第4話 闇に映る願い
王城の地下にもぐる螺旋階段を、さらにその下へ。石段はやがて途切れ、ヴァルグが開いた隠し扉の先に、湿り気のない冷たさが広がっていた。鼻にくる土の匂いはなく、代わりに鉄を削った後のような乾いた匂いがする。
「ここが“鏡の狭間”。光はない。だが見える」
ヴァルグが小さく指を鳴らした。音は吸い込まれ、壁が淡く明るんだ。明るいと言っても、どこにも光源はない。壁も床も天井も、磨かれた黒曜石のような面で、ほんのわずかな動きまで拾って返す。目を上げると、天井は途中から消えていて、遠くの暗がりに自分たちの背中が立っているのが見えた。
カイが一歩進む。足音はしない。だが、少し遅れて、あちこちの面の中で“自分”が同じように一歩を刻んだ。遅延する影。数は一つじゃない。二十、三十、数えるのがばかばかしくなるほど増える。顔も姿も、確かに自分だ。立ち止まる。映る彼らは、立ち止まる前の一歩をまだ歩いている。
「今からするのは戦闘じゃない」
ミリアは距離を取って、狭間の入口近くに立った。指先で小さな術式を巡らせながら、視線はカイから外さない。干渉は最小限。安全網だけを張る。それ以上をやれば、ここでカイが拾う言葉は“他人の言葉”になるからだ。
「転ばない程度に見張ってる。あとは任せる」
ヴァルグは壁にもたれ、つまらなさそうにあくびをした。けれど、目は獲物を見る狩人のままだ。彼は狭間の“線”を読むのが上手い。どこで踏み外すか、どこで足を置けば戻れるか、その癖を知っている顔だ。
カイはもう一歩進んだ。遅れて歩く自分が、二歩、三歩と連なる。鏡面の中のカイは、みんなこちらを見返す。それぞれの目に、違う色が混じっていた。
「なあ、やめようぜ」
一人が言った。肩をすくめ、剣を持つ手を隠した“臆病なカイ”。背筋が少し丸く、笑っているのに目が笑っていない。
「俺たちはもともと握力が弱い。持ち続ければ、必ず落とす。落とす前に手を離す。それも強さだろ」
「強さの名前をたくさん知ってるのは、逃げたい時だ」
別のカイが割り込む。眉間に皺が寄り、目が荒い。“怒りのカイ”。剣先はいつでも誰かに向いている。
「裏切られたんだ。なら殴り返す。殴る前に言い訳はいらない。秩序だの優しさだの、全部まとめてぶった斬れ」
「斬って、それでどうなる」
次は痩せたカイ。頬はこけ、笑おうとして笑えない。“燃え尽きたカイ”。胸元の勲章みたいな傷跡を自分で撫でている。
「英雄をやり続けると、中身が先に死ぬ。残るのは形だけの正しさだ。形はよく映る。だから人は拍手する。でも、形は呼吸しない」
「呼吸の話なんか、戦場でしてる余裕はない」
“効率のカイ”が口を挟んだ。冷たく整った目。言葉は速い。
「レイのやり方は最短だ。事故は設計できる。反乱は未然に止められる。犠牲を最小化する。それが答えだろ」
同時に、別の場所でも声が重なる。
「最短で着いた先が、望んだ場所とは限らない」
“考えすぎるカイ”。喉元に小さなしこりを抱えたような声。語尾が弱くなるたび、鏡の面がわずかに曇る。
「道のりで捨ててきたものを、戻れる場所に置いてきたならいい。でも、多くは道に捨てる。戻れない。戻らない。あとで数えようにも、数がわからない」
言葉は全部、自分の声だ。だからうるさい。どれか一つを採用すれば、他の自分が黙ると思ったら大間違いだ。どの声も理屈が通っていて、同時に自己弁護の匂いがする。耳が熱くなり、額に薄い汗が滲む。足が重くなっていく。
「一度に全部は持てない。持とうとすれば砕ける」
ミリアがぽつりと呟く。干渉しない、と言っていた彼女の声は、狭間に届かない不思議な高さで、カイだけに届く。彼女は視線で示すように、両手を広げて握り、指を緩めて見せた。
「握る力が弱いなら、指を変えればいい。片手で握れないなら、二本の指で。三本で。やり方は一つじゃない」
そのときだった。足音がした。ほとんど音のしない狭間の中で、きちんとしたリズムの小さな足音だ。影がこちらへ駆けてくる。十歳くらいの少年。髪に砂がつき、膝に擦り傷。木の枝を剣に見立て、背中に差している。土の匂いがした。目はまっすぐで、こちらを見上げるのに躊躇がない。
幼いカイ。名前を呼ばれたら振り返る種類の自分。
「世界が、静かになったらいいって思ってた」
少年は言う。責めない声だった。楽な方へ引っ張る声でもない。事実だけの声だ。
「誰も泣かないように。僕は握る力が弱いから、せめて願った。願うくらいなら、できると思ったから」
カイの胸の真ん中に、その言葉が落ちた。冷たくはない。痛いでもない。落とした石が水面を波立たせるときの、最初の輪みたいな感覚。昔の自分の願い。レイの秩序は、ある意味、その願いに対する徹底した答えだ。痛みをなくす。泣かない世界。事故も誤射も、設計してなくす。誰も間違えないように、先に道を囲う。
少年は首を傾げた。
「静かって、死んでること?」
言葉が喉の奥で引っかかった。カイは、ゆっくりと首を振った。
「違う。静けさは“間”だ。終わりじゃない。戦ってばかりだと、息が切れる。息を吸い直すための間が、静けさだ。間を終わりにしてしまうのは、違う」
言ってから、自分で驚く。戦術でも詠唱でもない種類の言葉。誰かから教わった覚えはない。けれど確かに自分の口から出た。ミリアが遠くで、少しだけ笑った。笑いを隠しもしない、小さな顔のゆるみ。ヴァルグは口笛をひとつ。
「なら、その言葉で敵を切れ」
ヴァルグが肩をすくめる。
「刃じゃない線引きで、首が落ちる相手じゃない。だが、刃の向きを決めるのはいつだって言葉だ」
狭間の面がざわめいた。幼いカイの後ろで、いくつもの“自分”が近づく。臆病も、怒りも、効率も、燃え尽きも、全部だ。彼らはもう責めない。次々に、短い言葉を落としてくる。
「怖いのは当たり前だ。怖くないふりをしても、剣の重さは変わらない」
「怒るのは簡単だ。簡単だから、最後まで持たない」
「効率は大事だ。でも効率だけで選んだ道は、戻り道が最短でないことに気づきにくい」
「形は楽だ。形に合えば拍手が来る。でも形は呼吸しない」
声はすれ違い、重なる。カイは目を閉じ、吸って、吐いた。吸う空気が冷たく、吐く息が白い。音はないのに、温度だけがはっきりしている。
「全部、捨てない。全部、背負わない。重さのかけ方を決める。それが俺の線だ」
目を開けて立ち上がる。膝に手を当て、背筋を伸ばす。足元の面に映っていた“臆病なカイ”が、薄くなった。消えたのではない。背骨の内側に吸い込まれ、自分の体のどこかの筋として収まる。“怒りのカイ”も同じだ。刃の柄の内側に戻っていく。感情の位置が、手の中で定まっていく。
狭間の面の奥がざわめいた。今度は、カイではない影が近づいてくる。黒い甲冑。灰色の瞳。レイだ。彼は鏡越しにこちらを見た。距離はあるはずなのに、その目は近い。鏡面に触れれば手が届くくらいに、近い。
「君はまだ、迷いを正当化する言葉を探している」
レイの声は静かだ。静かで、速い。
「静けさを“間”にするなら、誰が合図をするんだ。間は続けば、停滞だ。停滞は、腐る」
「間は、自分で終わらせる」
カイは鏡面へ歩いた。面は波紋のように揺れ、足元をやわらかく飲み込む。落ちる感覚はない。自分の輪郭が少し伸びて、また縮む。
「合図は、戦場に出ている誰かが決めるんじゃない。そこに生きている人たちが、呼吸で決める。呼吸が整ったなら、次の一歩を踏み出す。俺は、その一歩を邪魔しない側に立つ」
「邪魔しない、は責任の放棄に近い」
「違う。押し付けない、だ。押し付けない代わりに、選び方を手伝う。事故を設計して“正しさ”へ誘導するんじゃなくて、間違いをやり直せる余白を残す」
言いながら、カイは自分の言葉が勢いだけになっていないか確かめる。勢いだけの言葉は、ここでは面に跳ね返って自分の耳を刺す。今の言葉は、跳ね返らなかった。面の向こうのレイの目が、わずかに細くなる。
「やり直しは、次の犠牲を増やす」
「そうだ。だから、数える。俺は数える。助けた数も、助けられなかった数も。レイ、お前が全部最適化して見えなくした“数”を、俺は見えるように持つ。汚い選択ならなおさら、記録する。忘れない」
ヴァルグが面の外から、退屈そうに拍手を三回打った。
「言葉は刃だ。鈍いが、よく通る」
鏡面のレイは、何も言わなかった。代わりに、狭間じゅうの面が一斉に震えた。黒い面に白い線が走る。稲妻ではない。裁定書の罫線みたいな、まっすぐな線。線はカイの足元に交わり、くいっと重さをかけた。
「下手な足場づくりだ」
ヴァルグが吐き捨てる。ミリアの指が走り、狭間全体に張った安全網がきゅっと締まった。重さが半歩分だけ緩む。その隙にカイは身をひねり、線の交点から体をはずす。面は追いかけて重さをかけてくる。レイはここでも“秩序”を使う。ここで折れれば、狭間は飲み込む。飲み込まれた者は、面の裏側で正論を永遠に言い続けるだけの影になる。
「やらせない」
ミリアの声が強くなる。彼女は片膝をつき、両手を面に触れた。指輪が脈打ち、狭間の“角度”がほんのわずか変わる。線は重さをかけ続けるが、方向がずれる。靴底を滑らせ、体幹で受け、カイは線の狙いからわずかに外れ続けた。
そこで、狭間のあちこちから、別の“カイ”が飛び出した。臆病なカイが肩を押し、怒りのカイが重さを刃で受け、効率のカイが最短の抜け道を示し、燃え尽きたカイが「休め」と短く言った。全部、背中の骨に沿って収まっていたはずの自分が、必要な瞬間に必要な量だけ、手助けする。
助けは、言葉じゃない。体のバランスだ。重心の位置だ。握りの深さだ。カイはうなずいた。面の重さが一気にかかる。膝が沈む。歯を食いしばる。そこで視界の端に、十歳の自分が見えた。少年は笑って、親指を立てただけだった。大丈夫、という意味だ。説明はいらない。体はもう、わかっている。
「――終わり」
ミリアが言い切り、手を離した。面の線がほどけ、罫線のような白が消えていく。狭間の空気が軽くなった。でも、軽さは完全ではない。どこかに、まだ薄い重みが残っている。レイは完全には引かなかった。引けないのか、引かないのか。
ヴァルグが口笛をやめ、肩を竦めた。
「稽古はここまでだ。本番は外。外の方が面倒だ。面倒は大抵、楽しい」
「楽しいは、主観でしょ」
ミリアが立ち上がる。頬の血色が少し戻っていたが、額には汗が残っている。指輪の脈は、さっきより早い。世界の崩れ方が、速くなってきた。
狭間の出口の方で、小さな音がした。ピッチが、ほんの少し高い。天井のないはずの空がわずかに明るくなり、影の角度が昼と夜の間で揺れる。音の高さと影の角度は、境界の状態を示す。今は、良くない方へ針が動いている。
「選ぶ時間は、もう長くない」
ミリアの言葉は、事実の報告だった。焦らせるための飾りはない。
「行こう」
カイは狭間の中央から入口へ戻る。足元の面に映る自分は、さっきより少ない。いや、違う。数は同じで、濃さが変わった。薄くなったのではない。重なって、厚みを持った。背骨の内側に、臆病も怒りも効率も、固着しないまま収まっている。出し入れが効く。それなら、持てる。
「おおむね合格だ」
ヴァルグが先に扉を開け、軽口を叩く。立ち止まり、ちらりとこちらを振り返った。
「君の言葉は刃になりうる。だが、刃は磨き続けないとすぐ錆びる。錆びた刃は人を余計に傷つける。磨く時間は、この世界にはあまりない。どうやって磨く?」
「数える」
カイは即答した。自分で返した答えに、驚かなかった。
「助けた数。助けられなかった数。押した背中。止めた手。やり直した回数。やり直せなかった回数。全部」
「よし。答えが早いのは嫌いだが、今はそれでいい」
ヴァルグは扉の向こうへ消えた。ミリアがカイの隣に並ぶ。彼女は何も言わなかった。言う必要がない顔だった。指輪はまだ脈打っている。世界が外で待っている。
狭間を出ると、夜が浅くなっていた。城の上空を走る裂け目は、昨日より太い。街の鐘は同じ数を打つのに、間隔が少し短い。影の伸び方が落ち着かず、看板の文字がときどき左右を入れ替える。崩れ方は速い。音のピッチは、耳の奥で微妙に上がっている。
城の通路を抜け、外の空気を吸う。冷たいが、肺まで届く。さっき狭間で吸った空気と同じ温度だ。吸って、吐いた。吐く息は白い。白さはすぐに薄れ、冬の空へ消える。
「これからどうする」
ミリアが問う。選択肢はいくつもある。王都を出て外輪の村で呼吸を整える。評議会の映像に別の映像を重ねて、見せ方を奪う。レイの術者網の継ぎ目を探し、事故の“設計”を逆に利用する。どれも間違っていない。どれも犠牲が出る可能性がある。だから、数える。
「レイに会う」
カイは言った。驚くほど、声は静かだった。
「剣で決めない。剣を持って行くけど、剣だけで決めない。言葉で線を引く。引いた線の向こうに、やり直しの余白を残す。余白を潰そうとしたら、剣を使う」
「順番が決まってるなら、迷っても戻れる」
ミリアは笑った。ほんの少しだけ。笑い方は昔から変わらない。戦時の朝に、何度も見た笑いだ。カイの足元で、石がきいと鳴った。世界の継ぎ目が、すぐそばにある音。
「行こう」
ヴァルグが先に歩き出す。外套の縁が風に揺れる。彼は振り返らずに言った。
「ちなみに、私は次に会ったとき味方とは限らない。境界は退屈を嫌う」
「知ってる」
「よろしい。退屈を嫌う者は、時々役に立つ」
三人は城の裏口から外へ出た。空気の匂いが変わる。街の匂いと、雪の匂いと、遠くの薪の匂い。鐘の音が二度重なって、また離れた。通りに人は少ない。布告はまだ続いているのだろう。噴水の投影の向こうで、誰かが「偽勇者」を指さしているかもしれない。映像は速い。事実は遅い。なら、足を速く。だが、雑にはしない。
城壁の影を抜けると、東の空がわずかに白むのが見えた。朝は浅い。昼は短い。夜は長い。その長い夜の間に、やることは多い。事故の設計に抗うのは、面倒だ。面倒は楽しい、とヴァルグは言った。本当かどうかは、これからわかる。少なくとも、面倒の中でしか見つからない支点があるのは確かだ。
カイは剣の柄に触れ、握りの深さを確かめた。深すぎない。浅すぎない。指は三本。薬指は添えるだけ。臆病も、怒りも、効率も、全部、出し入れ可能な位置に置いてきた。幼い自分の願いも、ポケットに入れた。静かになればいい。静けさは“間”。終わりじゃない。
「レイ」
誰にも聞こえない声で、名前を呼ぶ。返事はない。返事はなくていい。会いに行くのは、こっちだ。
雪が一粒、頬に触れた。冷たさは、さっきよりは痛くない。息ができるからだ。息ができれば、選べる。選べるなら、数えられる。数えられるなら、忘れない。
足跡が三つ、城の外へ伸びていく。風がたまにそれをならしても、すぐにまた新しい足跡が上書きする。消えなくていい。全部残らなくてもいい。残る分だけ、あとで数えられればいい。
世界は崩れ方を早めている。音のピッチが上がり、影の角度が不安定になる。ここから先は、間違いがすぐに人を傷つける。だからこそ、言葉を刃に、剣を最後に。カイはそう決めて、歩幅をほんの少しだけ広げた。隣でミリアが同じ歩幅に合わせ、前を行くヴァルグの背中が、相変わらず薄い笑いをぶら下げたまま、小さく揺れた。




