第7話 鏡世界シアリへ
境界門を抜ける瞬間、視界は一度だけ薄く裏返った。吐き気は来ない。代わりに、耳鳴りが一拍だけ遅れる。足裏の感触が石から布へ、また石へ戻る。ミリアが指輪を触り、合図もなく頷いた。無事、侵入。人数は最小。カイ、ミリア、ラナ、そして道中の影扱いはヴァルグ。四人とも目立つ装いは避け、紋章も指輪も外套の内側に落とした。
最初に気づいたのは、匂いの少なさだった。焼き菓子の甘い匂い、肉を焼く脂の匂い、湿った木箱の匂い。そういうものが、あるべき場所にあるのに、薄い。換気が徹底され、煙は高いところへ吸い上げられている。路地のゴミは見当たらない。汚れがないわけではないのに、見えないように配置されている。
ミリアが口の中で数字を転がし、低く呟く。
「“見えない列”が読める。歩行と停滞の反復が、街区ごとに最適化されてる」
カイは足を止め、行き交う人の流れを見た。人々はぶつからず、譲り合いもしない。譲る姿勢が最初から不要なように、動線の肩が丁寧に落とされている。横断のタイミングは信号だけでなく、路面の光の濃淡で示され、数秒ごとに人の波が入れ替わる。列は自然発生ではない。設計された波だ。波同士は衝突しない。ぶつからない街は、ぶつかるための言葉を忘れやすい。
交差点の一角に、薄いガラス板のようなディスプレイが立っていた。朝の配信で更新される“安心指数”。今朝は九十六。下に小さく、今週の犯罪発生率は戦後最低、失業は補助によってゼロに近い、とある。指数の横に、規範行動の推奨が三つ。早寝、早起き、整理整頓。字は丸く、角がない。
「数字は美しい」
ラナが淡々と言う。彼女はシアリの行政官で、こちら側でも行動を共にする数少ない“向こうの人間”だ。感情をほとんど表に出さないが、数字が好きなことだけは隠さない。
「数字は嘘もつく」
ヴァルグが肩をすくめた。彼は今日も楽しそうだ。退屈していない。
「嘘ではなく、盲点だよ」
ミリアが視線で示したのは、広場の端にある黒いピアノ。鍵盤のフタは開いているのに、椅子は使われていない。ピアノの前には短いロープが張られ、演奏時間の割り当て表が貼ってある。今は空白。路上芸の少年もいない。笑い声はある。けれど、高さが揃っている。ふいに上ずる笑いがなく、腹の底から出る笑いもない。笑う人は笑うべき高さで笑い、笑い終わるべき時刻に笑い終わる。
カイの喉の奥が乾いた。乾きは怒りではない。何かが欠けている、と体が覚える時の乾きだ。
「公開討論は?」
「昼の鐘と同時」
ラナが答える。「君が望んだから、彼は場を開いた。条件がいくつかある。最後に私から読む」
条件はきっと、事故を設計しないための枠だ。枠は必要だ。必要だが、枠は楽をさせる。楽は油断を呼ぶ。油断した刃は、意外とよく切れる。
鐘が鳴った。街の中央、城壁の内側に作られた広場。円形劇場のような段差が同心円を描き、高壇には二つの演台。片方にカイ。もう一方にレイ。観客は多く、整然としていた。乱闘を避けるための線は、目に見えない泡として張られている。ミリアの術式と、シアリ側の結界が重なり合い、角を落としている。
レイは黒い甲冑ではなかった。黒を基調にした礼装。灰色の眼は乾いている。乾いているのに、疲れてはいない。よく寝ている。よく寝ている人間の目だ。管理は眠りを奪わない。眠りを奪わない管理は、人を硬くする。
「痛みは人を壊す」
レイは最初に言った。演説は短く、構造がわかりやすい。
「僕は壊したくない。だから管理する。事故は設計できる。人は疲れる。疲れた人は間違える。なら、間違えなくて済むように、先に道を作る」
拍手が揃う。揃っているから、怖いわけではない。揃っていることが怖いのだ。拍手は個人の手の音だ。個人が薄くなると、音は面になる。面は、よく響く。
「痛みを避けることと、感じなくさせることは違う」
カイは応じた。言葉を短く区切り、体幹から押し出す。狭間で覚えたやり方。言葉が刃になる前に、言葉の柄を手になじませる。
「痛いのは嫌だ。誰だって嫌だ。でも、痛まないように麻痺させるのは、“終わりのない止血”だ。止血し続ければ、血はどこかで腐る」
「比喩で説得しないでほしい」
レイの声は冷静だった。数字は比喩を嫌う。比喩は感情に早く届く。その早さは危険だ。危険は弱者に落ちる。
「僕は弱者を守る。君は弱者に負担をかける。君が“言葉で止める”間に、何人倒れる?」
「俺は数える」
観客の半分は理解し、半分は頷かない。理解は時間を要し、秩序は待たない。待たない秩序は、用意している。背後で、軍勢が微かにざわついた。広場からは見えない外縁で、火柱が一本だけ上がる。揺れる炎は、合図だ。誘発された反乱。“設計された反乱”。鎮圧の正当性を可視化するための儀式。カイの足が勝手に動く。ミリアが肩を掴んで拮抗する。
「行くな。餌だ」
「わかってる。でも、行く」
カイはミリアの手を外し、段差を駆け上がった。泡の縁を滑るように抜け、城下の外縁へ。火は大きくない。家が燃えているのではない。廃材を積んだだけの、演目用の火だ。周りで叫ぶ男たちの目は、怖れているというより、戸惑っている。彼らは役者だ。熱が足りない役者。熱が足りないのに、火は燃える。燃えるために酸素を吸う。
格子の光が横から落ちた。炎の上に透明な壁ができ、酸素の流入が一定に保たれる。燃え広がらない。安全な火。レイの指揮は速い。過激派を示す紋章持ちだけを縫い取る。標的を外さない清潔な暴力。絵として綺麗だ。綺麗なものは、時々残酷だ。
石がひとつ飛んだ。投げたのは少年だった。十四、五。腕は細く、石は重い。狙いは悪い。飛び道具が向かう先は、どこでもない。恐怖で震えるだけの子どもだ。格子が落ちる前に、カイは体を滑らせ、少年の腰を抱えた。重くない。軽い。軽い体は、投げやすい。投げてはいけない。だから抱える。抱えたまま、格子の縁を蹴って外へ出る。膝に衝撃。雪の上に転がり、少年の背中を地面から守る。肺に冷たい空気が入る。少年がむせ、泣きそうな顔でカイを見た。泣くのを我慢している顔。泣かないことが価値だと教えられた街の顔だ。
レイの灰眼がわずかに揺れた。揺れはすぐに戻る。彼は正しい剛さに戻る。
「感情で秩序は作れない」
「秩序だけでも、君は守れない」
カイは息を整えながら返す。息が荒いのは走ったからだけではない。胸の中で、何かがこすれた。
「君は子どもを一人抱えた。僕は千人を守る」
「千人を守るために、千一人目を計算から外したくない」
レイは言わない。言わない代わりに、高壇へ戻る。討論は剣へ。視界が一瞬だけ反転し、広場の石床が将棋盤のような線を走らせる。線は格子ではない。磁石の極だ。二人の足取りは同じ癖を持ち、同じ訓練で固まっている。近づくほどに弾かれ、離れるほどに引かれる。刃は抜かれない。抜かずに、間合いが詰まる。詰まるたび、見えない“面”がぶつかる。音は出ないのに、耳が痛い。
ミリアが術式の縁で、カイの体勢を微補正する。腰の角度、肩の高さ、踵の入り。彼女の指先から出る目に見えない糸が、カイの筋の上を軽く撫でる。触れられて初めてわかる、同じ動きのわずかなズレ。ズレは、時間差になる。同じ動きを、半拍だけ遅らせる。半拍が、曲を変える。
レイは正確だ。正確すぎる。彼は無駄を嫌い、無駄を削る。削った結果、動きは美しくなる。美しさは、穴になる。穴は、小さくて、深い。
カイは踏み込まず、下がらず、横に滑る。足の裏で石の目を読む。石は冷たい。石は嘘をつかない。足が滑る角度を覚え、滑らせる。肩の前で空気が押し返す。レイの“面”だ。同じ“面”を、カイは半拍ずらして重ねる。正面衝突が、斜めの擦れに変わる。火花は出ない。出ないが、手応えはある。
「十分持たせる」
ミリアの声が耳のすぐ外で言った。十分。それだけ持てば、カイは何かを見つけられる。十分は短い。短いが、長い。長いが、短い。
観衆は静かだった。静けさは恐れではない。息を揃える訓練を長く続けた人々の静けさだ。揃っている静けさは、音より重い。重さは、刃の先に乗る。
ヴァルグは段の陰で脚を組み、退屈そうに指を鳴らした。響かない指鳴らし。彼の興味は、いつも“支点”にある。天秤にもう一つ支点を作る方法を探す目だ。支点は時々、偶然に見えるものの中にある。偶然に見えるものは、だいたい誰かが仕込んだものだ。
「右足」
ミリアが短く言う。レイの右足の内側。靴底のエッジが削れている。削れは、石畳の目との相性を示す。相性は“滑りやすさ”になる。滑りやすさは“止まりにくさ”になる。止まりにくい足は、次の一歩を急ぐ。急いだ一歩は、わずかに浮く。浮いた瞬間に、体が軽くなる。軽くなった体は、吹き飛ばしやすい。
吹き飛ばさない。吹き飛ばさないで、流す。流す先は、格子の角ではない。空の穴でもない。観衆の視線の交差点。誰も立っていない、見られているだけの場所。見られている場所は、足を取らない。
カイは半歩、ズラす。肩の面を半拍遅らせ、肘を内へ絞る。レイの“面”は正確だ。正確な正面を、斜めの線で受け、わずかに逸らす。逸れた線が、レイの右足の内側へ流れ込む。彼は止まる。止まらない。止まりかける。止まりかけたところで、次の一歩を出す。出す足は、浮く。
その瞬間、広場の端でピアノの音が鳴った。誰もいないはずのピアノ。鍵盤の上に、何かが落ちた。風ではない。人だ。ロープをくぐって椅子へ座り、指を置いたのは、さっき助けた少年だった。顔は恐怖で固い。固いが、指は震えながらも動く。曲は下手だ。下手な曲は、下手だというだけで尊い。尊いものは、秩序の外から入ってくる。
音に観衆の視線がわずかに流れる。揃っていた静けさが、少しだけばらける。ばらけた静けさは、軽い。軽い間に、カイは右へ回り、レイの肩に手を置いた。押さない。引かない。触れるだけ。触れることで、相手の重心の場所がわかる。重心は、嘘をつかない。嘘をつけない。
レイの目が揺れた。揺れは小さい。小さいが、確かだ。彼は音を嫌う。音は設計の外から来る。外から来るものは、事故を運ぶ。事故は弱者を直撃する。だから、音を止めたい。止めたい気持ちは、弱者の側に立つ気持ちだ。立っているのに、止め方によっては弱者を切る。
「やめろ」
レイが言った。少年の指は止まらない。止まらないのは、勇気ではない。怖くて固まっているだけだ。固まって動かないのと、固まって動くのは、紙一重だ。紙一重の差で、人が救われることもある。
「やめなくていい」
カイは言う。言って、レイの肩から手を離す。離すのは、任せるためだ。任せるのは、投げることではない。手を離した分だけ、自分が動く。
「十分まで、あと五十息」
ミリアが数える。彼女の数え方は、いつも正確だ。正確な数え方は、怖い時の支えになる。
レイは少年へ向けて手を上げた。格子の光が指先で生まれる。光は少年へ行かない。ピアノの周りの空気を固め、鍵盤の上の埃を浮かせる。音を邪魔しない形で、事故を止める。止め方は、綺麗だ。綺麗な止め方は、刃の代わりに目を使う。目は、よく切れる。
「設計された反乱は、君の足を止めるためのものだった」
レイが低く言う。怒りではない。報告だ。
「君は足を止めなかった。止めないなら、僕は手を打つ。君のやり方を試すために、場を整える。整えれば、君のやり方の中の“事故”が見える」
「見えるなら、数えられる」
「数えた数を、誰が抱える?」
「俺が抱える。抱えきれない時は、ミリアが叩く。ラナが記録する。ヴァルグが笑う。そうやって、分散する」
レイは一瞬だけ黙った。黙る時の彼は、目を閉じない。閉じないまま、わずかに視線を落とす。答えを探すというより、答えの形を削る手触りを確かめている顔だ。
「君の方法は遅い」
「遅い。でも、息ができる」
「遅い間に、何人倒れる」
「倒れた数を、俺は持つ」
「持った数で、君は壊れる」
「壊れそうになったら、止めてくれ」
ミリアが「止める」と短く言い、ラナが「記録する」と重ね、ヴァルグが「退屈なら助けない」と笑った。観衆の静けさが、さらにばらける。ばらけた静けさの中で、少年のピアノは下手なまま続く。下手な音は、鋭い。鋭い音は、設計の外側をかすめる。
「十分」
ミリアが告げた。空気の緊張が、わずかにほどける。レイは手を下ろし、カイから半歩離れた。視線が交わる。交わるだけで、刃のやり取りより重い情報が行き来する。行き来の中に、微かなものが混ざっている。怒りでも悲しみでもない。嫉妬でも羨望でもない。名前のない、細い糸。
「笑わない幸福は、正しいか」
カイが問う。問うてから、自分の言葉に驚いた。口から出たその形は、考えて作ったものではない。目の前で見たものをそのまま音にしただけだ。
レイは答えない。代わりに、観衆の中から小さな笑いが起きた。少年のピアノの音が外した拍に合わせ、誰かがつい吹き出したのだ。笑いは、すぐに周りの目に飲まれて消える。消えたが、音は残る。残った音に、別の笑いが小さく重なる。高さは揃わない。揃わないまま、薄い、でも確かな、人の音になる。
「今日はここまで」
ラナが間に入り、式次第を読み上げた。討論は一時中断。三日後の再会談に向け、双方の主張を簡潔に記録。外縁の火は鎮圧済み。負傷者なし。少年一名保護。名前は不明。記録者、ラナ・エイベル。印。
泡が薄くなり、風が広場を通り抜けた。雪は降らない。空は低い。裂け目は細く、しかし確かに広がっている。世界は崩れ方を早めている。秩序は待たない。理解は時間を要する。数はゼロにならない。ゼロにならないものを、どう抱えるか。
カイは少年の肩に外套をかけた。少年は泣かない。泣かないのは、強さではない。泣かない訓練の結果だ。泣く場所を選べるようになるまで、しばらく側に置く。選べるようになったら、離す。離すために、今は抱える。
「見つけたか」
ヴァルグが横から問う。彼はいつも、肝心な時に簡単な言葉を投げる。簡単な言葉は、逃げ場所が少ない。
「少し」
カイは答えた。「同じ動きを半拍ずらせば、ぶつからない。ぶつからないで、触れられる。触れたら、重心がわかる。重心がわかれば、無理をさせないで流せる」
「踊りの話か?」
「生き方の話だ」
ヴァルグは笑って、肩をすくめた。「それなら、練習が要る」
「練習は時間を食う」
「時間は、世界がくれない」
「なら、奪う」
「奪うなら、記録する」
ラナが淡々と挟み、ミリアが小さくうなずく。四人の輪の内側で、少年が小さく鍵盤を叩いた。下手だ。下手なままでいい。下手な音は、誰かの背中を押さない。押さない代わりに、誰かの足を止めない。止めないから、動ける。
シアリの中央区は、夕刻になっても乱れない。“見えない列”は、朝と同じ精度で流れ続ける。安心指数は九十六のまま。犯罪発生率は今夜も最低を更新するだろう。失業はゼロに近い。だが、広場の片隅にだけ、管理されない音が残った。笑わない幸福の輪郭の中に、笑ってしまう音の小さな穴。穴は、支点になる。支点があれば、天秤は揺れる。揺れれば、片方だけが沈む速度は、少しだけ遅くなる。
「帰ろう」
ミリアが言った。帰る場所は安全ではない。安全でないから、温かい。温かい場所は、弱い者が先に眠れる。眠れるうちは、まだ戦える。
境界門へ向かう通りで、カイは一度だけ振り返った。レイは高壇に立ったまま、空を見上げている。灰色の眼に、二つの月が薄く映っていた。満ち欠けは合図になる。合図は約束を思い出させる。約束を破るのは簡単だ。簡単だから、記録する。記録は面倒だ。面倒だから、続ける価値がある。
笑わない幸福は、きれいだ。きれいなまま壊れる日が来るなら、その前に、笑ってしまう音を増やす。増やし方は、半拍ずらすこと。半拍ずらせば、ぶつからない。ぶつからなければ、触れられる。触れられたら、重心がわかる。わかったら、流せる。流した先に、やり直しの余白を残す。
十分。それだけ持てば、何かを見つけられる。今日、見つけたのは小さな穴と、半拍の差。明日は、もう少し大きな支点を探す。支点を見つけたら、天秤に乗せる。片方を救えば、もう片方が沈む。なら、支点を増やす。増やすために、また歩く。
境界門の前で、少年が小さく手を振った。振り方はぎこちない。ぎこちないのに、まっすぐだ。まっすぐな手は、押さない。押さないから、届く。届いた手に、カイは指を軽く触れ、門をくぐった。視界は一度だけ薄く裏返り、耳鳴りが半拍遅れて戻ってくる。足裏の感触が石から布へ、また石へ。
リシアの空は低く、星は薄い。けれど、息ができる。息ができるなら、選べる。選べるなら、数えられる。数えられるなら、忘れない。忘れないなら、遅くても、間に合う可能性がある。間に合う可能性があるなら、まだ戦える。笑わない幸福の中へ、笑ってしまう音を持ち込むために。




