第1話 崩れる世界と、もう一人の勇者
王都リシアの夜は、冬祭りの灯で満ちていた。
広場に並ぶ屋台の湯気が白く揺れ、鐘の音が雪粒を散らす。行き交う人々の笑顔がガラス細工みたいに輝いて、冷たい空気を少しだけ温かくしていた。
その光景の端で、カイ・ルステンはひとり立ち止まっていた。
片手の紙杯に、冷めかけたホットワイン。もう湯気も立たない。
十七歳。かつては“勇者”と呼ばれた少年。今はその肩書を静かに剥がし続けている。
戦争が終わって一年。
彼の名は、王都の新聞からも記念碑の刻印からも消えた。停戦の裏で起きた「境界の小競り合い」で、彼が仲間を裏切ったという噂が広まったのだ。
真実を語る者はいない。英雄の名は便利に塗り替えられ、彼の沈黙だけが肯定にされていた。
そんなこと、いまさら気にしないはずだった。
でも、冬風が吹くたびに、街のざわめきが耳に刺さる。
笑い声の裏に「裏切り者」という言葉が混じるような気がして、彼は無意識にマントの襟を立てた。
ふと、空を見上げる。
高い塔の上、祭灯の明滅に交じって、夜空が――波打った。
最初は、ただの幻覚だと思った。
けれど空の黒が鏡のように歪み、縁から緑色の光が滴り落ちていく。
まるで空そのものが、別の層と重なろうとしているように。
息が詰まる。誰かが悲鳴を上げるより先に、光の裂け目が裂かれた。
そして――そこから“少年”が落ちてきた。
黒い甲冑。
背の高さも、輪郭も、癖のある前髪の流れも、カイと同じだった。
ただ、瞳だけが冷たい灰色で、微笑の角度がわずかに違う。
「……レイ?」
口にして、自分で驚く。
少年は名乗らなかった。
ただ、街の中央に立つ古い神像――戦勝記念の象徴を見上げ、無言で剣を抜く。
刃が緑光を反射した瞬間、像の首が滑るように落ちた。
群衆の悲鳴。
次の瞬間、彼は掌を開く。
無詠唱のまま展開された格子状の光壁が、広場を取り囲む。
通りの端まで、逃げ道は封じられた。
秩序の強制。
圧倒的な術式制御。かつてカイが会得したものと、まったく同じ。
思考より先に、体が動いた。
「やめろ!」
叫んで剣を抜いた。
柄を握った瞬間、筋肉が昔の記憶を思い出す。
反射で踏み出した一歩は、美しい軌跡を描いた。
刃が冬の空気を切り裂く。
灰色の瞳が、わずかに緩んだ。
「やっと出てきたね。もう一人の僕」
その言葉の意味を問う暇もなく、二人の剣が交わる。
金属音は鳴らない。
触れる前に“面”が合い、互いの力が相殺された。
音ではなく、空間が震えた。
全く同じ剣筋。
同じ癖。
同じ臆病と勇気のバランス。
――出し抜けない。
上空の裂け目が拡大する。
街の灯りが左右反転し、看板の文字が鏡像に歪む。
二つの世界が重なり始めていた。
「秩序なき慈悲は、戦争の続きだ」
黒甲冑の少年――レイは、そう呟く。
跳躍して、王城の塔を見下ろす。
その背に、夜風が巻きついた。
次の瞬間、彼は姿を消した。
残された光壁だけが、ゆるやかに空へ溶けていく。
見上げたカイの頬に、冷たい雪が一粒落ちた。
静寂。
そして、街のざわめきが戻る。
泣き声、逃げ惑う足音。
それらの全てを背に、カイは息を吐いた。
――あいつは、俺だ。
胸の奥で、誰かがそう囁いた気がした。
衛兵たちが駆けつけ、現場を封鎖する。
だがその混乱の中、カイの肩を掴む手があった。
「立って。行くよ、カイ」
振り返れば、灰色のマントに銀糸の紋。
淡く赤い瞳が、寒気を裂くようにまっすぐだった。
「……ミリア」
戦時の相棒。
彼女は息を切らせながらも、声に迷いはなかった。
「境界が開いた。話は走りながら」
それだけ言って、彼女はカイの手首を掴む。
そして指輪を嵌めた。
鏡のような紋章。
冷たく脈打ち、鼓動と同じリズムで震える。
境界の光が、街を覆い始めていた。
色の順序が狂い、遠くの鐘が反響を二度繰り返す。
現実が“裏返り”つつある。
走り出す二人。
狭い路地を抜け、凍る石畳を踏みしめる。
ミリアが短く状況を説明した。
「境界干渉。別の層が、リシアに重なり始めてる」
「別の層って……異界か?」
「それだけじゃない。観測上、因果の反転が起きてる。つまり“こっちが間違い”にされてる」
ミリアの声が揺れた。
戦場では常に冷静だった彼女が、初めて感情を見せた。
「レイを見たんだね」
「ああ」
「彼は……」
「俺だ。たぶん、もう一つの“正解”の俺だ」
その瞬間、地鳴り。
足元の石畳がひび割れ、広場の方角から光柱が立ち上る。
裂け目の中心で、歪んだ塔が浮かび上がっていた。
空と地が逆転し、人の影が壁の上を歩く。
ミリアが呟いた。
「時間がない。境界の閉鎖は王城の制御塔しかできない」
「レイはそっちへ行った」
「なら追うしかないでしょ」
二人は視線を交わす。
言葉はいらなかった。
戦争の頃、何度もこうして背中を預け合った。
信じることが唯一の武器だった時代。
終わったと思っていた戦いが、形を変えて戻ってきただけだ。
坂道を駆け上がる。
街灯の明かりが赤と青に交互に瞬き、空気が薄くなる。
境界の影響だ。空気の密度が変わり、呼吸が重くなる。
王城の外壁が見えたころ、ミリアが短く呪文を唱える。
光の翼が背から広がり、風を切った。
その手を取った瞬間、カイの視界が一気に開ける。
地上が遠ざかる。
夜の街全体が、鏡面のように揺れていた。
まるで別の都市が、薄い膜の下にもう一つ重なっているように。
「見て」ミリアが指差す。
王城の塔。その最上部に、黒い影が立っていた。
レイ。風に靡く黒甲冑のマント。
彼は剣を掲げ、空の裂け目に刃を突き立てる。
緑の光がさらに強くなる。
現実の層が剥がれ、天と地が逆転していく。
その中心で、レイが叫んだ。
「この世界は誤りだ! 僕が正す!」
声が空間を震わせ、塔の周囲に円陣が展開された。
紋章が一つひとつ点灯し、古代語の数列が走る。
封印術式。規模は軍団級。
「ミリア!」
「間に合わない、でも止める!」
ミリアが指を組み、光弾を放つ。
だが結界に弾かれ、爆風が二人を包む。
カイは咄嗟に彼女を抱き寄せ、転がるように屋根へ着地した。
瓦が砕け、息が詰まる。
ミリアが苦笑する。
「守られるの、慣れてないんだけど」
「俺もだよ」
冗談のような会話のすぐ後、塔が震えた。
空に描かれた紋章群が光を放ち、街の時計塔が崩れる。
人々の悲鳴が遠くから聞こえた。
カイは立ち上がる。
「もう一度行く」
「無茶だ、今の君じゃ――」
「でも、俺しかいない」
剣を握り直す。
その刃が、指輪の光を反射して震えた。
指輪の紋が、勝手に光を放ち、刃と共鳴する。
かつて、神殿の訓練で言われた言葉が蘇る。
“鏡紋の指輪は、二つの世界を繋ぐための鍵になる”
なら、今それを使う時だ。
息を整え、ミリアを見る。
彼女は短く頷いた。
「行って。私は防御を張る」
カイは跳躍した。
屋根から屋根へ。雪煙を蹴り、塔の方向へ一直線に。
夜風が頬を打つ。
呼吸が早くなり、胸が焼ける。
やがて塔の外壁に届いた。
剣を突き立て、足場を作りながら登る。
凍る石肌を爪で削り、何度も滑り落ちそうになる。
ようやく頂上にたどり着いた時、レイがこちらを向いた。
「来たか。やっぱり、君も“間違い”の一部なんだね」
「お前は誰なんだ、レイ!」
「君のもう一つの結果。もしもあの戦争で、別の選択をしていたなら――僕はこうなっていた」
レイの声は穏やかだった。
だが、剣先には殺意があった。
彼の瞳に、迷いはなかった。
「僕は秩序を取り戻す。この世界を、正しい方へ戻すために」
「正しい? 誰が決める?」
「間違った者を裁く。それだけのことさ」
再び剣がぶつかる。
今度は音が出た。高い金属音が夜空に響き、火花が散る。
二人の剣筋が交錯し、互いの呼吸が絡み合う。
記憶が混ざる。
訓練の日々、初陣の恐怖、仲間の笑い声。
同じ記憶を共有しているからこそ、互いの次の動きが読めてしまう。
拮抗。
足場が崩れ、二人は空中へ。
刃が交わるたび、緑光が弾ける。
その瞬間、カイの指輪が強く光った。
世界が反転する。
空が地に、地が空に。
視界が揺らぎ、レイの動きが一瞬止まった。
その隙にカイは剣を突き出す。
刃はレイの肩を掠め、血が舞う。
「……やるじゃないか」
レイが微笑む。
「でも、これで終わりじゃない。世界は二つに分かれる」
彼が背後の裂け目へと飛び込む。
その瞬間、塔の上に緑光が爆発した。
衝撃波がカイを吹き飛ばし、意識が遠のく。
――カイ。
ミリアの声が、どこかで聞こえた。
そして、視界が白く塗り潰された。
気がついたとき、そこは静かな雪原だった。
空は青く、風の匂いが違う。
遠くに見える王都のシルエットが、微妙に歪んでいる。
鏡の向こう側の世界。
レイが言っていた“正しい方”か、それとも……。
カイは拳を握った。
戦いはまだ、終わっていない。
背後で風が鳴り、指輪が小さく脈打つ。
「もう一人の俺を、取り戻す」
そう呟いて、カイは歩き出した。




