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転移勇者、敵は“もう一つの自分”でした ──鏡のような世界で、己の影と戦う少年の選択。  作者: 妙原奇天


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第2話 境界の魔女ミリア

 夜明け前の王都は、雪の粉をまぶしたように薄く白かった。人通りはほとんどない。鐘楼の影が石畳の上で眠り、屋根の霜が呼吸のたびに白く曇った。

 古井戸は、街はずれの廃礼拝堂の裏手にある。祭用の蔦が枯れて黒い縄のように絡まり、井戸の縁石には誰かが祈りの言葉を刻んだ跡があった。ミリアはそこに手を置き、短く息を整えると、懐から封呪の札を取り出した。銀糸の紋章が紙の裏に淡く浮かぶ。

「下に降りる。滑るから気をつけて」

 そう言って、彼女は先に縄梯子を降りた。井戸の壁面は湿って冷たく、苔の匂いが鼻先にまとわりつく。底につくと、暗闇の奥へ風が走った。古い石積みの通路に、遠い水音が続いている。

 王都の地下水路。戦争中は避難路や補給路として使われ、終戦後は封鎖された。二人は濡れた石を踏みしめ、天井に滴る水滴を避けながら進む。ミリアは歩きながら札を壁に貼り、指先で印を切る。札は音もなく燃え、灰は空中で円を描き、結界の線へ吸い込まれた。

「二つの世界が重なり合うと、上にあるものは下へ、右は左へ。流れは乱れて、弱いところから破れる。今夜は祝祭で灯りが多かった。だから狙われた」

 彼女は要点だけを刻むみたいに言った。足音は一定で早い。迷いのない人の歩幅だ。

「レイは……俺の“もう一人”なのか」

 問うと、ミリアの背中のマントが揺れたが、首は振られなかった。

「言い方を選ぶなら、“同一の魂の別側面”。最初の召喚のとき、術式は二重に走った。リシアの召喚陣と、鏡の向こう“シアリ”の召喚陣。結果、魂は二分された。光と秩序。慈悲と規律。どちらかが優位に傾けば、世界の均衡は破れる」

 彼女は立ち止まり、膝をついて石床を撫でた。濡れた石の目地に、肉眼ではほとんど見えない粒子が散っている。光がないのに、粒子は星のように微かに光る。

「戦時に誰も気づかなかった二重記録。召喚式が“両方で成功した”痕跡。ここと、あっち」

 カイは拳を握った。井戸の冷気が皮膚に刺さる。

「俺が、あいつを止められるのか」

「止めるんじゃない。あなたは“選ぶ”。二つの世界を、二人のあなたを、どう扱うか」

 少し前を向き直り、ミリアは壁のレリーフに手を当てた。円形の模様が幾つも重なった古い紋章だ。彼女が指で数をなぞると、静かな低音が足元から立ち上がる。水路の床に薄い水膜が広がり、鏡のように平らになった。波はない。水は垂直に起き上がり、扉の形を作る。

 鏡の門が現れた。

 ミリアはカイの手首に嵌められた指輪に触れた。鏡紋が脈を打ち、指先に微かな痺れが走る。

「これがなければ、あなたは“片方だけ”になってしまう。思い出し続けて。弱さも、迷いも、あなたの半分」

 言葉は短いのに、重かった。カイは頷き、門の前に立つ。胸のあたりがうるさく鼓動している。後ろを見れば、いつでも戻れる距離だ。けれど戻れば、あの広場の残響が背中に貼り付いたままになる。

 跳んだ。

 落ちる感覚と、浮かぶ感覚が同時に来た。上下の区別が消え、骨の継ぎ目がひっくり返る。耳の奥で水が動く音がして、視界に薄い霧が走る。痛みはない。ただ、自分の輪郭がいったん外へ出て、少し違う形で戻ってきたような違和感があった。

 着地の音はなかった。雪の粒が音を吸ったのだ。

 そこは王都に似て、王都でない。城壁の角度がわずかに違い、路地の幅が一定だった。窓には同じ布が同じ折り目でかけられ、店先の看板は同じ高さで揃っていた。美しかった。整っていて、目が喜ぶ。けれど、通りを行く人々の歩幅が皆同じで、笑い声の高さまで似ているのが不気味だった。

 大通りの掲示板には、新しい告知が貼られていた。「秩序条例」。門限の厳格化、配給の平準化、暴力の即時無力化。読む限り、悪いことではない。むしろ、戦時には誰もが望んだ項目だ。だが、酸素の入る量まで決められているような窮屈さが、肺の奥で鈍く重くなった。

「こっちは“整えられすぎてる”」

 ミリアが小声で言った。視線は動かさず、耳だけで囁くように。

「“良いこと”の顔をした支配。気をつけて」

 城下広場の前に人だかりができていた。新しい朝の光に、簡素な壇が組まれている。壇上に立つのは、黒い甲冑の少年。レイだ。彼は淡々と、抑揚の少ない声で話す。

「昨夜の襲撃は、不安を煽る者たちの企てだ。秩序は弱い誰かを守るためにある。反復される悲劇を終わらせるのは、決意だ」

 拍手が起きた。一斉に、同じ強さで。同じリズムで。

 ばれている、とカイは理解した。視線が絡んだ。レイはわずかに手を上げただけだった。空気の密度が変わる。床石が鳴り、膝が勝手に折れた。重さは、罪悪感の形をしていた。体を動かすたび、過去が擦れて音を立てる。

 ミリアの詠唱が短く走る。言葉の切れ目で空気が軽くなる。結界干渉。カイは膝を浮かせ、息を引き戻した。

「話をしよう、レイ」

 声を投げる。レイは首を傾げた。彼の灰色の瞳は、冷たいというより、乾いて見えた。

「話をするために来たのかい、もう一人の僕。君はいつも、話している間に誰かが倒れていくことを忘れるね」

 壇の下で兵が動いた。鎧の音は小さく、整っている。四隅に立つ術者が同時に印を切った。広場全体に薄い膜が張られる。結界が視界の端で虹のように揺れた。

「ここで戦えば被害が出る」

「だから僕は、先にここを守った。秩序は優しいよ。誰にも痛い思いをさせない」

 皮肉を言い合う余裕はなかった。カイは剣に手をかける。ミリアの指輪が脈打つ。呼吸を整えようとして、肺にうまく空気が入らない。空気の組成まで“整えられて”いる気がした。

 レイは壇から降りた。歩幅は一定、靴音は一定。近づくたび、重みが増す。見えない圧力が層を重ねる。カイは足を前に出そうとする。それが罪の告白みたいに重かった。

「君はこっち側に来るべきだった。最初から」

「俺は、俺の側にいる」

「それで、守れたかい」

 短い問いだった。脳裏に、終戦直後のあの日の景色が蘇った。停戦境の村。燃える屋根。間に合わなかった叫び。新聞に載った捏造の図。言い訳をしないと決めた日の夜の冷たさ。

 その瞬間、ミリアの指がカイの手首をぎゅっと掴んだ。彼女は小声で囁く。

「罪を使って押しつぶす術。“裁定の重石”。捌く。三秒だけ」

 彼女の詠唱は、短く鋭かった。足元の石の目地から光が走り、重さが一枚剥がれた。カイは一歩を踏み出す。踏み出せば体は動きを思い出す。剣を引き抜き、肩の高さで水平に構える。光の膜を裂くように、前へ。

 レイの刃と交差する。火花が静かに散る。金属音は結界に吸われ、広場には音が広がらない。孤独な衝突だった。相手の呼吸が手首の骨から伝わる。

 互いに知り尽くした剣筋。癖。手の汗の量まで、似ていた。正面からでは崩せない。カイは下段へ潜り込み、接近戦を嫌う相手にわずかな居心地の悪さを与える。レイは即座に距離を取り直す。間合い一枚。刃先と刃先が空中で見えない線を結ぶ。

 ミリアが肩越しに符を投げた。符は宙で小さな光の鳥に変わり、広場の四隅の術者へ飛ぶ。鳥が触れた瞬間、四点の紋が一瞬だけ歪む。その一瞬で、カイは足を滑り込ませた。刃の面を合わせ、摩擦を利用して角度を変える。レイの頬を掠める浅い線。血が一滴、雪に落ちた。

 レイの表情が、わずかに揺れた。怒りでも、痛みでもない。訝しむような、計算が狂った時の顔だ。

「やっぱり、君は甘い」

「甘いくらいでちょうどいい」

「甘さは、誰かの痛みに繋がる」

 レイが足を踏みしめる。広場の石が低く鳴った。次の瞬間、地面から透明な柱が伸びる。柱は鎖のように連なり、カイの手足に絡みつく。視界が揺れた。体が引き戻される。

 ミリアが一歩前に出た。彼女のマントが風を掴む。赤みのある瞳が強く光り、掌から薄い輪が広がった。輪は鎖に触れると音もなく裂け、粉になって消えた。

「境界干渉、第二式。“連結の切断”。三回はもたない」

 彼女は息を切らしながら言う。額に汗が光った。レイの目が瞬きを忘れたみたいに細くなる。

「境界の魔女。君はいつも、わずかな時間だけ勝ちを掴ませる」

「それで十分。彼は自分で掴む」

 言い終えると同時に、ミリアはカイの背を押した。合図はそれだけでよかった。カイは低く滑り込み、結界の継ぎ目を探す。レイの術は精密だ。精密であるほど、継ぎ目は存在する。完璧なものほど、開閉のための蝶番が見える。

 継ぎ目は壇の右下にあった。カイはそこへ刃を差し込む。刃の角度が、指輪の脈と一致する。手首が勝手に回り、金属が音を立てずにひび割れる。膜が弱くなる。広場の空気が一瞬だけ自由になった。

「ミリア、下がれ!」

 叫ぶ間に、レイが両掌を打ち合わせた。乾いた音が雪に吸い込まれ、広場の中央に新しい紋章が描かれる。紋は輪を作り、その輪から無人の兵装が生まれた。鎧だけの兵。顔はないが、動きは迷いなく速い。刃を持たず、棒のようなものを構える。

「無力化用」

 棒の先から透明な波が押し寄せる。当たった兵士たちが次々に膝をついた。誰も斬られない。が、誰も立てない。優しい力は、反撃の余地を与えない。

 これ以上は正面で削り合うだけだ。ミリアはカイのマントを引き、広場の脇道へ飛び込んだ。レイが追う前に、路地の手前に薄い幕が降りる。ミリアが指先で描いた仮の結界だ。二人は雪の溶けた水路沿いの小道を走る。

 息が荒い。足が重い。だが、逃げ続けるわけにはいかない。ミリアは走りながら言う。

「城の下に、もう一つの門がある。“秘密の門”。最初の召喚の副産物。そこにある“調律室”まで行ければ、世界の重なりをずらせる」

「ずらせる?」

「どっちが上で、どっちが下か。今は“向こう”が上に来てる。圧がかかるのは、上になった側。ずらせば、息ができる」

 路地を抜けると、石造りの橋が見えた。橋の下は水路が走り、氷が薄く張っている。橋の欄干には、見慣れない符が貼られていた。同じ間隔で、同じ角度で。

「監視符。感知すると知らせるやつ」

 ミリアは短く言い、袖から細い糸を出した。糸は空気を切り、符の上をなぞる。触れた符は一瞬だけ色を変えて沈黙する。彼女は歩を進め、欄干の影に指を差し入れた。影が手に吸い込まれる。闇が布のようにめくれた。

「こっち」

 影の中は狭い階段になっていた。足音が響かない材質でできている。下へ降りるほど、空気は冷たく乾いた。階段の先に広い空間がある。灯りはないのに、暗闇が見える。広さがわかるのは、壁が持つ静けさの種類が違うからだ。戦時の地下指令室。石の棚。錆びた鉄の輪。誰かが置き忘れた軍靴。

 部屋の中央に、黒い円卓があった。中央に穴が空いていて、穴の縁に小さな鏡がびっしりと並んでいる。鏡はそれぞれ違う角度で外を映し、合わさって一枚の空を作っていた。

「“調律室”。世界の重なりの角度を微調整する場所。召喚陣と同時に用意されていた。ここで角度を変えれば、あの結界の“上にある感じ”を下にできる」

 ミリアは円卓の縁に手を置いた。鏡が一斉に呼吸を始めるみたいに曇り、すぐに澄む。指輪がまた脈打った。カイの胸がざわついた。

 ――この感じを知っている。初めて剣を持った日に感じた、何かを越える直前の落ち着かなさ。

「やるよ。君は守って」

 ミリアは目を閉じ、詠唱を始めた。言葉は短く、切れ目が明確だ。一つ一つが鍵で、音の高さが鏡の角度を決めていく。鏡が少しずつ回り、円卓全体がきしみを上げた。空気の圧が変わる。耳が一度抜け、広場で感じた重さがわずかに薄くなる。

 その瞬間、階段の上で足音がした。整った、一定の足音。カイは剣を構え、階段の影へ刃先を向ける。影から姿を現したのは、無人の鎧兵が三体。その背に、灰色の目。

 レイが降りてきた。彼は円卓を見る。視線は短く、理解が早い。

「角度をいじるのは、良い選択だね」

「なら帰れ」

「でも、それを許すと被害は増える。君たちはいつも、少しずつ負けを延ばして、結局大きく負ける」

 鎧兵が一斉に動いた。カイは一体目の棒を刃で受け、捻って奪う。二体目の関節へ蹴り。三体目の顎に柄で打撃。打撃は効いた。が、兵は痛みを感じない。倒れてもすぐに起き上がる。目的はあくまで無力化で、こちらの疲労だけが積み上がっていく。

 レイが右手を上げた。天井の石が震え、粉が降る。円卓の鏡が一枚欠けた。ミリアの声がかすかに揺れる。詠唱の音の高さが乱れた。

「だめ。あと少しなのに」

 ミリアは歯を食いしばり、声を持ち直す。詠唱は流れを取り戻した。鏡が再び回る。角度はもう少しで閾値を越える。ここまでくれば、街の呼吸が変わるはずだ。

 カイは鎧兵を壁へ誘導し、叩きつける。関節が砕け、動きが止まる。刃を逆手に持ち替え、残りの一体の棒を叩き落とす。肩で息を吸う。レイは階段の中ほどで立ち止まり、こちらを見ていた。表情は真剣で、怒りはない。勝ち負けを確認する棋士の目をしていた。

「ねえ、カイ。君があの日、村の南側を選ばなければ、北の家族は助かった。どちらかは助からなかった。なら、選び方を変えるべきだろう」

「選び方を?」

「秩序で覆うんだ。個々の選択を“正しく”制限する。誰も間違えられないように」

「それは……生き物から“迷って決める”部分を奪うことだ」

「奪う。代わりに守る」

 短い沈黙が落ちた。その沈黙の間に、ミリアの詠唱が終わる。円卓の鏡が一斉に音を立て、角度が固定された。空気が変わる。耳が再び抜ける。重さが半分剥がれた。肺の奥まで空気が届く。遠くの雪明かりが、柔らかい光に変わった。

「ずれた」

 ミリアが小さく笑った。その笑みはすぐ消えた。足元へ崩れ落ちそうになった身体を、円卓が支えた。力を使いすぎた。境界干渉は体への負担が大きい。

「ここまで」

 レイが階段から一歩進む。彼の靴音は相変わらず一定だったが、その一歩は少しだけ重かった。調律の効果で、彼にも重さがかかっているらしい。

「戻ろう、カイ。君はこっちに来る。そうすれば大きな揺れは止む」

「俺が向こうを捨てるってことか」

「捨てるんじゃない。統合する。僕の下で」

 ミリアが立ち上がろうとして、膝をついた。カイはレイから目を離さず、片手でミリアの肩を支えた。震えが伝わる。彼女は息を整え、視線だけでカイに合図する。円卓の縁。鏡の最も暗い一枚。そこに、細工があった。鏡の内側に更に薄い膜。気づく者は少ない。

「“秘密の門”。ここにもあるのか」

「ある。向こうの“さらに向こう”。選択肢はひとつじゃない」

 レイの目が、刹那、揺れた。彼はそれでも歩を進める。手を伸ばす。掌に力が集まる。透明な圧がまた層を重ねる。

 カイは刃先をわずかに下げ、踏み込んだ。正面ではない。斜め。彼の剣は、相手を傷つけるための角度ではなかった。鏡へ向けた一閃。暗い一枚の縁へ。刃が触れ、膜が震え、音もなく口が開く。黒い水面が、円卓の中央で立ち上がった。

「行け、カイ」

 ミリアの声は掠れていたが、はっきりしていた。カイは彼女を見る。彼女は頷く。彼女は境界の魔女だ。世界の縁に立って、人が落ちないように手すりを作る役。手すりはそこにあるが、渡るのは自分だ。

 レイが距離を詰め、刃を振る。空気が裂ける。カイはその刃を受けず、半歩で外す。肩口へかすめ傷。血が温かい。痛みが生きている証拠みたいに鮮明だ。彼は体を回し、ミリアの前に立つ。無人兵が復帰し、棒が振り下ろされる。刃で受ける。肘がきしむ。足場が悪い。

「時間がない」

 カイはミリアの手を取った。彼女は首を横に振る。

「私は残る。角度は維持がいる。行って、彼と話して。私の代わりに」

 躊躇の時間は短い方がいい。カイは頷き、鏡に片足を入れた。冷たい。骨まで冷える。それでも、指輪が脈打って、冷たさを内側から中和していく。

「レイ」

 カイは鏡の前で呼びかけた。頬の血が冷えて固まる前に。

「俺は行く。お前の“正しさ”を壊すためじゃない。俺の“迷い”を持ったまま、選ぶために」

 レイは何も言わなかった。刃を下げもしないし、上げもしない。ただ見ていた。見送る目ではない。確認する目だ。彼はいつでも、確認していた。自分の選び方が間違っていないかどうかを。

「いずれ、どちらかは沈む。天秤はどちらかを選ばせる」

「なら、支点を増やす」

 カイは鏡へ身を投じた。冷たい夜が一気に押し寄せ、背中から足の先まで貫いた。世界が反転する。骨が二度鳴る。耳の奥で水が跳ねる。

 落ちながら、彼は振り返った。ミリアが円卓に手をついたまま、こちらを見て頷いた。レイはその横顔を見ていた。灰の瞳がわずかに細くなった。

 ――また会う。もう一人の俺。

 視界が黒く閉じ、次の瞬間、別の冷気が肌に触れた。雪の匂いは同じだが、風の向きが違う。遠くで鐘が鳴った。数は同じ、間隔が違う。地面は固く、空は低い。

 鏡の向こうの、さらに向こう。世界と世界の間に挟まれた、薄い層。そこに立ちながら、カイは深く息を吸った。肺は自由だった。重さは半分だけ。残りの半分は、まだ向こうにある。

 指輪が脈打つ。弱さも、迷いも、痛みも。全部いっしょに連れて行く。

 ここで見つける。支点を。天秤を、揺らす別の方法を。

 振り返れば、門はまだ開いている。長くはもたない。戻る道は細い。だが、細い道ほど、行き先ははっきりしている。カイは雪を踏みしめ、足を前へ出した。

 背後で、微かな笑い声が聞こえた気がした。ミリアの笑いに似ている。遠い、でも確かな音だった。

 ――境界の魔女は、縁に残る。行くのはいつだって、迷う方だ。

 カイは歩いた。迷いを持って。選ぶために。

 そして、まだ見ぬ“支点”へ向かって。

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