第3話 偽りの英雄
冬の朝は、白さより先に音が届く。王都リシアの中心広場に響いたのは、評議会の緊急布告を読み上げる女官の声だった。澄んだ声は鐘楼に反響し、雪の粒に混じって四方へ散っていく。
「黒甲冑の勇者は王都の保護対象である。混乱を引き起こしている偽勇者に注意。偽勇者を目撃した場合、速やかに近衛詰所へ連絡せよ」
同じ文言が何度も繰り返される。広場の噴水には魔導投影が浮かび、昨夜の「裏切りの夜」の映像が流されていた。映像は滑らかで、切り取りが巧みだった。黒い格子の壁がすっと街路を開け、群衆が安全な方向へ誘導される。次の瞬間、画面が切り替わり、こちらの剣が人混みに向けられるように見せる。事実は逆だ。格子は逃げ道を塞ぎ、こちらはそれを壊そうとしていた。けれど映像は速い。見せ方はさらに速い。遅いのは、いつだって事実だ。
カイはフードを深く被り、広場から一本外れた路地の陰で息を殺した。吐く息の白さまで目立ちそうで、口元を手で覆う。ミリアが隣に立ち、短く周囲を見た。
「顔は知られてる。布告が出た以上、中心部は無理。裏へ回ろう」
彼女の声は低いが、焦っていない。二人は石畳の道を抜け、朝市の立ちはだかる棚の隙間を縫って進む。魚の匂い、焙煎した穀物の匂い、酢の匂い。戦時中より品は増えたが、目は冷たい。目を合わせない方が安全だと、皆が知っている目だ。
角を曲がると、細い通りに少年が立っていた。背丈はカイの胸ほど。肩幅が狭く、頬はまだ丸い。けれど手には実用品のクロスボウ。弦は張られ、矢は乗っている。見覚えがあった。戦時中、物資運搬の列で何度か顔を合わせた。荷を持つとき、肩を貸してくれた子だ。名前は思い出せない。思い出す時間もなかった。
少年の両手は震えていた。矢じりが小刻みに揺れる。彼はそれでも、弦を引ききった。声は乾いていた。
「勇者様は、もう勇者じゃない」
その言葉はまっすぐで、刃に近かった。ミリアが一歩前に出る。止めるために。そこで、横から薄い光が落ちた。
格子の光。見慣れた、嫌な線。空中に現れたそれは、目に見えない壁として矢の筋をわずかに押した。狙いは変わる。こちらではなく、背後。通りの向こうで、パンを抱えた若い男女がこちらに気づいたところだった。格子の反射が矢の軌道を誘導する。動き出した矢は、わずかに弧を描いて青年の肩を正確に穿つ。
体が先に動いた。カイは跳び、矢を叩き落とそうとしたが、その矢ではない。叩き落としたのは最初の射だった。第二の射が別方向から飛んでいた。金属の澄んだ音。青年が短く叫び、パンが雪に散らばった。
悲鳴が遅れて押し寄せる。誰かが叫び、誰かが走ってくる。怒号が重なり、空気の密度が変わる。石礫が飛んだ。肩に当たる。頬に浅い痛み。耳に刺さるのは今ではない罵声。過去の夜の罵倒が上書きされるみたいに重なっていく。
少年兵の目が潤んでいた。矢を握る指が白くなる。彼は問う。
「どうして、助けるんですか」
戦時にも何度も聞かれた問いだ。答えはいつも簡単だった。助けたいから。だが、その言葉が今は軽い。救えた一人の背後に、救えなかった十人の影が濃く立ち上がる。カイは喉に言葉を引っかけたまま、拳を握った。
「ここで折れたら負け」
ミリアが腕を掴んだ。強くはないのに、離れない力だった。彼女は路地の奥を見た。退路はもう塞がれている。噴水の方から近衛の靴音が響き、反対側からも鎧の擦れる音がした。はさまれる。選ぶ時間は短い。
そのとき、通りの上を影が横切った。軽い、でも長い影。瓦礫の山の上に、長身の男が立っていた。黒い外套の裾が風で踊る。顔はひどく整っているのに、笑いは薄い。頬骨の影が深く落ちて、瞳の色が読みづらかった。
「秩序は、事故を設計する」
男は人差し指を立て、何でもないことのように言った。言い方だけなら教会の説教に似ているのに、内容は教会の真反対だ。
「ヴァルグ」
ミリアが小さく呟く。名前に棘はないが、油断のない呼び方だった。カイは視線を上げる。聞いたことはある。魔王軍の前衛指揮官。境界に詳しい偏屈。戦いの途中で勝手に戦場の線を引き直し、味方にまで怒られた男。終戦時、戦場から消えたままだった。
「行くぞ、勇者。君の綺麗な正義は、今夜で死ぬ」
挑発。声は静かだが、よく通る。近衛の靴音が近づく。格子の光がまた走る気配がした。駄目だ、この場は全部“設計”されている。誤射は事故ではなく、事故の顔をした操作だ。群衆心理は素直に方向を変える。無作為な石は最も簡単な投票だ。誰かが肩に拳を叩きつけ、別の誰かが罵る。言葉は綺麗だが、意味は汚い。カイは歯を噛んだ。
腹の底が熱くなる。正しさのためではなかった。悔しさのためだった。悔しさが剣を握らせる。こんな手に踊らされている自分への怒り。過去の夜の延長だ。延長戦で勝てたことはなかった。それでも握った。
ミリアが囁く。
「外縁へ。水路沿いに抜ける」
ヴァルグは瓦礫から軽く跳び、屋根へ移った。振り返りもせずに言う。
「遅いぞ。秩序は速い。ついてこい」
彼が味方かどうか、判断は難しい。だが、止まれば終わる。カイはミリアの手を握り、路地の壁を蹴って屋根へ上がる。瓦は霜で滑ったが、体は昔の訓練を覚えている。指の腹で瓦の凸を掴み、低く走った。下から石が飛ぶ。屋根の縁で弾け、粉雪のように散った。
屋根から屋根へ。屋根の間隔は一定ではない。飛び越える。落ちそうになる。ミリアの袖がひらりと浮かび、光の薄い糸が瓦と瓦を結んだ。足場が一枚増える。ヴァルグは振り返らない。長い脚で、軽々と距離を稼いでいく。彼の外套に縫い込まれた銀糸の紋が、雪光を拾って淡く光った。
「この先、監視塔がある。真下は避けろ」
彼は短く言い、屋根の端から飛び降りた。着地の音が驚くほど小さい。石段を二段飛ばしで駆け下り、薄暗い路地へ消える。カイとミリアも続いた。足を踏み入れた瞬間、空気が違う。冷たいのに、湿った匂いがする。水路が近い。
細い橋が見えた。欄干に貼られた符が、等間隔で同じ角度に並ぶ。ミリアが眉をひそめる。
「感知符。触れれば近衛に通知される」
ヴァルグは指で軽く弾いた。符がわずかに色を変えたが、何も起きない。彼は肩をすくめた。
「通知先を変えておいた。評議会じゃなく、魚屋だ。今ごろ起きて戸を開けてる」
「いつの間に」
「ここへ向かう途中で、退屈だったからな」
冗談のような本気。ヴァルグは橋を渡り、石積みの壁に手を当てた。そこには古い掘り込みがある。戦時の暗号で、物資の隠し場所を示す矢印だ。彼は矢印の先の石を押した。石がわずかに沈み、壁がするりと開く。冷気が笑うみたいに流れ出した。
「中へ」
暗い通路の先に、低い天井の広間があった。壁に古い器具が残る。錆びた鎖、折れた槍、無造作に積まれた木箱。箱のひとつをヴァルグが蹴る。蓋が外れて転がり、油紙に包まれた瓶が現れた。瓶の中の液体が鈍く光る。
「煙幕だ。上に放ればしばらく視界をごまかせる」
「あなたは味方なの」
ミリアが問う。ヴァルグは肩を傾け、外套の袖を少しめくった。皮膚に細かい刺青が刻まれている。線が繋がり、見慣れない紋章を描く。
「境界は味方でも敵でもない。いつも真ん中で退屈している。退屈は、時々面倒を見る」
「面倒のせいで大勢が倒れることもある」
「倒れないために秩序がある。秩序は事故を設計する。事故は物語の最短距離だ。君らは物語の遠回りを選びたがる。きれいだから」
ヴァルグは瓶をひとつカイに投げた。冷たいガラスが手に重い。
「選べ、勇者。きれいに負けるか、汚く繋ぐか」
言葉は嫌味ではなかった。事実を口にしているだけだ。カイは口を結び、瓶を腰へ括った。胸の奥でまだ熱が燻っている。悔しさの火種だ。正しさは火じゃない。火は、別のものから生まれる。
遠くでまた布告の声がした。噴水の投影は「偽勇者」の顔をどこかから引っ張ってきて、拡大しているに違いない。勝手に加工された線が、カイの頬骨を濃くし、唇の角度を下げ、目を暗くする。それが今、町の人々が知っている「事実」になる。
「外へ戻る。北門へ。門の水平格子が今日から強化される。今なら通れるが、昼には閉まる」
ヴァルグの言葉に、ミリアが頷く。彼女は指輪に触れ、カイの目を見る。
「肩は平気」
「平気じゃないが、行ける」
「なら行く」
三人はまた光のない通路を進み、別の出口から街へ出た。朝が白んで、屋根の霜が溶け始めている。通りの端では、パン屋がかまどに火を入れていた。火はやさしい。温かい。けれどその温かさに触れれば、今の冷たさが余計に痛む。カイは視線を動かさず、早足で角を曲がる。
角の先で、黒い格子が立ち上がった。道幅いっぱいに。薄い、でも強い。透明に近い線が集まり、見えない壁を作っている。触れれば切れる。跳べば弾かれる。格子は一定の速度で空気を押し、彼らを別の方向へ導こうとしていた。
「囲まれてる」
ミリアの目が一瞬だけ細くなる。ヴァルグはわずかに笑った。
「囲むのは容易い。囲ったあとが退屈なんだ」
彼は瓶の栓を歯で引き抜き、格子の上へ放った。瓶が割れ、白い煙が立ち上る。煙は格子にまとわりつき、薄い線の輪郭を見せた。目に見えるようになった格子は、見える分だけ対処しやすい。ミリアが指先で印を切り、目に見えた線を一部だけ切断する。穴が開く。風が流れ込む。
「今」
三人は同時に走った。穴をくぐり、影の濃い路地へ飛び込む。格子の切断部はすぐに塞がる。背後で空気が鳴る。間一髪だ。次の曲がり角へ向かう途中で、石段の上から矢が降ってきた。矢筋はきれいだ。それでも格子が誘導する。弧が変わり、曲線がこちらへ寄る。
カイは剣で弾き、足の外側で石段の壁を蹴って速度を上げた。狙いは自分ではなく、またも背後だった。子どもを連れた母親が驚いて足を止める。矢は母親の足元へ。格子の反射が作る理想的な事故。彼女が転び、子どもが泣く。見ていた人間は、矢を放ったのが誰かを直感で決める。直感は映像と同じくらい速い。遅いのは、謝罪と説明だ。
胸が焼ける。悔しさでも怒りでも、名前のつかない熱だ。レイのやり方が最短に見える瞬間がある。弱者を守るために、先に弱者を囲ってしまう。暴力が起きる前に、起きないように場を固めてしまう。犠牲が出る可能性を、最小化する。理性的な優しさ。そう呼べば聞こえはいい。だが、その場にいる人間の呼吸が軽くなるわけではない。むしろ、呼吸の仕方まで決められていく。
北へ向かうほど、街は直線になっていく。軍の行軍に合わせて作られた道の区画だ。遠くに北門の塔が見える。水平格子の枠が光を反射する。近衛が十人ほど。術者が二人。人の配置は無駄がない。抜けるには、目を逸らせる何かがいる。
ヴァルグが外套の内側から小さな金属筒を取り出した。短い管に、紙巻が差し込まれている。
「投げて、音を出せるものがあるか」
「ない。持っていない」
「なら、これだ」
彼は金属筒の先を石に擦り、紙に火をつけた。火花は白く、すぐに収まる。彼はそれを空へ投げた。筒は高く、まっすぐに上がり、北門の上空で小さく弾けた。音は小さいのに、耳が勝手に追う音域だった。近衛の視線が一瞬だけ上を向く。その一瞬は短いが、十分だった。ミリアの指が走り、足元に薄い輪が広がる。輪は地面を滑るように伸び、北門の足元に達して消えた。重さがずれる。近衛の膝がわずかに緩む。水平格子の枠がきいと鳴った。
「今しかない」
三人は同時に踏み込んだ。枠が閉じる音が背中に迫る。カイは体を横にし、肩で隙間を抜ける。外気が刺さる。外はさらに冷たい。雪は薄く、風は強い。門の外に出た瞬間、膝が少し笑った。緊張が遅れて体を追いかける。
振り返ると、門の中で近衛と術者が何事か叫んでいる。水平格子が完全に降り、枠が重なって動きが止まった。閉じ込められたのは向こうだ。こちらは風の中だ。自由は冷たい。
城壁の影に身を寄せ、息を整える。ミリアの頬は赤く、指先が冷えている。ヴァルグは相変わらず呼吸が乱れていない。彼は遠くの並木を見て、首を傾げた。
「追っ手は来る。雪の上の足跡は嘘をつかない。嘘をつくには、もっと雪がいる」
「どこへ」
「北の第二水門。外側の水路は凍り始めてる。氷は割れやすい。割って落ちれば、追う気が削がれる」
「落ちるのは嫌だ」
「だから境界は退屈なんだ」
ヴァルグは肩を竦め、城壁沿いに歩き出した。外壁の石は内側の石より荒く、手にざらりとする。風が頬を刺し、目頭が痛む。遠くの畑は雪に眠り、干からびた葦が灰色の海のように揺れていた。
歩きながら、カイは口を開いた。自分でも驚くほど、声は平らだった。
「レイのやり方は、弱者を守るのに最短だ。犠牲を最小化する。反乱を未然に抑える。間違っていないように見える」
「見える、じゃない。実際、ある局面では正しいよ」
ヴァルグはあっさり言った。彼の背中は相変わらず薄い笑いをぶら下げている。
「だが、最短距離で着いた先が目的地とは限らない。道のりで減っていくものがある。君のような面倒な生き物にとって、それは呼吸だ」
呼吸。息を吸って吐く。今はそれさえ難しい時がある。街の中にいるだけで、胸が重くなる。重さは目に見えない格子の形をしている。格子は罪悪感と一緒に動く。こちらが動けば、格子も動く。事故は設計され、誤射は流れを固めるための釘になる。
第二水門は、北門からそんなに遠くない。石造りのアーチの下を水が細く流れ、表面に薄氷が張っている。アーチの横に、古い木造の監視小屋がある。窓は閉ざされ、煙突からの煙はない。中に人はいないようだ。ヴァルグが小屋の扉を押した。鍵は掛かっていない。扉が軋み、古い匂いが鼻を刺す。
「ここは戦時の補給所だ。床下に抜け道がある」
彼は床板を外し、暗い空洞を指さした。空洞の先に、水路の反射。狭いが、人一人通れる。ミリアが身を屈め、先に入る。カイも続いた。ヴァルグは最後に入り、床板を元に戻して静かに扉を閉めた。
膝までの高さの冷水が、皮膚に容赦なく食いつく。息が止まりそうになる。ミリアが振り返り、指輪に触れた。指輪がわずかに暖かくなり、冷えすぎるのを抑える。先に進むほど、水は深くなる。狭い場所での息苦しさは、格子の重さとは違う種類だ。体の内側が冷えて、考えの端が鈍っていく。
水路はやがて右へ曲がり、小さな地下の池に出た。上にふたがあり、薄い光が差している。ふたは木製で、数本の釘で留められている。ヴァルグが釘を抜き、ふたを持ち上げた。冷たい外気がなだれ込む。雪の匂い、樹の匂い。空気のつららを吸い込むみたいな感覚。三人は順に外へ出た。
そこは城壁の外に広がる葦原の一角だった。背の高い葦が風で擦れ、かすかな音を立てている。地面は凍って硬く、足跡は浅い。空は低く、雲が重い灰色で重なっていた。
ヴァルグが周囲を一瞥し、葦をかき分けて進む。彼は葦の根元に小さな杭を見つけ、そこから伸びる細い糸を指で摘んだ。
「狩人の罠だ。踏めば音が鳴る。音は近衛に届かないが、狩人は来る。狩人は近衛より話が通じる。腹が減っているから」
「あなたは何者」
ミリアの問いは先ほどより柔らかい。ヴァルグは答えず、糸を外して別の杭へ結んだ。罠の位置が少しずれる。設計の線を、別の線に描き直すみたいに。
「境界を歩くには、二つの靴がいる。片方は秩序、片方は混沌。左右を間違えるとこける。君らはまだ同じ靴を両足に履こうとする。きれいだから」
彼はふと足を止め、振り返った。薄い笑いの奥で、目だけが真剣だった。
「君はどうして助ける」
さっき少年に聞かれたのと同じ問い。答えは知っているはずだった。助けたいから。けれど、口はその言葉を拒んだ。軽い。軽さが重い。
「わからなくなるときがある」
自分でも驚くほど正直だった。ヴァルグは頷いた。
「よろしい。わからないまま助けるな。わからないままでも助けるなら、その度に自分の中の何かを殺す覚悟を持て。殺した分だけ、あとで数えろ。数えるのをやめなければ、君はまだ君だ」
数える。失ったもの。失わせたもの。どこかで止めた手。どこかで押した背。思い出したくないが、思い出さないと消える。消えれば、次に同じことをしても何も感じない。それは嫌だった。
葦原を抜けると、小さな丘に出た。丘の向こうに、別の門が見える。外郭の狭門。兵は少ない。ここは農民と商人のための門で、大きな荷車は通れない。門の脇には、古い祠がある。祠の屋根には雪が積もり、上に小鳥の足跡が並んでいた。
ヴァルグが祠の裏へ回り、手で石を押した。石が滑り、細い隙間が開く。中は暗い。空洞の奥から、かすかに水音がする。彼は首を横に振った。
「ここはだめだ。中で折れている。昔、洪水で崩れたままだ」
そのとき、空気が動いた。格子の薄い光が、葦原の向こうで立ち上がる。追っ手が近い。音は小さいが、確実に近い。ヴァルグが無表情で指を鳴らした。
「煙幕を使う」
「風がある。拡散する前に追いつかれる」
ミリアが空を見上げる。雲の流れが速い。彼女は短い詠唱を口の中で転がし、指輪に触れた。指の根元から細い光の糸が伸び、葦の穂先に留まる。葦が一緒に息をしたみたいに揺れた。風の向きがわずかに変わる。
「二十数える間だけ、風を曲げる」
ヴァルグが瓶の栓を抜き、祠の前で割った。白い煙が地面に沿って広がる。風がそれを葦原へ押し、格子の薄い稜線にまとわりついた。線が見える。見えると、切れる。ミリアの指が走り、線の交点がいくつか消えた。格子はすぐに修復されるが、修復の間は遅い。遅ければ、選べる。
「北東へ。丘の陰から抜ける」
三人は走った。雪の粒が頬に刺さる。息は白く、胸が痛い。丘の陰を回り込んだところで、小さな影が飛び出した。昨日の少年兵だ。クロスボウを抱え、目が赤い。彼は躊躇した。弦はまだ張られていない。ヴァルグがカイの前に立ち、何も言わずに少年を見た。少年は口を開いたが、言葉は出ない。カイは足を止め、ミリアが前へ出る。
「家へ帰れ。今日の風は冷たい」
ミリアの声は、布告の声とは違う種類でよく通った。少年は矢を下ろし、唇を噛んだ。噛んだ跡に血が滲む。彼はうなずき、走り去った。背中は小さく、雪の向こうにすぐに混ざった。
丘の先に、農道が延びている。道の両脇に並ぶ低い石垣。その向こうに冬野菜の畝。葉は小さく縮み、霜に縁取られていた。遠くで犬が吠える。吠え声は短い。モノの場所を伝える音だ。近衛ではない。狩人か、農夫か。
農道の先で、ヴァルグが立ち止まった。外套の裾が風で巻き上がる。彼はミリアとカイを振り返る。
「ここから先は、境界の匂いが薄い。私が役に立つ場面は減る。次に会う時、私は味方かどうかわからない」
「今は」
カイが問う。ヴァルグは肩を竦める。
「今は、退屈していない。だから行け」
彼は道の先を指さず、道の脇を指した。雪に隠れた細い獣道。人が通るには狭いが、踏めば踏める。踏めば雪は形を覚える。形はすぐに風で消える。
「君の綺麗な正義は、今夜で死ぬ。代わりに、少しだけ汚い選択が生きる。その選択を数え続けろ」
それだけ言うと、ヴァルグは葦原の方へ消えた。外套が葦の間をすり抜け、影はすぐに見えなくなる。足音は最初からなかった。
残った風の音が、耳にまとわりついた。ミリアが少しだけ笑う。笑いは短い。笑いの後で、彼女の顔にいつもの真剣が戻った。
「北東の獣道で外郭の検問を避ける。そこから外輪の村へ。一度、呼吸を整えよう」
呼吸。ミリアが言うと、言葉が少し柔らかくなる。カイは深く息を吸い、吐いた。吐く息の白さが薄くなっていく。胸の重さは半分のままだが、半分あれば歩ける。完全でなくていい。完全なものは壊れた時に粉々になる。半分のままなら、欠けた部分に何かを足せる。
歩き出すと、背後で鐘が鳴った。リシアの鐘とは違う間隔。鏡の向こうの鐘とも違う。ここは同じ世界で、違う場所。評議会の布告はここまで届かないが、人の噂はすぐに届く。偽勇者。裏切り。誤射。言葉はいつも出来上がってからやってくる。出来上がった後で壊すのは難しい。
雪の上に、新しい足跡が三人分、続いていく。振り返れば、少しの風がそれをならしていく。消える前に、目に焼きつける。誰かが見れば、誰かが何かを言う。言葉は速い。事実は遅い。だから、歩きながら事実を作るしかない。
やがて、獣道は薄い森へ入った。裸の枝が交差し、空が格子模様になる。格子は嫌いだ。けれど、木の格子は風に揺れて、形を変える。変わる格子は、呼吸ができる。雪が枝から落ち、肩に当たった。冷たさに身が強張る一瞬、ミリアが肩に手を置いた。
「大丈夫」
その一言だけで、呼吸が少し広がる。ヴァルグの言葉が、雪の下でわずかに温かい。汚い選択。数えること。数え続けること。きれいな言葉で覆ってしまわないこと。
森を抜けると、小さな橋のある小川に出た。氷は薄く、日が差せば割れそうだ。橋には古い祠がもう一つあり、こちらは誰かが手入れをしているのか、雪が掃かれていた。祠の前に、小さな花が供えられている。花は枯れかけで、それでも色が残っていた。
ミリアが花に視線を落とし、短く祈るように目を閉じた。カイも同じように目を閉じる。祈りは言葉ではない。雪の匂い、冷たい空気、凍った土の硬さ。全部まとめて吸って、吐く。それだけのことだ。
目を開けると、遠くの空の色がわずかに明るくなっていた。今日の昼は短く、夜は長い。長い夜の間に、布告は増える。映像は磨かれる。見せ方はもっと速くなる。なら、こちらも速くなるしかない。速くても、雑にならないように。雑になるのは簡単だ。雑に守ったものは、雑に壊れる。
「行こう」
ミリアが言って、橋を渡る。カイはうなずき、彼女の背を追った。足音は雪に吸われ、風は何も運ばない。運ぶのは、これからの選び方だ。選び方は、誰のものでもなく、自分のものだ。誰かに渡したら、楽になる。楽になるが、あとで数えるものがなくなる。
レイのやり方は、確かに最短だ。弱者を守るには強い。事故は設計し、反乱の芽は摘む。犠牲は少ない。だが、呼吸は減る。呼吸が減れば、選べる回数も減る。選べる回数が減れば、間違いに気づく機会が減る。間違いに気づけなければ、正しさはただの形になる。
形の正しさではなく、息のできる正しさを探す。そのための、汚い選択。その数を、歩きながら数える。
雪はまだ降っていない。雲は低いが、風は弱い。足跡は長く伸び、やがて森の影に吸い込まれていった。




