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転移勇者、敵は“もう一つの自分”でした ──鏡のような世界で、己の影と戦う少年の選択。  作者: 妙原奇天


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第12話 夜明けの鏡

 朝が本物になった。東の色は白金から薄い青へゆっくり移り、雲の縁はやわらかく染まっていく。王都の屋根は霜で濡れ、通りには湯気の立つ鍋と削れた木屑の匂いが混じって流れた。中庭に集まった人々は、誰かの号令ではなく、自分の判断で動いた。散る者、残る者、片づける者、寄り添って肩を貸す者、冗談を言って笑わせる者。揃っていない足音が、やがて街の呼吸になっていく。

 シアリの行政官ラナは人の輪から一歩出て、無表情の仮面を外した。いつも固く結ばれている口元が、少しだけほどける。彼女は深く頭を下げた。

「秩序は終わらせない。けれど、秩序のための秩序は捨てる。私たちは“間”を政策に織り込む。時間、余白、躊躇の権利。今まで削ってきた分を、戻す」

 詩ではない言葉だ。だからこそ頼もしかった。数字と手順で動いてきた人の舌から出た「間」という音は、決意の形をしている。

 ヴァルグは杭を肩に担ぎ、あくびをひとつ。目尻の皺だけが愉快そうに動く。

「番人は退屈に弱い。だが、退屈は平和が連れてくる。悪くない」

 踵を返し、境界の薄い路地へ消えかける。振り向きはしない。けれど、片手がひらひらと揺れる。

「英雄ごっこは終わりだ。次は人間ごっこをしろ」

 最大級の賛辞を、彼はわざと雑に投げた。雑さは、信頼の裏返しだ。

 ミリアはまだ杖が必要だったが、頬に赤みが戻っていた。歩幅は小さい。けれど、足取りは迷わない。彼女は胸元のペンダントを外し、カイの掌に乗せた。冷たい銀の縁。中央に、小さな鏡。

「これは“魂の鏡”の要石。もう術としては使わない。けれど、お守りにはなる。忘れそうになったら覗いて。嫌いになりそうな自分も、好きになりすぎた自分も、両方映るから」

 カイは受け取り、上着の内ポケットにしまう。布越しに角があたって、落ち着く重さになった。レイがそれを見て、目を細める。

「鏡は嫌いだった。今は、嫌いじゃない」

 彼の声に、寝起きの熱が少し残っている。熱は弱さでも、乱れでもない。生きている証拠だ。

 広場の上、空に新しい景色が加わった。二つの月は本来の軌道を取り戻しているはずなのに、昼の青の中に薄い輪郭がもうひとつ浮いている。“シアリの欠片”だ。裂け目が閉じるときに混じり合い、完全には元へ戻らなかった印。見上げた人々の声は揃わない。

「きれい」

「不安だ」

「面白い」

 どれも正しい。どれも間違いではない。揃わない感想が同じ空に溶け、欠片の月は細く笑ったように見えた。

 政治的な整理は果てしない。責任、補償、制度の改修。ラナと王都評議会は臨時の連絡会を組み、レイは顧問として“秩序の設計”に関わることになった。彼はもはや全てを最短で決めない。会議室では黙って聞く時間が増え、意見の食い違いに苛立つ代わりに、苛立たない訓練をしている。紙の端に小さく「待て」と書く癖ができ、あえて沈黙を差し込む。沈黙は議論の敵ではない。沈黙があると、人は言葉を選ぶ。

 カイは現場に立った。避難所で子どもに字を教え、商店街の薪小屋を建て直し、路地で喧嘩を仲裁し、ときどき剣の稽古もつける。英雄らしくない。だが、人間らしい。彼が教えた字で、子どもが壁に大きく書いた。「走るな、見上げろ」。誰の言葉でもなく、みんなの言葉になった標語だ。

 昼過ぎ、ミリアがパン屋の角を曲がって手を振る。紙袋からは焼きたての匂い。湯気が白くちぎれて空に上がる。

「会議が終わったら山へ行くよ。境界の縫い目を見に行く。誰かが見に行かないと、また勝手に開いたり閉じたりする」

 仕事は尽きない。旅支度をして、また戻ってくる。そういう生活の予感が、胸の奥で温かく広がる。レイは紙の束をラナに渡し、ラナは目線だけで「いってらっしゃい」と言った。口で言うより、目で言う方が伝わる時がある。

 午後、城砦の見張り台から街を眺める。屋根の線は冬の光に薄く輝き、通りには干した洗濯物が揺れている。格子の柵は檻ではなく、道の端に控えめに残されていた。子どもたちが柵の影を飛び石にして遊び、年寄りが腰を掛け、犬が鼻を押しつける。柵は越えられる高さだ。越える自由がある柵なら、街は呼吸を止めない。

「痛みは、全部が悪ではないんだな」

 レイがぽつりと漏らした。パンの耳を手でちぎり、しばらく見つめてから口に入れる。硬さが歯に心地よく、少し甘い。噛むたびに、何かがほどける。

「痛みは合図だ。やめろと言う時もあれば、進めと言う時もある」

 カイが答えると、ミリアが指を組んで笑った。

「じゃあ明日からは、痛みの読み取り練習」

「授業名が怖い」

「怖い授業は身に付く」

 三人でくだらないことを言い合い、笑った。笑いは同じ高さではない。高さがばらばらでも、ちゃんと重なる。

 夕暮れ、石段に腰を下ろしてパンを分けた。屋台から漂う香草の匂い、遠くで練習する笛の音。笛はまだ下手だが、昨日より音が続く。練習の回数が増えた証拠だ。レイが空を見上げる。薄い欠片の月は、昼にも夜にも見えた。消えない違和の印。世界は完璧ではない。完璧ではないから、壊れにくいこともある。

 夜は、鏡のように整っていない灯りで街を縁取った。高い場所は暗く、低い場所は明るい。風の通る道は灯りが少ない。風の止まる角には灯りが集まる。誰かが調整したわけではない。誰かが勝手に決めたわけでもない。人の都合と気分と習慣が混じって、街は呼吸している。カイは薄い月の欠片に向かって囁いた。

「ありがとう、俺」

 隣でレイも小さく囁く。

「こちらこそ」

 声は重ならない。ずれて、でも響き合う。ずれは敵ではない。ずれがあると、音は厚くなる。

 そんな夜の底で、仕事は紙に変わっていく。ラナは会議室で短い文を並べ、余白を多めに取り、子どもでも読める字で清書した。掲示板に貼る文は三つ。

『走るな、見上げろ』

『右肩を落として半歩ずらせ』

『泣く時間を残せ』

 短い、言い切り。説明は少ない。少ないから、覚えやすい。覚えやすいから、困った時に思い出せる。

 翌朝。旅立ちは突然ではない。用意は昨日のうちにしてある。荷は軽く。水袋、乾燥肉、道具、簡易術式の札。ミリアは杖に新品の布を巻き、レイは背中の新しい地図を叩き、カイは胸の内側に鏡を叩く。城門の前で、子どもが走ってきてミリアの杖に小さな鈴を結んだ。

「帰ってきて。鳴らして」

「すぐ帰るよ」

 ミリアは鈴を鳴らし、柔らかい音が朝の空気を撫でた。門番が手を振り、パン屋の主人がパンの耳を袋に詰めて押し付ける。路地の犬がついて来ようとし、少年が犬を抱えて「だめ」と笑う。世界は大げさではない仕草で見送ってくれる。

 門を出た途端、空気が変わった。街の匂いが薄れ、土と乾いた草の匂いが鼻の奥に来る。道は二つに分かれていない。ひとつの道が、幅を変えながら続いているだけだ。街の外れにある祠の前で、三人は立ち止まった。祠の中には古い鏡板。戦時中、誰も見なかった鏡。そこにも、薄い欠片の月が映っている。

「確認。今日は北の縫い目、第二と第三。戻りは夕刻。途中で村の水車の調子を見る」

 ミリアが手短に段取りを言い、レイが頷く。カイは肩の紐を締め直し、石畳から土の道に足を置いた。土は冷たく、しっかりしている。足跡が浅くついて、すぐ風で消える。消えるから、また付けられる。足跡が残り続けるより、たぶん健全だ。

 最初の縫い目は、丘の皿の底にあった。草の向きが少しだけ違う。風がふっと止まり、音が鈍る。ミリアが指輪に触れ、術式の糸を薄く張る。

「大丈夫。浅い。人が通っても迷わない」

 レイが地図に印をつけ、カイが石を三つ置いて目印を作る。石は後で子どもが遊びに使うだろう。使われて困る印は、印としてよくない。残るべきものと流れるべきものの線引きを、三人は声に出して確認した。

 二つ目の縫い目は、村と村のあいだの谷筋にあった。谷の風は鋭く、時折、薄い痛みを頬に置いていく。レイは立ち止まり、目を細める。痛みを嫌がる前に、意味を探す顔だ。

「ここは、人が集まりやすい。祭りの時の列の流れと、逃げる時の列の流れが同じ筋になる」

「なら、柵を置く。柵は低く、角をなくす。掲示は一行」

 カイが樹の幹に紙を貼り、ラナの字で短く書いた文を重ねる。ミリアが鈴を鳴らして合図を送り、樹の上で寝ていた鳥が一羽、首をかしげた。

 三つ目の縫い目は、山の腹。岩場の隙間から白い霧が細く立ち上る。ここは深い。ミリアが額に汗を浮かべ、レイが無言で手を差し出す。手は慣れている。彼は一人で抱え込まない。抱え込まないことを、覚えた。

「ここは、印に杭を一本。……ヴァルグの真似はしたくないけど」

「真似じゃない。役割の継ぎ目だ」

 カイが杭を押し込み、ミリアが術式の糸を結ぶ。杭は深く刺さり、霧は細くなった。鈴を鳴らす。山が小さな音を返す。遠くで雪が落ちる。落ちた雪は谷で水になり、いつか街の樋を走る。巡る。巡ることを、世界はやめない。

 午後、村の水車は軸が鳴っていた。油が切れて、羽根も欠けている。カイは上着を脱ぎ、腕まくりをして軸を外す。レイが羽根を並べ、欠け具合を図にしていく。ミリアは村の子どもに紙を渡し、簡単な記録のつけ方を教えた。数える、書く、残す。術ではない。けれど、術より効く時がある。

「どうして“遅い”ことをするの」

 子どもが訊いた。ミリアは笑って肩をすくめる。

「遅いのは弱いことじゃない。遅いから見えるものがある。見えたものは、次に速く動く時の役に立つ」

「ふうん」

 子どもは納得したのかしないのか、油の缶を抱えて走っていく。走るな、の札はここにはない。走っていい場所と、走らない方がいい場所がある。札はそれを教えるためにある。全部に札を貼る必要はない。貼りすぎると、人は札を見るだけになってしまう。

 日が傾く頃、三人は城門へ戻った。門番が欠伸をして、帳面にちょんと丸をつける。子どもの群れがどっと押し寄せ、ミリアの杖の鈴を鳴らして笑った。レイは地図をラナに渡し、カイはパン屋に寄って耳をもらう。日常は、戦いの後ろにすぐ戻る。戻せるだけの余白を残せたのだと思うと、喉の奥が少し熱くなった。

 夜。城砦の中庭に、焚き火が二つ。誰かが鍋をかけ、誰かが歌を歌い、誰かが眠っている。ラナは革表紙の帳面を閉じ、手の甲で目を押さえた。疲れはある。けれど、目の下の影は昨日と違っていた。影は深くない。深くない影は、眠れば消える。

「明日からは“段取りの段取り”をする。会議の前に、会議の進め方を決める会議を短く。紙配りの順番を先に決めておく」

「最短の人が、遠回りの段取りをするのか」

 カイが茶化すと、レイは肩をすくめて笑う。

「僕の“最短”は、もう一人だけでは作れない。君の“間”と、ミリアの“拒否”、ラナの“数字”がないと、早さはもたない」

「拒否はいつでも言うよ」

 ミリアが湯気越しに微笑む。拒否は喧嘩ではない。止めるための合図だ。止められる場所があると、進める場所も増える。

 夜半、カイは一人で中庭に立った。薄い欠片の月が南の空にかかり、影は長いのに軽い。ポケットの鏡を出して覗く。そこには知っている顔と、見慣れない顔と、見慣れていたのに見たくなかった顔が映った。臆病、怒り、諦め、意地。全部いる。いないふりをしない。鏡は静かに返すだけだ。嫌いになりそうな自分も、好きになりすぎた自分も、同じ大きさで映る。

「生きる」

 小さく言って、鏡をしまう。言葉は術ではない。だが、術より長く効くことがある。耳ではなく、骨に残る。

 翌朝。鈴の音で目を覚ます。子どもが門の外で遊び、犬が吠え、パンの匂いが流れてくる。街は昨日より少しだけ整って、少しだけ不揃いだった。不揃いは悪くない。均しすぎると、ひびが見えなくなる。見えないひびは、いつか大きくなる。

 ラナは新しい掲示を二つ貼った。ひとつは市場へ、ひとつは学校へ。短い文と、余白多めの紙。余白は人に考えさせる。

 午前の会議で、レイはめずらしく言葉に詰まった。議題は補償の基準。数字に置き換えにくい「失った時間」への扱い。沈黙が長くなる。誰も責めない。沈黙を責めると、言葉は薄くなる。

「時間を返せないなら、時間の使い方を返す。……午前の一時間、街の音を聞く時間にする。強制ではなく、推奨。職人は工房で音を拾い、役人は窓を開け、兵は歩哨台で足音を数える。数字にできないものを、日々、耳に入れる」

 提案は詩に近い。けれど、みんな頷いた。詩のような提案を支持できるだけの余白が、今の街にはあった。

 昼、三人はまた道に出る。山の縫い目、谷の印、川の流れ。紙を一枚、杭を一本、鈴の音を一回。作業は地味で、眠い。だが、地味で眠い作業が、世界の朝を支える。

 帰り道、丘の上で一度だけ立ち止まる。街が遠くに見える。欠片の月は薄く、昼の光に溶けている。レイが隣で息を吸う。深く、ゆっくり。

「僕は、最短を愛している。たぶん、ずっと。だけど、最短だけでは持たない。持たせるために、遅さを入れる。遅さは弱さじゃない。……やっと、そう言える」

「言えるようになったから、言わないで済む時も来る。言わなくても、やれる時が」

「いつかね」

 ミリアが杖の鈴を鳴らして笑う。鈴は小さな音で、風にほどけていく。ほどける音は、結ぶ音と同じくらい大切だ。

 門に入ると、誰かが笛を吹いていた。昨日よりうまい。音の高さがそろわず、ところどころでひっかかる。ひっかかるたびに、吹き手は笑い、周りも笑う。笑いは繋がり、焚き火の火の粉がふわりと浮いた。

 レイは胸に手を当てた。薄い痛みが残っている。相打ちで刻んだ痛み。痛みは合図だ。ここに境界がある。越えてはいけない、ではない。越える時に、誰かの手を求めろ、という印だ。

「行こう」

「うん」

 三人はうなずいて、また歩き出す。道は一本。幅を変えながら続く。必要なとき、必要なほうが前に出る。必要が過ぎれば、下がる。主とか影とか、呼び名は歩いているうちに薄くなる。

 欠片の月は昼にも夜にも見えた。消えない違和の印。完璧でない世界のまま、物語は続く。終わりではなく、最初の朝。次の朝を作るのは、彼ら自身だ。レイは背中の地図を叩き、カイは胸の鏡を軽く叩く。ミリアは杖の鈴を鳴らし、笑った。

「帰ってきて。鳴らして、って言われたからね」

「すぐ帰るよ」

「たぶんすぐ。たぶん、ちょっと遅い」

「遅いなら、遅いって紙に書いとく」

 ラナの字で貼られた紙は、風に揺れていた。走るな、見上げろ。右肩を落として半歩ずらせ。泣く時間を残せ。三つの文は、今日も明日も役に立つ。役に立たない日も、役に立つ日を支える。

 城砦の中庭に朝の光が満ちる。白と黒の床石のあいだに、灰の中間が増えた。尖塔の影は短く、回廊の金具が冷たいまま光る。足元のひびは残っている。残ったひびに、小さな紙片が一枚、二枚と貼られていく。貼る手は子どもで、剥がれないように上から撫でる手は老人。二つの手のあいだに半拍の“間”が生まれ、鈴がちりんと鳴った。

 ありがとう、俺。こちらこそ。重ならない二つの声が、同じ空に薄く残る。欠片の月は、見えたり見えなかったりしながら、確かにそこにあった。

 旅が始まる。別れは終わりではない。開始の合図だ。三人は並んで、城門をくぐった。背中は軽く、手は空だ。空の手は、何かを掴める。掴んだものが落ちたなら、また拾えばいい。拾えるように、道の幅は今日も半歩ぶんだけ広くなっていた。

 最初の朝は、一度きりだ。けれど、次の朝は何度でも作れる。冷たい空気を肺いっぱいに吸って、吐く。吐いた息が白く揺れ、薄い欠片の月に触れて消えた。世界は完璧ではない。完璧ではない世界で、二人の勇者と一人の魔女は、交代しながら歩いていく。どちらも主で、どちらも影。必要な時に必要な方が前に出て、必要が過ぎれば、半歩だけ下がる。そうしてつながる足音が、いつか街の歌になる。その歌を聴くために、今日も鈴を鳴らし、紙を貼り、鏡を胸にしまって、前を向いた。

<完>

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