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転移勇者、敵は“もう一つの自分”でした ──鏡のような世界で、己の影と戦う少年の選択。  作者: 妙原奇天


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第8話 英雄殺しの夜

 夜のはじまりは、静かだった。広場の石床には雪が薄く残り、靴音が出ない。灯りは多く、影は短い。秩序の街らしい夜だ。安心指数は昼とほとんど変わらないはずなのに、空気の重さは別物だった。誰もが息を潜め、何かを待っている。待っているのは、言葉か、刃か、それとも崩落の合図か。


 カイは広場の中心にいた。演台は片づけられ、代わりに結界のしるしが四隅に浮かぶ。ミリアはその一つに触れて調律していた。レイは少し離れた高段で、無人鎧の隊列に短い指示を落としている。ラナは記録の札を胸に挟み、周囲の動きを視線だけで拾っていく。ヴァルグは段の影で脚を組み、口笛を飲み込むように静かに笑う。


 決め手がない。互いの芯は見せた。手札の一部も、握り方も。だが、押し切る理由がない。押し切った先にあるのは、片方の沈没だ。それをわかってしまったからこそ、刃が重くなる。重くなるほど、第三の手が入りやすくなる。誰かが、今夜なら崩せると思っている。


 風向きが変わった。ほんの少し、生臭い。カイは振り返る。石畳の目のすき間をすべるようにして、薄い影が走った。人の形ではない。布でも獣でもない。狙いを消すために削ぎ落された“形”。天幕の端から、黒い線が飛ぶ。矢。尾羽は短く、鉄の軸が反りを抑えている。毒が塗ってある。塗り方が雑でない。計算された角度とタイミング。格子の警戒線を見切り、泡と泡のつなぎ目に合わせてある。市民を守る位置に格子が固定されている今、術の空白が一瞬だけ生まれていた。


「ミリア!」


 カイの声が出るより早く、ミリアの体が動いた。彼女は躊躇しない。結界から指を離さず、腰だけで体の向きを変え、肩で矢筋を受ける。矢は浅い。浅いが、毒だ。彼女は即座に詠唱を切り替え、短く息を吐いた。


「だいじょうぶ。入ってない」


 強がりではない。事実を最短の言葉で伝えた声だった。矢柄を折り、傷口の周りを指で押さえる。血がにじむ。その指先で、ミリアは結界の紋に触れ、毒を拾い上げた。拾った毒素が薄い光に変わる。光は揺らめき、彼女の掌の上で形を持つ。触媒化。毒を逆に術の火種として使う。


「見て。互いの初日を」


 言葉が落ちた瞬間、光が広がった。広場の空気が二重になり、カイの網膜に別の朝が映り込む。見たことのない朝。けれど、確かに自分の朝。


 石で組まれた大きな円室。古い紋章が床に刻まれ、そこに十三人の術者が立っている。天井は高く、かすかな潮の匂いがした。詠唱は乱れ、失敗の気配が走る。光が割れる音。紋が二つに分かれ、重ならない。引き合うはずの線が反発し、円の外へ火花が散った。


 老術師が一人、レイの側に寄る。白い髭を編み、瞳は冷たい水色だ。怒鳴らない。脅さない。命じない。囁く。


「弱さを切り離せ。強さだけを残せ。英雄とはそういう像だ」


 命令ではない。最適化の提案。選べ、と言っている。選べば早い。早ければ救える。救える数は増える。数は顔になる前にゼロになる。ゼロにすれば、誰も泣かない。


 レイは従ったのではない。選んだ。世界を最速で救うために、選んだ。強さと弱さを切り離し、強さに全てを任せる道。だから彼は冷たいのではない。熱を、最初に自分で棄てたのだ。棄てた熱は、誰かの中に残った。残ったのは、カイの中だ。


 視界が戻る。ミリアが崩れ、カイは反射で抱き止めた。彼女の体は軽い。軽いが、内側に重さがある。術者の負担。毒を燃やした反動。額は汗で濡れ、まつげが光る。脈は速いが、乱れてはいない。


「ミリア!」


「生きてる。まだ詠唱できる。……少しだけ、待って」


「毒は?」


「もう使った。残りは……ううん、残りはあなたが使って」


 意味がわからずカイが眉を寄せると、ミリアは笑った。笑みは薄い。けれど、確かに笑っている。


「あなたは、他人の痛みを数えるでしょう。なら、私の痛みは数えなくていい。もう使ったから。今は、レイの番」


 レイの指が震えた。灰色の眼が揺れる。戸惑い。彼は初めて、自分の中の空洞を見たのだろう。切り離した熱のかけらが、目の前で光として燃やされた。それを見て、揺れないほど彼は機械ではない。


 群衆が息をのむ。笑わない街で、ざわめきが起きた。微かな泣き声が混じる。誰かの喉が鳴り、誰かの手が口を覆う。血の匂いが風に乗り、夜気が鋭くなる。ヴァルグが遠くで舌打ちした。舌打ちの音は、苛立ちよりも判断の合図に近い。


「今夜はどちらも勝たない」


 彼は低く言い、影の中に指示を飛ばした。過激派の退路を塞ぎ、別の抜け道をひとつだけ残す。捕らえるよりも、ばらまかせない。混乱の量を最小にするやり方だ。


 カイはミリアをそっと地面に横たえ、外套をたたんで枕にした。彼女は目を閉じ、すぐに薄く開ける。意識はある。指輪の脈は速い。指先は冷たすぎない。耐えられる。耐えさせるために、彼女は毒を燃やした。


 立ち上がると、刃の重さがいつもと違っていた。軽いのに、下がる。下がるように見えるのは、声の重さが逆に上がっているからだ。刃が軽い時は、声を重くする。声が重い時は、刃を遅くする。それを体が知っている。


「レイ」


 カイは名を呼んだ。広場の真ん中、音が吸い込まれる場所へ向けて声を飛ばす。高段の縁で立ち尽くしていたレイが、ゆっくりとこちらを見る。灰眼に夜の灯りが映り、わずかな濡れがある。濡れは涙ではない。空気が揺れたせいだ。そういう言い訳が通るほど、今はまだ柔らかい。


「俺はお前を憎めない」


 ざわめきが一瞬強くなり、すぐに小さくなる。カイは続ける。


「だって、お前は俺の“強さ”だ。俺は、お前に残した“弱さ”を抱えて生きる」


 戦術的には意味がない。勝ちに行く言葉ではない。だが、広場のどこかで嗚咽が漏れた。笑わない街で、涙は新しい音だ。拾うべき音だ。拾えば、どこかの支点になる。


 レイの口元が歪む。怒りではない。痛みだ。彼は痛みを遠ざけることで世界を守ってきた。遠ざけた痛みが、今は胸の内側に戻ってくる。


「弱さで、人は守れない」


「弱さがあるから、人は寄る。寄った場所に、秩序を敷け」


 短いやり取り。だが、刃より早く芯に届く。芯に届けば、揺れる。揺れれば、支点を増やせる。増やせれば、天秤はもう少しだけましな傾き方をする。


 空が軋んだ。音はないのに、耳の奥が痛む。裂け目がわずかに広がる。境界は待たない。世界の崩落速度が上がる。雪は止み、冷気だけが鋭くなる。灯りが揺れ、影が二重になる。二つの月は雲の奥で重なりかけ、ミリアの術式がそれに反応して微かに鳴った。


「――来る」


 ラナが短く警告する。彼女の視線は群衆の隙間を走り、第二射の気配を拾った。さっきの矢筋と同じ角度、同じ速度。今度の狙いはミリアではない。レイだ。過激派は均衡を割るためなら、どちらでもいい。英雄でも、偽勇者でも、倒れれば“英雄殺し”の名が残る。名が残れば、次が起きる。設計された混乱の連鎖。


 カイが踏み出す。レイも動く。格子の壁が半歩遅れて立ち上がり、矢は縁に弾かれて回転した。回転した矢が予想外の角度で落ち、観衆の肩をかすめる。悲鳴。怒号。揺れる空気が、崩落を後押しする。


「離れろ!」


 レイが指示を飛ばし、無人鎧が波のように動いて人の流れを変える。ミリアはうつ伏せのまま片手を上げ、弱い泡で外周を包む。泡は強くない。強くないが、角を落とす。角が落ちれば、ぶつかる速度が一段落ちる。ラナは記録の札を捨て、脈の札を手にした。負傷者を数え、傷の深さを分類し、優先順位をつける。ヴァルグは影の中で喉を鳴らし、狙撃の元をあぶり出す。出した者に逃げ道を一つ与える。捕まえれば、仲間が増える。逃がせば、連鎖が切れる。面倒な選び方だが、今はそれが最良だ。


 カイは刃を抜かない。刃を抜かない代わりに声を投げる。名前を呼ぶ。近くの者から遠くの者まで、順に短く呼ぶ。呼ばれた者は振り向く。振り向けば、足が止まる。止まれば、ぶつからない。ぶつからなければ、崩れない。崩れない間に、別の手が届く。


 第三射が来た。今度は低い。矢は地面すれすれで走り、跳ねて高くなる。跳ねた矢の先に、ミリアの横顔がある。間に合わない。心臓が早く打ち、時間が遅れる。遅れた時間の中で、カイは自分の体を前に投げた。間に合わない。間に合わないはずだった。


 レイの手が、カイの肩を引いた。引いた力は強くない。強くないのに的確で、カイの体はわずかに重心をずらし、矢の軌道から外れる。矢は石床に刺さり、鋭い音を立てて震えた。震えはすぐに止まり、白い息が矢羽の根元で小さく揺れる。


 レイの灰眼が、カイを正面から見た。迷いがある。迷いは弱さではない。弱さを認めた場所にしか、選び直しは生まれない。


「……まだだ」


 レイは低く言い、立ち位置を変えた。高段から降り、広場の中央へ。カイと向かい合う。剣はまだ抜かない。抜かないが、足は戦いの足になっている。二人の間の空気が冷たくなり、耳鳴りが一拍遅れて返ってくる。


「レイ。俺たちは、互いの半分だ」


 カイは言う。言いながら、自分でもうなずく。それは慰めではない。事実だ。切り離された強さと弱さ。別々に生きてきた二つが、今、同じ場所に立っている。どちらが正しいかではない。どう合わせるかだ。


「合わせ方を知らない」


「なら、殴り合ってでも、知る」


「暴力の正当化だ」


「最後にする。最後まで言葉を使う。最後の最後まで。……でも、最後が来たら、逃げない」


 世界が軋む音が強くなった。裂け目が、夜空の布を爪で引き裂くように広がっていく。二つの月が薄い雲の向こうでずれ、また重なる。その重なりが、ミリアの指輪に反応して脈を打つ。彼女は地面に手をあて、薄い光を広げた。


 淡いひかりは雪解け水みたいに冷たく、二人の足元をなでる。二人の影が一度だけ重なり、また離れる。重なった一瞬、カイは見た。レイの中にある空洞を。レイも見た。カイの中に残っている熱を。空洞は冷たく、熱は痛い。どちらも、いい。どちらも、人間が持つものだ。


「――来い」


 レイが言った。短く。合図はそれだけだった。二人の足が同時に動く。磁石の同極みたいに、近づくほどに押し合い、離れるほどに引き合う。肩の面がぶつかり、肘が擦れ、踵が石の目を拾う。刃は出ない。出さないのに、刃よりも鋭い手応えが腕を通る。半拍のずれ。ミリアが縁で体勢を微補正し、同じ動きにわずかな違いを与える。違いは、曲を変える。曲が変われば、観客の息が変わる。


 石床に走った将棋盤みたいな線は、格子ではない。線は磁場の跡。二人の歩幅と呼吸の癖が地面に写り、目に見える形で並んでいる。目に見えるから、間違いがわかる。わかれば、直せる。直せば、ぶつからない。ぶつからなければ、切らなくて済む。


 十分――それだけ持てば、カイは何かを見つけられる。ミリアの声が遠くで数えている。五十息、四十七、四十四。レイの足の内側。靴底の削れ。肩の高さ。視線の揺れ。どれも小さいが、積み重ねれば道になる。


 だが第三者は、待っていない。過激派は再び動いた。今度は矢ではない。石油を染み込ませた布束に火を付け、格子の角をくぐらせて投げ込む。火柱がひとつ立ち、もうひとつが応える。設計された正当化を、より派手にするための炎。火は目を奪い、耳を鈍らせ、手を乱す。


「止める」


 レイが言い、格子の壁を稼働させる。火は四方から圧をかけられ、酸素を奪われてすぐに沈んだ。清潔な鎮圧。標的を外さない暴力。綺麗に見える絵。綺麗な絵は説得力を持つ。説得力は、弱い人にも効く。効きすぎることがある。


 カイの足がまた勝手に動いた。火に紛れて走り出した小さな影。路上芸の少年だ。ピアノを弾いたあの子。彼は誰かの怒鳴り声に驚いて転び、手から何かを落とした。落ちたのは、折りたたみの楽譜。格子の線がすべってきて、楽譜を切り裂く。


「やめろ!」


 カイは格子の前に体を入れ、肩で線を押し戻した。痛い。だが、耐えられる。ミリアの泡が一瞬だけ膨らみ、格子の角を鈍らせる。少年は楽譜を拾い、泣かずに走った。泣かないのは、強さではない。訓練の結果だ。それでも、泣かないで走れるなら、今はそれでいい。


「――弱さを、盾にするな」


 レイの声が落ちた。声は冷たいが、怒りではない。自分に言い聞かせる声だ。弱さを盾にすれば、弱さが割れる。割れた欠片で、別の誰かが切れる。


「盾にしてない。寄ってくる場所を、作ってる」


 カイは返した。返しながら、刃を鞘の中で握り直す。まだ抜かない。抜く順番は、最後だ。


「三十息」


 ミリアの数えが続く。彼女の指先は震え、呼吸は薄い。毒の反動がじわじわ来ている。それでも彼女は立っている。立つための姿勢を知っている。姿勢は筋肉ではなく、意志の置き方だ。


 ヴァルグが段の上から石片を投げた。石片は空中で方向を変え、過激派の一人の足に当たる。たったそれだけで、連鎖のリズムが崩れる。崩れれば、必要な分だけ落ち、落ちた分だけ止まる。止まる間に、ラナの記録が追いつく。記録は武器だ。あとで誰かを守る紙になる。


 二十息。十六。十二。カイは半歩ずらす。レイも半歩ずらす。重なりが一瞬だけ整い、次の瞬間にはずれる。小さなずれを積み重ねて、ぶつからないで触れる場所を増やす。増えた場所は、やり直しの余白になる。


 十。九。――八。


 そのとき、空が裂けた。雲の向こうで二つの月がぴたりと重なり、ミリアの指輪が鋭く鳴る。合図。世界に刻んだ“交代”の印。凍結の術を発動できる瞬間。ミリアは空を見上げ、指輪に触れた。薄い光が彼女の掌で跳ねる。


「いける?」


 カイが問う。彼女は頷く。頷きは小さい。だが、嘘じゃない。


「誰を凍らせる」


 ラナの声は実務だ。ミリアはカイを見た。カイはレイを見た。レイは空を見た。迷いは短く、重い。


「俺は凍らない」


 カイは言った。さきに決めていたことだ。ミリアに言った言葉を、ここでも繰り返す。


「凍ってしまえば、たぶん戻らない。戻せたとしても、“戻れなかった時間”の分だけ、誰かに当たる」


 レイは目を細めた。彼の中の空洞が風を吸い、冷たさを増す。彼は凍らないだろう。凍れない。強さは凍らない。凍れば、折れる。


「なら――」


 ミリアが息を吸う。吸った息が白く光り、指先が震える。


「私が凍る」


「だめだ」


 カイとレイが同時に言った。ミリアは小さく笑った。笑って、首を振った。


「凍るのは一瞬。合図は月。解けるまでに、あなたたちがやることがある。私は、あなたたちの合図になるためにここにいる」


 凍ることは、消えることではない。だが、凍る間、彼女は何もできない。できない間に、崩落が進めば、戻っても遅い。遅いことを、彼女は知っている。それでも、今は合図が必要だ。誰も信じない合図ではなく、誰でも見上げればわかる合図。滑稽で、人間的で、守られやすい合図。


「五」


 ミリアが数え、掌を上に向ける。薄い光が指先から糸のように伸び、彼女の胸元をやわらかく包む。冷気が集まり、音が遠のく。凍結の術。禁断の手の、指先だけを使う。カイは彼女のそばに膝をつき、肩に手を置いた。温度を伝える。伝えれば、戻る場所がずれにくい。


「四。三」


 レイが半歩前に出た。灰眼は氷の色だ。だが、その中心に薄い色が混じっている。さっき見た熱の残り。彼は迷っている。迷いは弱さではない。選び直すための余白だ。


「二」


 ヴァルグが息を止め、ラナが記録を置く。無人鎧が動きを止め、群衆のざわめきが沈む。少年の楽譜が風に揺れ、空気が一瞬だけ透明になる。


「一」


 ミリアの掌から光が広がり、彼女の体が静かに固まった。目を閉じ、呼吸を浅くして、時間の外へ一歩だけ出る。凍った彼女の指輪は脈を打たない。合図は空だけになる。二つの月。満ち欠け。約束。


 広場の真ん中に、静けさが生まれた。静けさは間だ。終わりではない。間に、カイは声を置いた。


「レイ。俺はここにいる。弱さを持ったまま、ここにいる。……来い」


 レイは頷いた。頷きは小さい。だが、答えだ。二人は同時に踏み出し、肩の面を重ね、半拍ずらし、ひとつの円の中に入った。円は狭い。狭いが、足りる。足りるように動く。動くために、刃を使わない。使わないために、言葉を持つ。言葉は短く、重く、届く。


「弱さを盾にするな」


「弱さを隠すな」


「数字を見ろ」


「顔を見ろ」


「急げ」


「待て」


 言葉はぶつからない。ぶつからないように、半拍ずらす。ずれが、音になる。音が、支点になる。支点が、天秤を支える。


 夜は深くなる。空は軋み、裂け目は伸びる。世界の崩落速度は上がり、境界は待たない。けれど、その夜の真ん中で、笑わない街のどこかから泣き声が上がり、別の場所で笑い声が漏れた。高さは揃わない。揃わないまま、混ざり合う。混ざり合う音が、カイの背中を押す。レイの肩を軽くする。


 ――ここから先は、互いの芯に刃を入れるしかない。だが、刃を入れる順番を変えられる。言葉を先に、刃を最後に。約束を空に刻んだ夜に、それを守れるかどうかが、英雄を決める。英雄の像は一つじゃない。強さだけで作る像もあれば、弱さで支える像もある。二つを並べて、半拍ずらす。ずらした像の間に、人が寄る。


 ミリアの凍った掌から、淡い光がこぼれた。二人の影がもう一度だけ重なり、また離れる。重なった跡が足元に残り、石の目が微かに温かくなる。遠くでヴァルグが笑い、近くでラナの筆が走る。少年の楽譜が風にくぐもった音を立て、誰かがそれを拾う。拾う手は震えているが、まっすぐだ。


 英雄殺しの夜は、誰も英雄を殺せなかった。代わりに、薄い像がひとつ壊れ、別の像が生まれ始めた。崩落は止まらない。止まらないが、遅くできる。支点を増やせば、天秤は粘る。粘りの中で、呼びかけは続く。


「レイ。俺はここにいる。弱さを持って、ここにいる」


 返事はない。ないが、足音が答えた。二人の足音は別の音だった。別の音のまま、同じ円を回る。回りながら、半拍ずらす。ずらした先に、朝の気配が、ほんの少しだけ混ざっていた。

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