第11話 もう一人の“俺”へ
夜明けははっきりしない色でやってきた。山の端が白み、鐘はまだ鳴らず、吐く息が軽く白い。風は弱いのに、空だけが急いでいるみたいだった。城砦の中庭に貼られた薄い霜が、靴の縁でささやかに砕ける。凍結で生まれた“間”はまだ街を支え、混乱の角は丸まっていた。けれど、世界の裂け目はそれを追い越すようにじわじわ広がっている。空は音を吸う黒い糸で縫い合わされ、縫い目がときどき軋んで鳴った。
レイはカイの横で眠っていた。体温は安定している。呼吸は浅く、滑らかだ。けれど、ときどき彼の指先が急に冷たくなる。影への固定が断続的に強まっている証拠だった。ヴァルグは額に汗を浮かべ、黒い杭をさらに打ち足す。杭を一本叩き込むたび、石畳には蜘蛛の巣みたいな細い亀裂が広がった。
「これ以上は無理だ、勇者。儀式は“対”を求めている。片方だけじゃ均衡しない。杭で引き延ばせるのは朝までだ」
ヴァルグは平坦に言ったが、その声は疲れていた。杭は境界を縫いとめる道具だ。数が足りないのではない。人間の側の“支え”が足りない。支えとは、選ぶ意志だ。杭はそれを少しの間だけ誤魔化す。
ミリアは欄干に手をかけ、体を起こした。唇は蒼く、頬はこけている。けれど、目の芯はまったく揺れていなかった。杖を支えに一歩ずつ中庭へ出て、二人の前に立つ。
「最初に切り離したのは、あなたたちじゃない。術に乗せられた“最適化”だった。だから最後は、あなたたち自身の意思で結ぶの。儀式の要を、人間の“選択”で上書きする」
ミリアは床に膝をつき、指先で冷たい石に線を描いた。線はすぐに薄い光に変わり、環になって広がる。リシアの聖紋と、シアリの行政紋。二つの紋が半分ずつ重なり、意味がぶつかって火花みたいな微光を散らした。円環は三重。外周は人のため。中段は術のため。中心は、二人のため。
「ここに立って。互いの剣を向ける。刃は心臓を外して、胸骨の上、肋骨の間。相打ちの“形”をつくる。世界に“相互承認”を刻むの」
相打ち。勝者なし。主も影も、どちらも。理屈は分かる。けれど、気が進むものじゃない。刃を向け合うことはやっぱり嫌だ。それでも、時間はもうほとんど残っていない。
カイは眠るレイの頬に触れた。冷たくはない。けれど、沈んでいる。
「起きてくれ」
囁くように言うと、灰色のまぶたがゆっくり開いた。レイは一息で状況を掴み、短くうなずく。寝起きの声は低い。
「やろう」
彼は半歩だけカイに近づき、目を正面から合わせる。灰眼は静かだった。
「怖いか?」
「怖い。生きたいから」
カイが正直に答えると、レイの口元に同じ形の笑みが浮かんだ。笑いは短い。けれど、確かだった。
「よかった。僕もだ」
ヴァルグが杭を握り直し、ラナが紙束を胸に抱え、護衛の兵が息を合わせる。街の端では下手な笛がまた鳴り、音が震えた。震える音は、まだ人がいる証拠だ。
二人は円環の中心で距離を取った。同時に剣を構える。風が止まり、雪の音だけが耳に残る。踏み込む合図はいらない。互いの癖は互いが知っている。肩の角度、握りの力、踵の沈め。ほんのわずかな呼吸の“間”が、刻むように揃った。
「いくぞ」
「ああ」
二人の剣は、寸分違わず所定の位置で止まった。胸骨の上、肋骨の間。キン、と涼しい音が骨に響く。同時に、血の代わりに光がしみ出した。銀と金のあいだの色。古い契約で“所有権の移譲”を示す光だ。世界には、それが分かる。勝者はいない。主は二人。交代制。影なし。秩序の記述が、ゆっくり書き換わる。
その瞬間、空白が咆哮した。円環の罫を食い破ろうと圧をかけてくる。最後の抵抗。ミリアが膝をつき、詠唱を短く重ねる。ヴァルグが杭をさらに叩き込み、レイが眠りから立ち上がるように格子の補助線を引く。カイは“相殺”で衝突をずらし、圧を緩める。均衡は紙一重で揺れた。誰か一人の手が遅れれば、全部が崩れる。
カイは賭けに出た。剣を落とし、素手でレイの手を握る。剣先が石をコツンと鳴らした。観客の息が一度止まり、すぐ戻る。握り合った掌の中心で、二人の鼓動が再び一致する。ミリアの円環がそのリズムを拾い、光の強度を調整した。
「次は、ちゃんと選べ」
かつてレイが冷たい場所で言った言葉。今度はカイが言う。押しつけではない。渡すための言い方だ。レイは短く笑い、目を細める。
「選ぼう。何度でも」
言葉が結び目になり、光が弾けた。円環は完全な円に閉じ、空白は音もなく縮んだ。世界は痛むのをやめ、深く息を吸い直す。統合は完了。二人の意識は一度だけ深く沈み、同じ夢の底でたわむ。暗闇は黒ではなく、薄い青の手前。そこには戦場も格子もない。冬の川辺で雪玉を投げ合う少年と少女がいた。ミリアが笑い、ヴァルグが向こう岸で大きなあくびをしている。二つの月は重なり、また離れ、重なるたびに川面が丸く光った。夢は短い。けれど、充分だった。そこに“取り戻し”があった。
目を開けると、世界は静かだった。静止ではなく、静けさとして。人々は立ち上がり、互いに手を貸し、誰かが笛を吹き、別の誰かが笑った。笑いは同じ高さではない。ばらばらで、美しい。ラナは紙の角を指で整え、安堵の息を吐いた。
「儀式、完了。主導権の交代は“月”の合図で行われる。拒否権は一度。街の印と君たちの印で承認済み。……記録、保存」
レイは胸に手を当てた。表情は変わらないのに、声は少しだけ弱かった。
「痛い」
「生きてるからな」
カイは笑い、レイも小さく笑った。二人とも、ちょっとだけ照れくさい。雪を払って、立つ。ヴァルグが杭を半分抜き、残りは“印”として浅く残す。境界の縫い目は完全には閉じない。閉じないほうが、たぶん持つ。完全は割れやすいから。
「ここから先は、交代だ」
レイが言った。灰眼はいつもより柔らかい。冷たい芯は残っているが、その周りに温度が乗っている。寝起きの熱だ。彼は自分の指先を見る。もう冷たくない。
「僕が眠っている間、君の“間”で街を回す。目覚めたら、僕の“秩序”で道を固め直す。互いに報告して、ずれを直す。……やれるか」
「やる。お前が“最短”を愛してるのは分かってる。だから、俺が“遠回り”を手順にして渡す。次にお前が選ぶ時、遠回りが怖くならないように」
レイはうなずく。うなずきは小さいが、深い。
「条件は守る。感情で秩序を否定しない。秩序で感情を圧さない。……それと、約束を破った時の罰を“恥”で済ませない。数字で受ける」
「ラナが嬉しそうだぞ」
「仕事だから」
ラナは顔を上げ、少しだけ笑った。「数字は嘘をつかないけど、人は嘘をつく。だから二人の“報告”を紙にも残す。誰でも読める言葉で」
ミリアは杖を立て直し、軽く深呼吸した。体はまだ重いはずなのに、声ははっきりしている。
「統合の後遺症が出るかもしれない。片方の記憶だけが濃く出たり、感情が引っ張られたり。怖くなったら、すぐ言って。止めることも“選ぶ”のうちだから」
「怖いのは嫌だ。……でも、怖いまま選ぶ」
カイが言うと、ミリアは眉を下げ、笑った。「うん。それが一番つよい」
中庭の片隅で、昨日の少年が折りたたみの楽譜を広げていた。鍵盤はなく、指だけで空の音階をなぞっている。彼は顔を上げ、二人に気づくと、ぎこちなく頭を下げた。高さの合わない礼だった。合わないままでいい。合わないから、混ざる。
ヴァルグが指を鳴らした。「朗報。暴れ足りない連中は、俺の銀貨で一晩は大人しくなる。明日の朝には忘れてるだろうがな。……で、勇者たち。残りの段取りは?」
レイは短く答える。「城門の再配置。格子の高さは“肩より下”。角は禁止。通知は一行。『走るな、見上げろ』」
「相殺の手順は俺が書く。『右肩を落とせ、視線は斜め』『ぶつかったら半歩下がる』『知らない手を握るな、でも離すな』……こんな感じだ」
ラナが紙をめくりながら頷く。「言い切りで書く。冗長は禁止。小さな子でも読める字で貼る」
「拒否権の基準もここで固めよう。三つ。大災害、国家的虐殺、もしくは“弱い側”が割れて意見が出せない時。残りは二人で決める」
ミリアはそう言って、杖で地面を軽く叩いた。円環の内側に小さな光が走り、薄い紙片が何十枚も浮き上がる。人を動かすのは魔法じゃない。魔法は、人が動けるように整える道具だ。紙は、魔法に次ぐ道具だ。
「……レイ」
カイは小さく呼んだ。みんなが散って、油の匂いが薄れ、笛の音が通路に吸い込まれていく。夜明けの光は弱く、けれど確実に白い。二人だけになったわけじゃない。けれど、言うなら今だ。
「お前に預ける。俺の“間”。足りない時は、取りに来い。何度でも渡す」
レイはカイを見る。灰眼は揺れない。言葉は短い。
「受け取る。君の“間”を、僕の“秩序”で形にする。形にして、返す」
「返ってきたら、俺はそれで人を寄せる。寄ったところに、またお前が柵を置く。……そういう往復で、持たせよう」
「うん」
うなずきは静かだった。二人の間の空気に、薄い温度が混ざる。温度は、合図だ。合図は、約束だ。
そこで、空がまたひときわ強く軋んだ。裂け目が最後の未練みたいに震え、黒い糸が一本だけ垂れた。遅れてやってきた“最後の悪あがき”。糸は狙いを持っていない。ただ下へ、最短で落ちる。落ちた先に、ミリアがいる。
「来る!」
カイは踏み出し、レイが肩を出す。相殺の半拍。糸の刃は肩と肩の“面”に触れる前に滑り、石の目へ吸われた。吸われる瞬間、レイが短く吐く。
「——今のが“相打ち”の練習だ」
「二度とやらない練習だな」
「そうだね」
二人は同時に笑って、剣を拾い上げた。刃は重くない。重くない刃は、抜かずに済む可能性を教えてくれる。
裂け目は細くなり、やがて目に見えない糸の厚さまで縮んだ。杭は半分が要らなくなり、半分だけが跡として残る。跡は悪くない。跡があると、忘れにくい。
ミリアは杖にもたれ、長く息を吐いた。「終わった。……けど、始まる」
「始めるさ」
カイが答える。レイも続けた。
「僕たちの番で」
朝日が尖塔の先を白く塗り、回廊の影に薄い金色を落とした。誰かが笛を吹き、別の誰かが失敗して笑った。笑いは、揃わない。揃わないまま重なり合って、街の音になった。
臨界を越えて、相打ちを通って、引き継いだ。“もう一人の俺”へ。これは終わりじゃない。最初の転換点だ。二人は円環の中心から半歩外へ出る。半歩だけ。半歩の差が、世界を壊さずに動かすための隙間になる。
「行こう」
「うん」
カイは中庭の出入口を指さし、レイは反対の通路を見た。行き先は別々。でも、やることは同じだ。街を回る。印を集める。紙を貼る。人に説明する。遅さを手順にし、最短を道にする。弱さを隠さずに、秩序を殺さない。
「また“昼”に合図だ。報告、忘れるなよ」
「忘れない。君も」
二人は拳を軽く合わせ、背中を向けた。背中は空だ。空の背中は軽い。軽い背中は、誰かの重みを背負える。
朝の光が、城砦の中庭に差し込む。白と黒の床石に、灰色の中間が増えた。尖塔の影は短くなり、回廊の金属は冷たさを残したまま光った。足元のひびは残っている。残ったひびに、紙片が一枚、二枚と貼られていく。
『走るな、見上げろ』
『右肩を落として、半歩ずらせ』
『泣く時間を残せ』
誰かが読む。誰かが首をかしげ、誰かが真似する。そういう繰り返しが、世界を持たせる。
臨界を越えても、怖さは残る。怖いままで選ぶ。相打ちの形は胸の上に薄い痛みとして残り、引き継いだ約束は指の節で脈を打つ。レイは一度だけ振り返り、円環の跡を見た。カイも同じタイミングで振り返る。目は合わない。けれど、足音が合う。足音は、同じ朝へ向かっていた。




