第5話 双つの王国会談
王都の北、二つの世界の水脈がかさなる場所に、古い石橋がある。わずかに弧を描く一本橋で、欄干は片方だけ欠けていた。昼は人通りが途絶え、夜は風と川の音が支配する。橋脚を洗う水は、こちら側では穏やかに流れ、鏡の向こうの層では渦を巻く。流れの違いが、石の継ぎ目を微かに震わせていた。
ヴァルグはその橋を会場に選んだ。理由は単純だ、と彼は言った。落ちれば痛い。落ちるかもしれないからこそ、余計な芝居が減る。嘘をつく人間は足元を見ない。足元を見られない者は、橋の上では長生きできない。
「二つの世界の代表を一つの卓に。敵対を形式上だけでも止める。秩序の人形劇でも、形式は効く」
彼はそう言って、地下水路の暗がりから一人の女を此岸へ引っ張り上げた。年の頃は二十代半ば、黒髪をぴしりと結い上げ、灰色の簡素な外套を羽織っている。顔立ちは端正で、表情は無色。けれど目だけが鋭かった。何かを測る目。足音は一定で、無駄な動きがない。
「シアリ行政評議会・第三参事、ラナ・エイベル」
女は濡れた外套の裾を手早く絞り、形式通りに名乗った。声は高くないが、よく通る。ミリアが術式の円を描き、橋の中央を薄い泡のような膜で包む。泡は透明で、外から見れば空気の揺らぎにしか見えないが、矢も魔法も鈍らせる。護衛は最少。こちらはカイとミリア、そして案内役のヴァルグ。向こうはラナと、離れた位置に立つ無人鎧の兵が二体だけ。剣先を下げ、姿勢は中立。
「治安が崩れる兆候を私は憎む。だが、あなた方の理想も信じない」
ラナは開口一番、冷ややかに言った。冷ややかだが、侮りはない。彼女が憎むのは無秩序であり、軽さであり、偶然を装った暴力だ。彼女の誇る秩序は、多くを救ってしまっている。だからこそ、こちらの言葉は軽く響く危険があった。
「お互いの言い分は長い。橋は短い。だから簡単に」
ヴァルグが片手を上げて会談のはじまりを宣言する。泡の中に、かすかな反響が生まれた。風の音が小さくなり、川の匂いが濃くなる。泡は音を丸くする。声に棘が出にくくなる。喧嘩の火種は音の角だ。角を落とせば、燃えにくい。
レイは遅れて現れた。橋のこちらからでも向こうからでもない、川面に立つ細い足場を渡って、音もなく中央へ来た。黒い甲冑は光を吸い、灰色の眼は相変わらず乾いている。彼は立ったまま、手短に口を開く。
「形式に意味はない。僕は最終的に統合を行う」
端的だ。ここまで来てなお、飾らない。飾らないのは、余裕か、あるいは焦りの裏返しか。ヴァルグが薄く笑った。
「統合の後、魂は片方だけが残る。君は“自分”を選ぶか」
レイは即答しない。川面を見た。渦がひとつ、静かに崩れていく。彼は多分、誰よりも自分の清廉さを疑っている。清廉は便利だ。自分で自分を疑い続ければ、誰かに疑われても折れない。疑い慣れている方が強い時がある。
「秩序は手段だ。僕は弱者を守る。統合は最短経路」
言葉は正しい。最短で着けば、助かる者は増える。事故は設計で減らせる。反乱は未然に止められる。わかっている。わかった上で、カイは問いを投げる。
「そのために、笑顔を消すのか」
レイが初めて、まっすぐにカイを見る。目は近いのに遠い。二人だけに聞こえる声で、彼は囁いた。
「笑顔が犯罪を隠すことを、僕たちは見てきた」
戦時の村。雨乞いの祭の夜。火を囲んで踊る笑顔。翌朝の家々の焼け跡。男たちが夜のうちに武器を隠し、停戦の使者を殺す準備をしていた。笑顔は盾だ。盾が罪を防ぐこともある。盾が矢を隠すこともある。
「笑顔を全部汚いものにしないでくれ」
カイは応じた。声が震えていないのを確かめる。震えないのは感情がないからではない。ここで震えれば、泡が割れる。橋は落ちる。それが嫌だから、手の内側で感情を握り直す。
「笑顔を全部きれいなものにもしない。けれど、誰かが誰かを頼る合図まで奪ったら、息ができなくなる。息ができない場所は、弱者が真っ先に倒れる」
「呼吸のために、誰かが刺される」
「呼吸を止めた結果、刺されなくなるのか。刺される理由ごと消せるのか」
堂々巡りになる前に、ミリアが口を開く。彼女は会談の守り役だ。守り役の言葉は、いつも実務的で、必要最低限だ。
「“魂を二つのまま”共存させる仮説がある」
ラナの視線がわずかに動く。無表情の下で、計算の歯車が速さを増した。
「条件がある。どちらかが一時的に“自我を凍結”し、相手に主導権を渡し続ける。順番を交代しながらなら、理論上は可能。脳と魂の同期を保ったまま、操舵権だけを交互に切り替える」
「それは、妥協だ」
レイが短く言う。妥協は嫌いだ。嫌いであることを隠さない誠実さが、彼の強さであり、脆さでもある。ミリアは頷いた。
「ええ。だが妥協は、戦争を止める唯一の術でもある」
橋脚が軋む。水の層が僅かにずれ、石がこすれ合う。世界が会談を急かしている。泡の外で、遠くの鐘が二度鳴り、音の間隔が短い。裂け目が広がり、影の角度が落ち着かない。時間は短い。言葉は長い。長い言葉は橋から落ちる。
「具体的な手順を」
ラナが食い気味に切り込む。彼女は実務の人間だ。理念のままでは動かない。動かすには手順が必要だ。ミリアは細かい術式図を空中に描いた。泡の内側に、淡い光の線が板書のように並ぶ。魂の同調率、神経伝達の遅延、切替時の副作用。難しい語をミリアはひとつずつ噛み砕く。中高生でもわかる程度の言葉で言い直し、それでも複雑さは残る。
「結論だけ言えば、“交代で運転する”。その間、もう一人は後部座席で寝ている。ただし、寝ている間に成長しないように、時間の流れを意図的に遅らせる。起きたとき、体と心がずれないように」
レイの眉がわずかに動いた。彼は理屈がわからないことに対して敏感だ。わからないことは危険だ。危険は弱者を直撃する。だから彼は、わからないものを扱いたくない。嫌悪ではない。慎重だ。
「切替のタイミングは誰が決める」
「指定できる。外からでも、内からでも。ただし、いくつか禁忌の術が混じる」
ミリアはそこで、言い淀んだ。泡の内側の空気がわずかに重くなる。禁忌は、理由があって禁じられている。理由はいつだって血だ。血の流れが変わる。変われば、誰かが倒れる。
「禁忌の術?」
ラナが問う。声は平坦だが、興味を隠していない。ヴァルグが肩をすくめる。
「“禁断の手”だ。境界の向こうにある、余白を掴む手。時間の端を摘んで折り返す。折り返せば、少しの間だけ傷が凍る。冷凍庫の肉みたいに。戻せば、またその続きから動く」
比喩は乱暴だが、イメージは掴める。禁断の手は、触れたものの時間を一時的に固定する。固定中、侵入も流出も起きない。痛みも喜びも入らず、出ない。便利だ。便利過ぎる。だから禁じられている。
「時間の端を弄る術は、必ずどこかに皺寄せを作る」
ミリアが真顔で続ける。
「凍結された自我の“遅れ”は、いつか取り戻される。取り戻す瞬間に周囲が壊れることがある。封じておいた痛みや怒りが一気に出る。出る場所を誤れば、誰かが倒れる」
「倒れる数を最小にできるか」
レイが即座に問う。問いはいつもそこへ戻る。何人が助かり、何人が倒れる。数字の先に顔があり、名前がある。数字に顔をつけるのは、遅い。遅いから、辛い。辛いから、数字のままにしたくなる。そこで終われば、やがて数字しか見えなくなる。
「できる限りは。だけど最小化は保証じゃない」
ミリアは誤魔化さない。誤魔化しは泡を濁らせ、泡は濁ると割れる。
「私は反対だ」
ラナが言った。即断だった。彼女は秩序の担当者だ。禁忌の混ざる案は、最初から遠い。
「妥協は理解する。だが禁忌は、秩序の側では正当化できない。事故の可能性が高い行いには許可が出せない。誰が責任を負うのか不明瞭な案を、私は嫌う」
彼女はカイを見た。問われている。橋の上で、答えなければならない瞬間がある。間違えた答えでもいい。答えないことが、最悪だ。
「責任は俺が持つ」
意外なほど静かな声で、カイは言った。ヴァルグが横目で笑う。笑いは嘲りではない。観察者の笑いだ。
「持てるか」
レイの問いは短い。短く、重い。ミリアが横で視線を落とす。彼女は知っている。カイの握力は強くない。強くないけれど、離さないために工夫を覚えた。指を変える。重さのかけ方を変える。数える。どれも正しいが、それでも落とすことはある。
「持てるように、やる」
答えは技巧ではなかった。心意気でもなかった。やる、と言ってしまうしかない場面がある。言った以上は、数を数え続けるだけだ。助けた数。助けられなかった数。押した背中。止めた手。失ったもの。奪ってしまったもの。全部。
「では、手順を決める」
ヴァルグが場を戻す。会談の空気は、かろうじて保たれている。泡の外側で雪がちらつきはじめ、川面の渦が濃くなった。世界はじわじわと、壊れ方を速めている。
「第一段階。双方の攻撃停止を形式上宣言。文書は不要、発言を泡が記録する。第二段階。交代運転の試験。短時間、外部刺激の少ない場所で。第三段階。禁断の手を使った凍結と解除の安全域の計測」
「待て」
レイが手を上げた。彼の眼差しが鋭くなる。黒い甲冑の肩がわずかに音を立て、泡の内側の空気が凍るように冷えた。
「統合を前提にした妥協は、認めない。共存が目標なら、統合は遠のく。遠のけば、その間に倒れる人間が増える」
「増えないようにするのが私たちの仕事」
ミリアは即座に返す。その声は現場の声だ。机の上で丸くなった理屈を、現場の角で削る。理屈は削られても理屈だ。削られた分だけ、刺さらない。
「君は“今夜にでも”統合したい」
ヴァルグが楽しそうに茶々を入れる。
「焦るのはいい。焦りは燃料だ。ただ、焦りをハンドルにしてはいけない。ハンドルは、少し鈍いくらいがちょうどいい」
「君はいつも楽しそうだ」
レイが皮肉を込めずに言う。皮肉がないのに、痛い言葉だ。ヴァルグは肩を揺らして笑う。
「私は退屈が嫌いだ。退屈じゃない方へ手を貸す。今は、妥協の方が退屈じゃない」
ラナが短く咳払いをして話を戻した。
「具体的に、誰が凍結されるのか」
泡の内側の温度が一度下がる。薄い緊張が走った。凍結されるのは、自我だ。順番を決める。決めれば、そこに優劣が入る。入れば、争いが生まれる。それは最初からわかっていたことだ。
「俺は凍らない」
カイは言った。自分でも驚くほど、迷いは少なかった。
「凍ってしまえば、たぶん戻らない。戻せたとしても、“戻れなかった時間”の分だけ、誰かに当たる。だから……殴り合ってでも、理解させる。殴り合うのは、最後にする。最後まで言葉でやって、どうしようもなければ、殴ってでも」
「暴力の正当化だ」
レイの声は冷たい。冷たいが、怒っていない。彼は怒りを外側へ出さない。出さない代わりに、刃の角度が正確になる。正確な刃は、音が少ない。音が少ないまま、人を切る。
「違う。順番の問題だ。言葉を刃に、刃を最後に。順番を守る。順番を守れなかったら、俺が止めてほしい」
誰に、と問う間もなく、ヴァルグが片手を上げた。
「では、ここで一度、形式を作ろう。発言で攻撃停止を宣言。期間は七十二時間。その間、双方は妥協案の試験に協力する。禁断の手の使用については、私とミリアの二重承認を要する。ラナは異議申し立ての権利を持つ。レイは最終拒否権を持つ。カイは最終承認権を持つ」
「待って」
ミリアが眉を寄せた。
「承認権の分配が偏りすぎ。均衡を崩せば、誰かが抜け道に使う」
「抜け道は必要だ」
ヴァルグはさらりと言う。
「全ての穴を塞ぐと、圧がかかって爆ぜる。適度に抜け道を作り、圧を逃がす。圧は人間の感情だ。統計に出ない川の流れだ」
「詩人の真似はやめろ」
レイが短く呟き、わずかに口元を歪めた。笑いだったのかもしれない。彼にも笑う筋肉は残っている。残っているうちに決めたい。時間は短い。
「私は攻撃停止を宣言できない」
ラナが言った。泡の内側に、冷たい風が吹き込んだ気がした。彼女の言葉は刃ではない。刃ではないが、切れる。理屈で切る。切られた傷は、血が出ない代わりに深く残る。
「私は行政官であり、軍の指揮権を持たない。発言は個人の見解に留まる。発言の記録は秩序に寄与するが、命令にはならない」
「なら、私が言う」
レイが前へ出る。橋が軋む。彼の靴が石を軽く叩く。泡がその音を丸くする。
「僕は攻撃停止を宣言する。期間は七十二時間。シアリ側の兵は、こちらの領域への侵入と圧の行使を停止する。条件がひとつ」
レイの灰眼が、カイを射抜いた。
「君が暴力を最後にすると約束すること。最後の最後まで、言葉を使うこと。言葉の次に、禁断の手を使うこと。殴るのは、その後」
順番の要求だ。順番は大事だ。順番を先に合意しておけば、迷いの中で迷子になりにくい。
「約束する」
カイは頷いた。ミリアがわずかに息を吐いた。吐いた息は白く、すぐに泡の中で消えた。
「では、こちら側も同様に」
カイは橋の向こう、誰もいない空気に向けて宣言する。泡がその声を記録し、微かな光の線が空中で絡み合った。形式は人形劇でも、効く。線は残り、誰かの裏切りを可視化する。形式に守られるのは、弱い側だ。だから形式は嫌いになれない。
その瞬間、橋脚が大きく軋んだ。水の層がぐらりと傾き、泡の外側で渦が跳ねる。裂け目が更に広がった。世界は、待ってくれない。待ってくれないが、少しだけ猶予をくれる。猶予を使い切る前に、手を打たなければならない。
「試験場所を選ぶ」
ミリアが実務に戻る。彼女は泡に触れ、計算を始めた。交代運転のタイミングを測るための静かな場所。禁断の手の凍結を試すための壊れても耐えられる場所。どちらも街の外がいい。人の生活から離れた場所。離れれば、助ける手は減る。減っても、今は仕方がない。
「北東の廃採石場。岩盤が露出し、魔法の伝播が遅い。響きが少ない。音が遠くへ逃げる」
ヴァルグが即答する。彼は地図を頭に入れている。戦場でよくありがちな、使える地形を忘れない癖だ。
「今夜、そこへ集合。試験は夜間。人の目を避ける」
ラナがすぐに条件を足した。彼女の頭の中では、すでに複数の手順書が組まれている。提出先の欄に、彼女は自分の名前を二重線で消して至急の捺印を押すだろう。正しく動く。正しく動けるように、彼女自身が整っている。
「会談は――」
ミリアがまとめようとしたとき、橋の向こうで光が弾けた。格子の光が横から落ちてきて、泡の表面に触れる。泡が揺れ、波紋が走る。レイの灰眼が一瞬だけ細くなった。彼は振り返りもしない。あらかじめ知っていた、という顔だった。
「見張りの暴発だ。止める」
ラナが袖に手を入れ、何本かの細い金属棒を取り出す。棒を空中で組み、短い詠唱で固定した。空中の格子がわずかに捩れ、泡の上を滑っていく。泡の縁がさざなみのように震え、それでも破れない。ミリアの泡は強い。強いが、永遠ではない。
「時間切れだ」
ヴァルグが小さく舌打ちをし、橋の縁まで歩く。欄干の欠けた端に立ち、川面へ指を向ける。
「ここで握手して終わろう。形式は効く。効くうちにやる」
彼は先にレイへ手を差し出した。レイは手袋を外し、短く握る。握手は硬い。硬いが、冷たくはない。次にカイへ。カイも握る。握力は強くない。強くないが、離さない。ミリアも、ラナも、順に握る。泡の中で、四人の手の温度が交じり合い、薄い光が輪になって足元へ沈んでいった。形式は記録された。記録は、裏切りを面倒にする。
「解散」
ヴァルグが短く告げ、泡を薄くする。風が吹き込む。雪が混じる。冷気が指を刺す。
会談は、不成立だった。合意は少ない。前提は遠い。けれど、互いの芯は剥き出しになった。レイは最短を求め、カイは順番を求め、ミリアは余白を残し、ラナは線を引いた。ヴァルグは笑いながら、支点を増やした。
橋を離れかけた時、ラナが振り返った。彼女はカイだけを見て、短く言う。
「あなたの“最後に殴る”は、順番としては理解した。ただ、殴るときは私を先に呼びなさい。記録する」
カイは一瞬だけ目を瞬いた。ラナの視線は揺れない。
「記録は、あとで誰かを守る。守るための紙は、武器にもなる。あなたは紙の使い方が下手そうだ」
「助言、感謝する」
素直に言うと、ラナはほんの少しだけ口角を動かした。笑ったのかもしれない。笑わない人間に見えたが、笑えないわけではない。笑い方を忘れていただけだ。
レイは最後まで橋の中央に残り、川面を見つめていた。彼の肩に雪が積もりはじめ、甲冑の縁に沿って白が線を描く。ミリアがカイの袖を引く。行こう、という合図だ。ヴァルグはすでに風の中へ消えかけている。彼の外套は雪をはらいながら、影のように薄くなる。
石段を下り、橋のたもとへ出ると、街の方から布告の声がかすかに風に乗ってきた。偽勇者、という単語が二度、三度と繰り返される。遅い事実はいつも、速い見せ方に追いつけない。追いつけない間に、誰かが決めてしまう。決められた後で、やり直すのは大変だ。だから、今夜やる。北東の廃採石場へ。
夕刻。採石場の縁は、雪に覆われて白かった。削られた岩の表面は滑り、ところどころ氷が光っている。空は低く、星は薄い氷の下に閉じ込められたように遠い。音が吸われる。声は届きにくい。届きにくいから、叫びにくい。叫びが少ない場所は、事故の二次被害を減らす。そういう実務的な配慮でここが選ばれた。
試験の段取りは簡潔だった。まず、短時間の交代運転。ミリアが術式を起動し、カイの指輪とレイの紋章を共鳴させる。次に、禁断の手の“指先”だけを使って、微小な凍結を行う。凍結は十秒以内。解除はミリアとヴァルグの同時合図。ラナは全工程を記録する。記録は紙と魔法の両方で二重化。責任の所在を明確にするために、合図の前後で発言者の名前を泡に残す。
「始める」
ミリアが短く宣言し、手の平を上に向けた。淡い光が指先から糸のように伸び、カイとレイの胸もとへ繋がる。糸は細く、頼りないように見える。だが、境界の術はいつもこうだ。太い鎖で縛るのではなく、細い糸で重さを分配する。片方に重さがかかれば、もう片方がわずかに引き受ける。引き受け過ぎれば、切れる。
「いくよ」
ミリアの声に、カイは頷いた。レイも頷く。二人は向かい合い、剣は持たない。持たないと決めて持たないのは、意外に難しい。体は戦闘の流れに慣れている。手は柄を探す。探す手を、指輪が軽く叩く。順番を守れ、と指輪が言う。
初めの交代は、思ったより滑らかだった。胸の奥で視界が重なり、手の感覚が二重になる。地面の固さが二種類、同時に伝わる。足の開きが少し違う。呼吸のテンポが違う。違いは混ざらず、薄い層を作って重なる。交代の瞬間、目の前の世界が一秒だけ鈍くなり、すぐに戻る。戻るたび、二人の感覚のずれが少しだけ縮まった。
次が禁断の手だ。ミリアは慎重に、指先の角度を変える。ヴァルグは彼女の手の甲に指を添え、角度を微調整する。ラナは視線を走らせ、計測の数値を追いかける。カイは息を整える。レイは微かに目を細める。空気が冷える。冷えるのに、肌は痛くない。時間の流れが耳の奥で遅くなる。
「十秒。いく」
ミリアの合図。指先の光が、カイの胸元に触れる。触れた瞬間、胸の中の何かが“止まる”。止まるが、死なない。凍るが、砕けない。凍っている間、痛みは入らず、出ない。恐怖も、喜びも、怒りも、全部、薄い氷の下に閉じ込められる。
解凍。ヴァルグの指が合図を刻み、ミリアが糸を緩める。戻る。戻ると同時に、胸の奥から何かが飛び出す気配がした。止めていた分の息が一気に出る。体が軽くなるのに、頭が重い。重いのは、止めていた考えが一気に押し寄せるからだ。ミリアはすぐに余白を作る術を重ね、レイは一歩前に出てカイの肩を支えた。
「大丈夫」
言葉は短い。短いが、届く。カイは頷き、もう一度、息を整える。禁断の手は恐ろしい。だが、制御できないほどではない。制御できるように、工夫し続ければいい。工夫は時間を食う。時間は世界が与えてくれない。与えてくれないなら、奪う。奪うなら、数える。
ラナが記録を終え、紙に印を押す。印の音が岩に吸われる。レイは腕を組み、遠くの空を見た。空は低く、裂け目は薄く、星はまだそこにいた。ヴァルグが雪の上に座り込み、つま先で氷を割る。割れた氷の破片が、月の光を拾って小さく光る。
「結論は出ない」
ヴァルグが言った。ミリアも、ラナも、レイも、それを否定しなかった。今日の会談は、不成立だ。合意は少ない。前提は遠い。それでも、やれることは増えた。試せることも増えた。増えた分だけ、選び方の支点が増える。支点が増えれば、天秤は揺れる。揺れれば、片方が沈む速度は少しだけ遅くなる。
「三日」
レイが言う。決意の音ではなく、期限の音だ。
「七十二時間。僕はその間、約束を守る。君も守れ」
「守る」
カイは短く答える。ミリアが肩に手を置く。ラナは記録を巻き、胸元に仕舞う。ヴァルグは立ち上がり、外套の雪を払う。
「帰るぞ。風が変わる。変わる前に帰らないと、帰れなくなる」
それぞれが、別々の方向へ歩き出す。シアリ側へ戻るレイとラナ。王都側へ戻るカイとミリア。ヴァルグはどちらでもない、風の方角へ消える。別れ際、レイが一度だけ振り返り、声を投げた。
「君は言葉で切ると言った。僕は数字で切る。切り口が違うだけだ。どちらが深いか、三日後に見せ合おう」
「見せる」
カイは答え、背を向けた。背を向けるのは逃げではない。前を見るためだ。前を見なければ、転ぶ。転べば、誰かが倒れる。倒れた数を数えるのは、嫌だ。嫌だが、やめない。やめなければ、次の選び方が少しだけ良くなるかもしれない。
雪は細くなり、風は冷たくなった。世界の音のピッチは、また少し上がる。影の角度は落ち着かない。会談は不成立。だが、互いの芯は剥き出しになった。剥き出しの芯は、磨かれていく。磨く時間は少ない。少ないからこそ、歩幅を合わせる。ミリアが一歩先へ、カイがそれに合わせる。二人の足跡が並び、やがて城下の雪へ吸い込まれていった。
夜が深くなる前に、灯りの点る街へ戻る。布告はまだ続いている。偽勇者の映像は磨かれ、切り取りは巧みになっていく。見せ方は速い。事実は遅い。遅いが、ゼロではない。ゼロでない限り、追いつく機会はある。追いつくまでの間に、数を数える。言葉を磨く。刃を最後に。順番を守る。禁断の手を、禁断のまま使いこなす。
朝は浅く、昼は短い。三日後、再び橋の上で、天秤に支点を増やす。片方を救えば、もう片方が沈む。なら、支点を増やす。支点を増やす手を、禁断と呼ぶなら、その名のままに、正しく恐れて、正しく使う。
雪の中で、カイは拳を握る。握力は強くない。強くないが、離さない。離さないために、指を変える。重さのかけ方を変える。数える。数え間違えたら、ミリアに叩かれ、ラナに記録され、レイに問われ、ヴァルグに笑われる。それでいい。笑われるうちは、まだやり直せる。
三日。短く、長い。世界の崩れ方は加速している。それでも、間は作れる。静けさは終わりではない。呼吸のための“間”。その間に、握り直す。選び直す。歩き直す。次の夜明けの前に。




