っ込んでしぼった。熱くなりかけている刃先に布をかけ、酸素を遮る。火の色が一段落ちる。別の兵が動き、もう一本の樋の栓を抜いた。狭い通路を水が走り、火の根元が濡れていく。レイの格子がその流れを邪魔しない角度にちょっとだけ傾き、泡の縁がそれに合わせてふくらんだ。
「君、肩を切ってる。止めるぞ」
血に気づいていない少年兵の襟首を引き、カイは布を巻いた。巻きながらも耳は全体を聴く。怒鳴り声が少し遅れて反響している。遅れは境界の波だ。波が高くなる前に、段差を作る。段差は逃げ道になる。逃げ道があれば、誰かは死なない。
レイが城壁沿いに駆け、独断で動いた小隊長の前に立った。灰眼がまっすぐに刺さる。彼は叱らない。正当化もしない。簡潔に整える。
「命令系統は僕だ。君は今、僕の秩序を壊している。退け。三歩下がって、頭を冷やせ。冷やしたら、報告に来い。責任は僕が持つ」
小隊長の喉が鳴った。顔色が変わる。レイのやり方は冷たいと言われるが、こういう時は温度があった。責任を引き受ける言い方は、震えた人間の膝を一回だけ止める。
混線は三分で落ち着いた。ヴァルグの「猶予」にほぼ釣り合う。火は下がり、泣き声も細くなった。外周を回っていた笛の音が、また下手に戻る。下手に戻るのはいい兆しだ。余裕がほんの少し返ってきた証拠だから。
カイは深く息を吐き、城下へ目を戻した。霧がまた湧く。“魂の鏡”の余波が、確かにまだ残っている。霧の膜に、別の朝が薄く映った。レイの背中。散っていく数字。切り離された熱。空洞の感触。空洞は何も感じないのではなく、何かを感じない“まま”動ける空きだ。空きは早い。早いのは正しいことが多い。だが、空きは時々、あとで痛くなる。
「……空っぽだと思ってた場所に、形がある」
レイがポツリと告げた。誰に向けてでもなく、今の自分へ向けるみたいに。カイはうなずく。
「あるよ。俺のほうにも、穴がある。怖いときに口笛吹いてごまかしてきた穴。埋めないで、そのまま持つ方法をまだ練習中だ」
「空洞を持ったまま、守れるか」
「持ったまま、寄ってくるやつの肩を貸す。そこに秩序を敷け」
言いながら、カイは振り返った。ミリアが石に背を預けて座り直し、静かに息をしている。色はまだ薄い。けど、目の焦点は合っている。指輪が微かに脈を打ち、二つの月の位相にあわせて小さく光る。
「二人とも、来て」
彼女の呼び声は弱いのに、真っ直ぐ届いた。レイとカイは自然に歩幅を合わせ、広場の中央へ戻る。ヴァルグが肩で笑い、ラナは記録の札を閉じて立ち上がった。
「報告。独断行動は収束。負傷、軽傷八。重傷ゼロ。火災、鎮火。市民保護、成功率八割。未収拾の噂、拡散。……猶予、あと一時間」
数字は冷たいが、道具になる。数字を手にした人間が、次に何を選ぶかを支える。
「凍結案、検討に戻る」
ミリアが石に手をあて、簡潔に言う。声は弱いが、指示は揺れない。
「二人の主導権を月の合図で交代。条件は三つ。嘘をつかない。合図を破ったら痛い罰を受ける。交代の前後に、必ず互いの“報告”をする。……それで、まだ足りない。だから、最後の条件。どちらかがどうしても譲れない時は、第三者――わたし――が一度だけ“拒否権”を行使する」
レイが目を細める。「君が凍っている間は?」
「拒否権は発動しない。だから“いま”決める。拒否権を使う基準をここに残す。紙に書いて、街にも貼る。誰が読んでも同じ意味になるように、ラナが言葉を整える」
ラナは即答した。「やる。冗長性のある文言にする。解釈の余地を絞る。……承認印は二つ。君たちの印と、街の印」
「街の印?」
「最弱の代表の印だ。子どもか、病人か、移民か。誰でもいいが、“弱い側”が承認した契約じゃないと、長く持たない」
沈黙が一度だけ落ち、すぐに薄く割れた。遠くの空が少しだけ明るい。夜明けの気配だ。二つの世界が持てる朝は、一つだけ。どちらの朝にするかは、彼らが決める。決めるまでの猶予を、彼ら自身が延ばすしかない。
「……僕は、最短を愛している」
レイが淡々と言った。宣言というより、確認だ。
「でも、最短だけでは、たぶん持たない。持たせるために、遅さを入れる。遅さは弱さじゃない。僕は、それを認めるところから始める」
「俺は、遅くても、間に合う可能性があると信じる。信じるだけじゃ危ないから、数字で殴ってくれていい。ラナが数え、ヴァルグが支点を増やす。ミリアが止める。……それでやる」
ふたりは同時に手を差し出した。握手は短く、固い。約束の形はきれいでなくていい。紙にする前の仮止めだ。仮止めがあるほうが、紙が生きる。
その時、霧がまたひと息ぶん濃くなり、ミリアの術が最後の映像を見せた。召喚の日の一番端。失敗の直後、床に崩れたカイの横で、ミリアが小さな声で言っている。
「生きて。怖いままでいいから、生きて」
映像はそこまでで、霧は薄くなった。ミリアは苦笑して、声を潜める。
「初日から、そう言ってたみたい」
「聞いた。今も言われてる」
カイが返すと、ミリアは目を細めた。「じゃあ、もう一度。――生きて。怖いまま、弱いまま、選んで」
レイは短く息を吐いた。音が少し震えていた。震えは、悪くない。
「夜明けまでに、準備を終える。凍結の術式、交代の手順、拒否権の文言。……それと、俺の秩序の穴埋め」
「穴埋め?」
「命令が揺らいだ時の、現場の“間”。僕のやり方はそこが弱い。君の遅さを、型にする。遅さの標準手順。十項目」
「そんなもの、作れるのかよ」
「作る。今日から」
ラナが筆を構え、ヴァルグが肩を回す。作業は地味で、眠い。だが、地味で眠い作業が、世界の朝を作る。
視界の端で出入口の列が落ち着き、人の足音が一定になった。どこかの屋根で、また下手な笛が鳴った。子どもかもしれない。音は揺れて、最後で笑ったみたいに終わる。
空は薄い青に変わりかけている。二つの月はゆっくりと離れ、合図は一度だけ小さく鳴った。合図は「約束を忘れるな」と言っている。忘れそうになるのは当たり前だ。だから、空に刻む。
カイは剣の鍔に触れ、深く吸い込んだ。冷たい空気が肺に入って、胸の空洞の形をなぞる。空洞は消えない。消えないまま、持っていく。
「レイ。朝までに、もう一回だけ、街を回る。弱い側の印をもらってくる」
「一緒に行く」
「ミリアは?」
「ここで紙を作る。戻ってきたら、三人で押す」
決め方は簡単で、やることは多い。眠る時間はない。でも、息はできる。息ができるなら、選べる。選べるなら、遅くても、間に合う可能性がある。
「猶予の追加、三十分」
ヴァルグが指を鳴らした。どこかで誰かが財布を落とし、どこかで誰かが拾って返した。返す時のぎこちなさが、少しだけ街の音をやわらげる。
カイとレイは並んで歩き出した。広場の端を抜け、まだ眠らない市場を横切る。路上のピアノの前で、昨日の少年が鍵盤を拭いていた。彼は二人を見て、ほんの少しだけ笑った。高さは揃っていない。だから、いい。
「――戻ってきて。二人で決めるの」
背中でミリアの声がもう一度した。カイは振り向かないで手を上げ、レイは短く頷いた。夜はまだ暗いが、空の色は変わり始めている。二つの世界が持てる朝は、一つだけ。
決めるまで、走る。走りながら、穴を持ったまま手を伸ばす。空洞に風が入って、痛い。痛いが、息ができる。息ができるなら、まだ戦える。
そして朝が来る前に、僕らは一度だけ立ち止まって、紙に印を押す。弱い側の印と、僕らの印。二つの印の間に、半拍の“間”を残す。それが、喪失を喪失のまま終わらせないための、最初の手順だ。




