第6話 もう一つの選択肢
避難区は王都の北端、使われなくなった倉庫群を仕切り直した一角にある。薄い板壁と毛布の仕切りで作った小部屋が並び、暖炉の代わりに炭壺が置かれていた。窓には油紙。外は雪。内は人の吐息で白い。
噂は火より速い。広場の投影が流した「偽勇者」の映像は、ここでも別の尾ひれを生んでいた。子どもを盾にした、傷兵を踏みつけた、王妃の私室で刃を振るった。すべてが嘘だとわかる人もいる。けれど、わからない人が多いのも事実だった。
カイは歩いた。疑いの視線を正面から受けつつ、足を止めずに。水桶を運び、薪を割り、凍えた手に油を塗る。兵の包帯を替え、縫い目が粗いところを解いて縫い直した。英雄らしくない。地味で遅い仕事だ。だが、遅いことには意味がある。遅い間に、相手が顔を覚える。名を名乗り、相手の名を聞く。名を呼べば、少しだけ噂が小さくなる。
「勇者様……」
かすれた声が背中から呼びかけた。振り返ると、昨日の少年兵が立っていた。クロスボウは持っていない。両手で湯気の立つ木椀を抱え、視線が揺れる。
「この間は……その……」
「飲め。冷める」
木椀を押し返し、隣に腰を下ろす。少年はおずおずと椀を両手で持ち直し、唇をつけた。やけどしないようにちびちびと。肩の力が少しずつ抜ける。
「わからないことが増えたら、誰かに聞け。俺じゃなくていい。ミリアでも、ここで炊き出ししてるおばちゃんでもいい」
「なんで、そんなふうに……」
「俺もわからない時があるから」
嘘は混ぜない。混ぜれば、あとで自分に戻ってくる。
ミリアは全体の動線を組み替え、避難区の出入口を一本減らした。人の流れは落ち着き、盗難が急に減った。ヴァルグはさらに裏で動く。顔なじみの悪人同士の利害を結び直し、窃盗団と用心棒たちの縄張りを少しずつずらした。喧嘩が減り、闇商人の売値が落ちた。善意ではない。だが、結果は今必要な方向へ出る。
夕刻、雪が細くなり、倉庫の屋根から滴が落ちはじめるころ。カイは薪割り台を片づけ、空を見上げた。雲の途切れ間に青が覗く。二つの世界の縁は、目に見えないまま耳鳴りとして残っている。
「手、見せて」
背後でミリアの声がした。振り返ると、彼女は薄い外套の上からさらに毛布を羽織り、小さな金属箱を抱えていた。蓋を開ければ、薬草の匂いが立つ。カイの掌のひび割れに、彼女は黙って薬を塗った。しみる。が、温かい。指先の感覚が戻る。
「今夜、屋根に来て。話がある」
それだけ言い、彼女は箱を閉じた。視線はいつものように忙しく動き、倉庫の角のほうへ消える。彼女が走る方向には、いつも人の流れができる。
夜更け。避難区の灯りが落ち、炭壺の赤が点となって並ぶ。倉庫の屋根に登る梯子は軋んだ。上へ出ると、冷たい空気が頬を打つ。街の端をかすめる風。遠くで鐘が一度鳴り、間隔が短い。良くない印だ。
ミリアは屋根の縁に腰を下ろしていた。膝の上に開いた分厚いノート。脇には何枚もの紙片。風で飛ばないように石が乗せてある。彼女は夜空を一度見上げ、それからノートを叩いた。
「“凍結”の術、理論を詰めた。あなたでも、レイでもできる」
カイは言葉を待った。ミリアは簡潔に続ける。
「術者の負担は大きい。でも、回数は限定できる。交代の“合図”を世界に刻む。二つの月の位相を利用してね」
彼女はノートの見開きに、淡い光で図形を描いた。リシアの空に浮かぶ青い月。その影に隠れて時々顔を出す、シアリの薄い白い月。二つの月は同じ軌道にいない。けれど、周期はどこかで重なる。その時刻を指輪と紋章に覚えさせ、主導権の切替の合図にする。
「滑稽かもしれない。でも、合図は人間にわかるものがいい」
「満ち欠けで交代?」
「うん。満ちたら譲る。欠けたら戻す。どちらかが無理に握ったままだと、空とずれる。ずれは術式に罰として返る。罰は痛い。だから、約束を守りやすい」
人間的だ。完璧ではないから、機能する余地がある。完璧な仕組みは、壊れたとき粉々になる。
「それで、あとは……」
「あなたに選んでもらう」
ミリアはノートを閉じ、カイの目を見た。目の中に夜の色が映る。
「あなたが凍るか、レイが凍るか。交代の最初の番を、どちらにするか。禁忌は、最初の一歩がいちばん危険なの。だから、決めるのは今」
屋根の上の空気が一段冷えた気がした。遠くで犬が吠え、すぐに止む。世界の裂け目は夜に細くなり、朝に太る。朝は近い。
「俺は凍らない」
カイは息を吸い、吐いて、それから言った。言葉は短く、重い。
「ミリア、君を裏切りたくないから最初に言う。俺は生きたい。自分の声で。自分の弱さを抱えたままで」
ミリアは怒らなかった。むしろ、ほっとしたように目じりがわずかに緩んだ。
「よかった。言ってくれて。あなたが“生きたい”と口にできるなら、まだ勝機がある」
「勝機?」
「生きたい人間は、他人の生を奪いにくい。奪いにくいから、面倒だけど、やり直しを作れる」
彼女は指輪に触れ、微笑んだ。
「じゃあ、殴って。奪うんじゃなく、譲らせて。順番の話を剣と一緒に持っていって」
カイは笑ってしまった。苦い笑いだが、笑いは笑いだ。
「難しい注文だな」
「難しくしたのは私たちじゃない。世界だよ」
ミリアは立ち上がり、夜を見渡す。遠くで雪が舞い、星の光がところどころで遮られている。影の角度が揺れる。世界は崩れを早めている。
「ヴァルグは?」
「相変わらず。盗賊団と評議会の影の線を、両方いじってた。明日の朝、治安が一度だけ落ち着くはず。あの人のやり方は好きじゃないけど、使う」
「使うしかない」
「うん。使ったぶん、あとで数える」
二人でしばらく黙って夜を見た。風は強くない。だが、耳の奥で薄い音が続く。格子の線を指で弾いたような音。世界がどこかで重なり、どこかでずれている。
「明日、言う」
カイは手すりに手を置き、屋根の端を見下ろした。避難区の輪郭が黒く、そこに住む人の寝息が白い。
「逃げない。正面からレイを止める。殺さない。俺は俺を殺さない」
ミリアは頷き、短く笑った。
「宣言は、重さを変えるからね。明日の朝、早いよ。寝て」
「おやすみ」
「おやすみ」
下へ降りる梯子は相変わらず軋み、足裏に冷たさが残った。毛布にくるまって目を閉じると、十歳の自分が木の枝を振り回して走っていた。世界が静かならいいと願っていた子ども。静けさは間。終わりではない。眠りは浅く、でも充分だった。
夜がほどけ、朝が薄く伸びる。東の空が白む前、避難区の広場に人が集まった。炊き出しの煙が上がり、木椀の湯気が並ぶ。布告の声は届かない。代わりに、ざわめきが集まる。うわさの残り香と、期待の混ざったにおい。
カイは石の台の上へ立った。剣は持っていない。外套も脱いだ。見せるために脱いだのではない。重いものをいくつも身に着けていると、言葉が鈍る。言葉が鈍いと、刃が先に出る。順番が狂う。
「話をする」
ざわめきが一度だけ膨らみ、すぐに縮む。子どもが咳をし、犬が一声鳴く。その後は静かだ。静けさは間だ。言葉の入れ物になる。
「俺は逃げない。正面からレイを止める」
最初に要点。余計な飾りはいらない。飾りは便利だが、後でほどける。
「でも、殺さない。俺は俺を殺さない」
ざわめきがもう一度動く。矛盾だ。戦うのに殺さない、と言う。愚かだ、と誰かが思う。賢そうに見えない、と誰かが笑う。けれど、笑いはすぐに消えた。笑った当人が恥ずかしくなったからではない。笑いが届く前に、別の声が届いたからだ。
「なんで、殺さないで止められるんだ」
昨日の少年兵がいた。両手は空。目の色はまだ揺れるが、揺れは細い。
「順番を守る。言葉を刃に、刃を最後に。どうしようもなくなったら……その時は、殴る」
少年はしばらく黙り、それから頷いた。頷きは小さい。けれど、嘘じゃない頷きだ。人の頷きは、嘘だと少しだけ音が出る。嘘の音は、耳が覚える。
人々は散った。散りながら、言葉を持ち帰る。持ち帰った言葉は、炊き出しの列で別の言葉と混ざる。混ざるうちに、形が変わる。変わり切る前に、次の行動を差し込む。遅いことは、ここでも意味を持つ。
昼前、避難区の外側がざわついた。見張りの少年が屋根へ駆け上がり、腕を振る。雪煙が北から上がっている。規則正しく。軍が来る。人の流れが跳ね、炊き出しの鍋の火が弱まる。ミリアが指示を飛ばし、老人と子どもを奥へ誘導した。ヴァルグは影で出入口の線を取り替え、兵の通り道から弱い人を外した。
「先頭は?」
「灰眼の少年。黒い甲冑」
見張りの息は白い。報告は短い。必要なものだけ。
「来た」
避難区の外へ出る。雪が弱く、空が低い。北門の外から伸びる道の先に、黒い列が見えた。整った足並み。無人鎧の軍勢。先頭に、レイ。甲冑の縁に雪が薄く積もり、歩くたびに白が落ちる。彼の眼は相変わらず乾いている。乾いているのに、濡れて見える。当たり前だ。世界が歪めば、目も歪む。
ミリアが隣に立つ。指輪に触れ、術式を起動する準備をする。ヴァルグは少し離れた石塁の上に腰を下ろし、片膝を立てて様子を見ている。退屈ではないらしい。口元が少しだけ上がっている。
「行く」
カイは歩き出した。剣はまだ抜かない。距離が縮まる。十歩。五歩。三歩。止まる。レイも止まった。背後の無人鎧は一斉に足をそろえ、雪の上で音が重なる。
「攻撃停止、七十二時間は有効だ」
レイが言った。声は昨日と同じ。芯がある。芯は、刃より硬い時がある。
「わかってる。今日は宣言に来た」
「宣言?」
「宣戦だ」
レイの灰眼がわずかに細くなる。周囲の空気が少し下がる。無人鎧の剣先がわずかに持ち上がり、すぐに戻る。ミリアが指先で合図を送る。まだだ、という意味。
「正面から止める。殺さない。俺は俺を殺さない。これが俺の戦い方だ」
「愚かだ」
「そうだな。最短じゃない」
カイは右手を上げ、空を指差した。薄い雲の向こうに、青い月が輪郭だけを見せている。もう一つの白い月は、今日は姿を隠している。次に顔を出すのは今夜の遅い時間。満ち欠けは、合図になる。
「二つの月で交代する案を、ミリアが作った。お前が受け取る気がないなら、俺が奪いに行く。奪って、譲らせる」
「奪う、と言った」
「譲らせるために、だ」
レイの口元がわずかに動いた。笑いではない。苦笑でもない。名前のない動きだ。
「なら、試そう」
彼は一歩引いた。背後の無人鎧から二体が前へ出る。剣を水平に上げ、足を開く。雪の上に刻まれた線にぴたりと合う。設計された動きだ。人間より正確で、人間より融通が利かない。
「一つ、君のやり方で止めてみろ。刃を最後に。言葉から始める。禁断の手は、私が合図するまで使うな」
「合図は?」
「二つの月が、顔を半分だけ見せた瞬間」
それは今日の昼には来ない。つまり、今は使うな、という意味だ。カイは頷いた。
「わかった」
足を開き、両手を広げる。攻撃の構えではない。無人鎧がカイへ向けて一歩踏み込む。剣先がわずかに下がり、脇へ流れる軌道。肩を落とす。カイの胸に突き刺すには美しすぎる角度だ。
「止まれ」
言葉は短い。短いが、響くように出した。狭間で覚えたやり方。言葉の重さを体幹から押し上げ、口で砥ぐ。無人鎧は止まらない。当然だ。無人だ。言葉は届かない。
届かない相手には、別の言葉を使う。足を半歩捻り、踏みしめた足裏で雪を鳴らす。音は短く、乾いた。その音に反応するように、ミリアが指を走らせ、地面の下の薄い術式を立ち上げる。無人鎧の足元の雪が固まり、ほんの少しだけ重さが増える。動きが鈍る。鈍った瞬間に、カイは鎧の手首を掴み、剣の角度を外へ滑らせた。刃は雪を切り、光も血も出ない。
二体目が背後から回り込む。設計の通りだ。カイは肩越しに雪面の小石を蹴り上げた。小石はミリアの術式で空中に留まり、無人鎧の関節へはまり込む。わずかな停滞。その一瞬で、カイは自分の体を半歩前へ送り、腕で鎧の肘を縛った。力ではない。角度だ。角度が合えば、重さは味方になる。鎧は無理に捻れず、膝をつく。雪が散る。人は倒れない。倒れたのは無人の殻だ。人の血は出ない。
レイの眼が、わずかに動いた。たぶん、それは評価だ。言葉は短いほうが刺さる。動きも同じだ。短く、確かに。
「もう一つ」
レイは数えない。けれど、試す。彼は自分のやり方が最短だと信じている。信じながら、別の最短があるなら見たいとも思っている。そういう顔だ。
三体目が前へ出る。今度は剣ではなく、格子の光を展開した。透明の枠が空気を押し、道をふさぐ。事故を設計する手だ。カイは前へ出ず、後ろへも退かず、右へ一歩滑った。足首から股関節まで一本の線にし、肩を落とす。ミリアが合わせる。薄い泡が一瞬だけ膨らみ、格子の稜線を鈍らせる。そこへカイが肩を滑り込ませ、空いた隙間に体を通す。格子はすぐに閉じる。だが、遅れて閉じた一瞬に、人の通れる幅が生まれる。
人の通れる幅。それが欲しい。設計に穴を穿つこと。穴を塞がないこと。穴から事故が出ないように、外側で支えること。面倒だ。だが、面倒の中にしか呼吸はない。
「終わりだ」
レイが手を下ろした。無人鎧の動きが止まり、格子の光が雪に溶ける。静けさが落ちた。静けさは間。終わりではない。
「君の宣言は受け取った。三日後、橋で。君の言葉と、私の数字を持って」
「わかった」
カイは頷いた。ミリアが肩に手を置く。ヴァルグは石塁の上で欠伸をした。
「英雄譚が始まった」
彼は冷笑半分で呟いたが、声の奥に退屈ではない色が混ざっていた。退屈していない彼は、だいたい仕事が速い。
レイは背を向け、軍を率いて雪煙の向こうへ消えた。無人鎧の足音は遠ざかり、風がその音を薄める。避難区へ戻る道で、カイは一度だけ立ち止まり、空を見上げた。青い月の輪郭が濃くなり、白い月の影が薄く滲む。満ち欠けは合図になる。合図は、約束を思い出させる。
倉庫の角で、ラナが待っていた。シアリの参事。彼女は紙束を抱え、冷たい目で言う。
「記録は取った。あなたの“最後に殴る”は、順番として認める。ただし、殴る時は私に知らせなさい。紙に残す」
「記録は武器になるんだろ」
「いつか、あなたをも守る。紙はそういう使い方ができる」
カイは頷き、手を差し出した。ラナはほんの短い時間だけ握り、紙束を胸元に戻した。ミリアが倉庫の扉を開け、人々の間に声を投げる。炊き出しの列が再び伸び、鍋の音が戻る。ヴァルグは影の中で何かと握手し、何かと距離を置いた。治安は、一時的に落ち着いた。
夜が来る。白い月が顔を半分だけ見せ、青い月の縁が細く欠ける。その時刻を、指輪と紋章が正確に覚える。合図は世界の上に刻まれ、誰でも見上げればわかる。滑稽だ。だが、人間は滑稽な合図を信じやすい。信じやすいもののほうが、守られやすい。
カイは剣を磨いた。磨きながら、刃を使わない時間の重さを確かめる。言葉を磨くのは難しい。難しいが、やる。やると言ってしまった以上、やるしかない。助けた数。助けられなかった数。止めた手。押した背。今日一日で増えた数字を、心の中の紙に書いた。紙は濡れていない。濡れていないうちは、まだ大丈夫だ。
外で風が鳴った。遠くの鐘が二度重なり、また離れた。世界の音のピッチはまだ高い。影の角度は落ち着かない。決戦前夜の、最初の衝突は終わった。明日はもっと大きい波が来る。来る前に、眠る。眠りは短くていい。静けさは間。終わりではない。呼吸のために、今はそれで足りる。




