糸
これは昔々のお話。
糸
長谷川ほど寝起きのいい人間をあたしは知らない。
朝起きると凄く嬉しい、といつも笑いながら言う。
この世に何一つも後ろめたさがない太陽のように笑う長谷川が大好きだ。
長谷川は中肉中肉中背で、どこにでもいるような顔だった。
クラスメイトのアヤはあんな丸い目の男は嫌だと言っていたが、彼女はいつだってあたしの付き合う男を字が汚いだとかマザコンだとか言って酷評するからあまり気にしていない。
あたしは少し髭が濃いけど男らしくて整っている長谷川の顔が好きだった。
長谷川は実家の敷地内にある離れに住んでいた。母屋には長谷川の祖父母と母親がいて、両親は離婚していた。
長谷川は宅浪している。今年で5年目になる。
高校を卒業して間もなくの時は防衛大に行き自国を守る人間になりたかったらしいが、年齢制限から受験資格がなくなってからは祖父と同じ歯科医になると決めた。
将来を語る時、長谷川の目はキラキラしている。長谷川の父も歯科医だったが、女を作って出て行った。自分の医院を継がせたいからと娘に半ば強引に歯科医と結婚させたことを後悔したこともあり、一層祖父母は長谷川を溺愛し育てた。その孫が継ぐと言い出したので特に祖父は狂喜し、開業した医院を今も経営している。長谷川はその期待に応えるべく必死に勉強をする。父親の行った私立ではなく、祖父の行った国立にこだわって。
あたしはそんな長谷川を愛おしく思う。自国を守るつもりなら他にも方法があったのではないか、という出会った当初に抱いた疑問はいつの間にかその屈託のない笑顔に融解されていた。
祖父母も母親も、長谷川がいつか歯科医になることを信じて疑わない。あたしももちろん信じている。
祖父は優しいが厳しい人で、甘やかしすぎる人ではなかった。経済的には余裕があったが、娘である長谷川の母親を会社員として働かせていた。
母親もそういった環境を当たり前に育ち、働き詰めの生活を送っていた。
そのせいもあったのか彼女の歯はボロボロだったという。母親の歯を綺麗にしてやるんだ、最先端の技術で。長谷川は少し照れながら、でも真面目にそう語っていた。
あたしも応援していた。いつか私の歯を診てくれる、と言うから長谷川が歯科医になるまで歯医者に行かないつもりだ。
虫歯になる前に歯科医になってね、と言ったら真面目な顔で頷く。
こういう真っすぐな精神を持った者こそ、医道に進むべきなのだ。
私は長谷川の話を聞くたびに強くそう思う。
しかし長谷川は歯学部に受からない。
あたしは現役で入った大学を辞め、その後入りなおした大学で知り合った外国籍の大学院生の男と3年付き合って婚約した。
先に帰国して生活の基盤を整える、と言って3ヶ月。二人で決めた入籍日間近で連絡が途絶えた。
帰国した彼は母国で仕事を見つけ、毎日電話をしていた。
また明日、愛しているよ、お休みと言ってそれっきりだ。あたしはそれまで大使館に何度も足を運び、結婚のための準備をしてきた。
彼があたしの親に挨拶する日も決まっていたし、彼はビザも申請して無事下りていたし飛行機のチケットも購入していた。
連絡が途絶えて1週間目にチケットのキャンセルをした。入籍日するはずの日まで、1ヶ月を切っていた。
やはり母国の女性の方がいいと気づいたのかもしれない。それか私が嫌いになったか。
でも、そんなことどうだって良かった。妙に冷静に所詮ここまでの縁だったのだと思った。
驚いたことに、こんなことならいっそ死んでいてくれた方がいい、などと思うほどの執着もなかった。
幸せになってほしいとも思わないけど、生きていてほしいとは思う。
しかしそれは数年一緒に過ごした相手に対して余りに冷たい感情だとは自分でも思う。
そういう薄情なところは自分でも良くないと思っている。
父はあまりのことに激高したが、あたしはこの婚約自体どこか現実味がなかったので、こんなものだ、と思っていた。勿論彼を喪失したという事実はそれなりに悲しかったが、起きてしまった事象に対してあたしはあまり固執しないタイプなのでそれは結構どうだってよかった。
実家にいると父と祖父の家事や飲み会の送り迎えなどと言った雑用をすることになるため、あたしはタイミングを見計らって仕事を辞め、家を出た。
そして長谷川の家に転がり込んだのだ。
久しぶりに突然訪ねてここにおいてくれなどと勝手なことを言うあたしに、さすがに長谷川も呆れて最初はやんわりと断られたが、玄関先でわんわん涙を流し、お願いあたし行くところがないの、と叫ぶように言うと、長谷川は目を逸らしてじゃあ、もう好きにすればいいよ、と最大限に感情を押し殺した声で言った。
しかしあたしは最初から分かっていた。長谷川は最後に絶対あたしを受け入れてくれることを。
学生時代、あたしたちは長谷川の先輩を介して知り合った。
彼、と言っても結局あたしは浮気相手の一人だったのだけれど、当時夢中になっていた芸術肌の男と別れたばかりのあたしはとても傷ついていた。そして、そんな男忘れさせるから、と口説かれあたしは出会ったその日に長谷川と付き合うことにした。
あとから聞いた話だが、その際先輩は長谷川にあたしと付き合うのをやめておけと止めたらしい。それは先輩があたしの人間性を長谷川よりは知っていたからだろう。そしてその助言を無視した長谷川は結局それを深く後悔することとなる。
その時も長谷川が浪人生だったためあたしたちはどこにも行かず、勉強している長谷川のそばで長谷川の父が残した三島由紀夫全集を読むのがデートだった。
長谷川はあたしを無視して勉強し、いつもと同じタイミングでご飯を作り、風呂に入る。
あたしは一緒にご飯を食べ家に帰る。
長谷川の日常は判をついたように全て一定でそれを乱してはいけなかった。あたしは家事すらすることがなかった。
掃除は長谷川の最低限の運動だったし、洗濯は気分転換、料理は趣味だといっていた。
長谷川との空間はあたしにとって天国だった。
その前の男は激しい嫉妬や苦しみを絶え間なくあたしに与え続けたから。常に胃が爛れてひりつくような強い感情が纏わりつく毎日は弱冠二十歳の自分には辛すぎた。もうそのような恋愛をする力はあたしには残っていなかった。長谷川に会って痛みを伴わない生ぬるい幸せにあたしは初めて触れた気がした。あたしはそれが正当な恋愛だと錯覚した。
朝七時。
長谷川はあたしにキスをして一階へ行く。
朝起きると嬉しいと言うだけあって、アラーム一回できちんと起きる。
長谷川は離れで自立した生活を送っている。
それは学業に専念するという建前と、長谷川の過干渉ぎみな母親の接触を完全に避けるためだった。
元々この離れは父親がいる時三人で暮らしていたもので、長谷川が一人で住むようになったのは長谷川の祖母が足腰を弱めて母親が母屋で寝泊まりするようになった事が直接のきっかけだった。
炊飯器のスイッチを押し、顔を洗い掃除機をかける。炊飯器はタイマーにしておけばいいのに、と言ったが、コンセントをずっと繋げておくことを長谷川は凄く嫌がる。
小学校の時の同級生が、ウサギを部屋に放していてエアコンのコンセントを噛み切ってしまい、その漏電から火事になって死んだからだという。夏休みの前日で、浮かれ気味な長谷川少年は不幸にも登校中に火事の騒ぎを見てしまった。そしてその同級生は救急車で運ばれる時は生きていたという。あまり話したことのない女子だったが、近くに行って、がんばってね、と言ったんだ。そしたら、うんうんって頷いて、顔にも火傷があったけど、あれはどうやって治るのかな、と授業中ずっと考えていたら、給食の時間に、校内放送で校長先生が彼女は死んだ、と言う話をした。そして黙とうをしてから合掌をした。その日の給食は鳥の照り焼きで、皮の部分が少し焦げていて、それを見た瞬間まだ何も食べていないのに長谷川はこらえきれず吐いた。数時間前には、自分の声に反応し頷いていた人が、もう死んでいる。しかも、自分たちのような小学生にはまだ遠すぎると思っていた死が意外と近くに潜んでいることに気付いた。
それ以来、コンセントを不必要に繋げ続けることを恐れ、あたしにもコンセントを常に抜くように言っていた。
八時には舞茸と豆腐の味噌汁と、成分無調整の豆乳で割ったケールの青汁と、納豆と炊き立ての御飯と焼き魚と卵の朝食が出来上がる。それは、長谷川の考える最高に健康的な朝食らしい。
長谷川はあたしを起こすために寝室でダウンタウンのDVDを流す。朝から爆笑すると一日が幸せになる、と長谷川は言う。時々DVDを変えたりしてくれているが、はっきり言ってもう何度も覚えるほど見ているので飽きている。でも、長谷川はあたしが何も言わないので満足していると思っている。
松ちゃんは神、という長谷川は小学生のような顔をしている。
あたしはグダグダしながら八時半に階下に行く。そのグダグダする時間も実は重要で、あまり早いと、長谷川はその時間で英単語の復習をしているため勉強の邪魔になってしまう。
あたしは時間に細かい人間だったから、そういう生活は嫌いじゃなかった。あたしは八時半の40秒前にテレビを消し、DVDのコンセントを抜いて寝室を出る。
あたしはテーブルに付くと決まって青汁を飲み干し、味噌汁を飲み干す。そういう食べ方すんなよ、と長谷川に言われたことがある。しかし、長谷川みたいにご飯と味噌汁の間に青汁を飲むなんて、ちょっと出来ない。
長谷川は、食事中に英単語とか歴史とか思い出しながら食べていて、忘れたことを都度確認しながらなので食事に時間がかかる。
私は魚が嫌いで上手に食べられないから長谷川は自分の食事の合間にあたしの魚の身をほぐしてくれる。
私は食べ終わると自分の皿を洗ってから準備をし、九時半に家を出る。
電車に十分乗り、十時十分前に職場につく。
この時、同じ敷地内にある母屋から出てくる母親に会わないように素早く出かける。
この瞬間はあたしにとって一日で一番嫌な瞬間だ。長谷川の家族はあたしをよく思ってはいない。浪人生の長谷川に寄生する邪魔な女だと。
職場はエステサロンで、リラクゼーションとか、マッサージとか、痩身とか、脱毛とか、そんな適当な感じのところだった。
オーナーは派手な顔の美人な四十代で、同性のパートナーがいた。パートナーはいつもジャケットを
猫のように気まぐれで、時に舐めるように甘く近づき、時に加減を知らない様子で爪を剥いた。それはあたしに対しても、客に対してもそうだった。しかし何とも言いようのない魅力があり、それは私にとって子犬の頼りないお尻を見ているような気持ちにさせるのだけど、何とも言えない、目が離せない人だった。客もオーナーの魅力の虜になっていたようだった。媚ることも寂しがるところも他者を攻撃している時も彼女は計算ではなく本能が発する衝動で行動していた。スタッフにも客にも壁を作ることなく好きに振る舞い振り回した。
あたしはそんな動物的なオーナーを好奇心と愛情を持って接していた。
実際、面倒な人間はあたしの周りにたくさんいたが、彼女は感情のままに生きるが決して理不尽でも意地悪な人間でもなかった。だから好きだった。
そしてあたしはこの仕事が好きだった。
我儘と怠惰が贅沢に飾り立て時間を潰すために大金を叩いてやってくる。
あたしはそのでっぷりした身体に手を沈めると自分の指が細く長く力強く見える、その瞬間が何より好きだった。自分がなにかとても確固たるものがある少し良いもののように思えたから。
オーナーはあたしの身の上を知ると、そんな男やめなよ、と鼻で笑った。親身に話を聞いてくれるが、寄り掛かりすぎるとするりと躱し突き離す薄情さもあった。同情を顔に纏って上っ面だけの関係を築く学生時代の同級生よりよっぽど建設的であたしは好きだった。
だってあんたそれ、その男好きじゃないでしょ?生活のためでしょ?つまらない女。そう言ってふらりと施術に入ってしまった。
好きですよ、と言ってみたけど学生の時ほど好きで好きで仕方ないわけではない自覚はある。深くは考えたくない。あたしは仕事も含め、頭を使わなくていい生活に慣れてしまった。それは泥濘のようで、一度嵌ると抜け出せない。寧ろその泥水を手で弄び時をやり過ごすあたし。日々刻々と死に近づいているというのに、無駄に時間を潰すような生活。
食べる物と寝る所を提供されていると惰性に殺される。あたしは自覚できるほどつまらない人間になっていた。だってあたしの生活は、長谷川への忠誠だけあれば良かったのだから。少なくとも長谷川の前だけでは。
長谷川はあたしを大事にしてくれた。
あたしに家事を強要することはなかったし、あたしを責めたり、拒否することは何一つなかった。
長谷川はあたしが寝るときに添い寝してあたしが寝るまでそばにいてくれる。
あたしが拒否しなければ、毎日長谷川はあたしを抱きしめてくれる。
優しく、身体中を髭や指や舌で良くしてくれる。
何度もキスをする。
あたしは何度も上り詰めて心地よい疲労とともに睡眠に入る。長谷川はそれを見届け、また勉強をし始める。
あたしは長谷川と厳密な意味で性交をしたことがなかった。それはつまり、挿入をしたことがない、ということだ。長谷川の裸を見たこともなかったし、服の上からでさえ長谷川の性器に触れることはなかった。
それこそ彼の誠実さだとあたしは勝手に理解し、あたしからは一切求めることをせず、その抑圧された欲はあたしに妄想と幻覚をもたらし長谷川は完全に美化された。
あたしは徐々に長谷川に惚れていき、長谷川のことを全て肯定的に思うようになった。
しかし、長谷川に気持ち良くされる時に、何故、という疑問は脳裏を掠めたし、ふと仕事中などに思い出して妙な思考に支配されることもあった。
長谷川があたしに触れている時、背中に性器が当たり、それがどういう状態になっているかを知っていた。そしてあたしの不在に長谷川が一人で処理していることも。
しかし、あたしは寛容なふりをした。理由を直接聞くことはなかった。
誰しも言いたくないことの一つや二つ抱えている。コンプレックスを抱える人間は優しい。痛みがわかるからだ。長谷川をより愛おしく思えたのは、この問題を抱えていたからだと思う。
学生の時の終わりはあたしの愚行がきっかけだった。
あたしは長谷川が抱かないから浮気をした。浮気と言っても、身体だけの。
抱かないからその欲求を他では発散すればいいと考えた。それだけ。自分が満たされると思った。
相手はあたしと長谷川を引き合わせた長谷川の先輩の友人のヨシザワ。
ヨシザワは巨大な男で、あたしは大きい男が怖いから嫌いだった。図々しい内面が一つ一つの細胞をパンパンに膨張させて大きくなっているように見えるから。
よく行くバーでなんとなく集まるようになった仲間の一人で二つか三つ年上だったが皆の前では小学生のようにあたしに嫌味をぶつけ、下手な無視や意地悪をした。
あまりに執拗に行われるそれらの言動に、周りはヨシザワがあたしのことを本当に嫌っていると思っているようだった。
しかしあたしは分かっていた。
二人きりになった時にあたしに対して明らかな恐怖心を持っていた。目をじっと見ると面白いくらいに動揺した。それはあたしが関心を持たなくなることへの恐れだった。あたしはそんなヨシザワに同情し、鳩のような愚か者を赦し優しい無視を施した。
ヨシザワは長谷川とあたしが付き合う前からあたしに好意を持っていて、あたしが長谷川と付き合った時に何度も別れろと言ってきた。
この巨大な男をこんな小さく無力なあたしがどうにかできることに喜びを感じた。強いのは大きいとか力がある者とは限らないのだ。あたしには戦車を操縦するような昂揚感があった。
この男を、あたしは意のままに扱うことができる、と漠然と思った。
ある時、あたしは仲間たちと飲んでいる時珍しく酷く酔った。仲間たちは自然を装っているが明らかに異様な態度で強引にあたしを送りたがるヨシザワに不可解そうな顔をした。あたしは宥める様に家に送らせた。少しふらつきながら、ヨシザワに腰を支えさせてやることで、臨界点になりつつあるヨシザワの情動を少しずつ夜に放散させてやりながら。
家に着きヨシザワにお茶でもどう、というと渋々というようなふりをして部屋に入った。錆が綻びていくように、纏っていた理性が空気に撫でられ緩やかに剥がされていく。あたしはその様子が面白くて観察を続ける。
あたしはヨシザワが部屋に入ったのを見て、ベッドに入り、ヨシザワに添い寝するように命じた。確かに命じたのだ、あたしの指示をヨシザワは泣きそうな目で乞うていた。張り詰めたヨシザワの精神が、闇の中で光る蜘蛛の巣のように見えた。
添い寝をするだけだと言い訳するようにぼやきながらヨシザワはベッドに入ってきた。
あたしは背を向ける。寝てもよかったし、抱かれてもよかった。
それくらいどうでもいいことだった。小さくて下らない。しかしながら、ヨシザワに抱かれたら長谷川に言おう、あたしを抱かないことでヨシザワと寝たと知ったら長谷川は怒るだろうか。あの温厚な長谷川の違う表情が見られるのかもしれない。あたしは長谷川の複雑そうな表情を思い浮かべた。難解な数学を解く時のような顔をするのだろうか。あたしは長谷川の数学を解いている顔が好きだ。数式をさらさらと書く音も、少し濃いシャーペンで美しくしっかり字を書くところも。ああ、長谷川、あたしは長谷川が大好き。
暫し長谷川の事を思い、寝返りを打ちヨシザワの顔を見ると可哀想なヨシザワは崖のふちに佇み悲壮な表情を浮かべ次の指示を待っていた。引き返すことのできないベッドの絶壁を背に、ヨシザワは酔いの醒めた目で全身を緊張させていた。そもそも今日はいつもより飲んでいなかったから酔いだって大して回っていなかったのかもしれない。ベッドが小刻みに震えていたが、それは明らかにヨシザワが震源だった。あたしはこのわかりやすく無害な男と付き合っていたら、もっと簡単で良かったのかもしれない。どこまでも想定の範囲内であたしの支配下にいる、可愛い戦車。でも遅い。あたしはあたしを抱かない長谷川を好きに崇拝するように好きになっていたから。
あたしはベッドの中からヨシザワに、カーテンを閉めて後ろから抱きしめて、あたしの頸にキスするように命じた。あたしは自分がそうされるのが好きだと思っていたが、ヨシザワのそれはあたしの何一つ動かすことが出来ない、無感動なものだった。あたしの頭も随分冴えてきてはいたが、全てを酒のせいにするべきだと思ったので酔ったような声を出した。あたしは責任の所在をいつも明確にしておくずるい性格だ。こんなふざけた状況でさえ。
枕の下にある避妊具を、手裏剣のようにヨシザワの顔めがけて投げつけ、やるならつけてね、となんでもないことのように言った。実際にこんなことは笑えるくらい造作もないこと。
ヨシザワは強引にあたしをひっくり返して引き寄せその後は勢いに任せて強く抱き締められた。しばらく、ヨシザワはあたしの身体を全て確かめるように撫でまわした。
あたしはヨシザワの匂いを嗅いでいた。無臭、と言う名の人工的な匂いがした。制汗スプレーやミント味のガムと言ったものを大量に用いたのだろう。臭いよりはいいけど、なんとつまらない男。センスのある香水と馨しい汗の混ざった香りでもしたら、あたしはヨシザワを少しは評価したというのに。
長谷川の倍はある厚い唇であたしの身体を愛撫した。あたしはそのふてぶてしい肉感に戦慄した。あたしは生理的に受け付けないこの感触のせいで退屈しはじめた。
違う。何もかも違う。長谷川は、こんなにしっかりとあたしに触感を与えない。もっと曖昧で繊細な夢のような感覚だった。ヨシザワが焦り、あたしをどうにかさせたいと思う気持ちが手に取るようにわかる。あたしはそれを知っていながら尚、声一つ上げることなく舐められ続けた。
ヨシザワは泣き始めた。あたしは一切の愛撫をせず、全てに非協力的だった。
あたしを抱きしめながらなおもヨシザワは涙を流した。お前なんか死ね、お前なんか誰かに殺されればいい最悪な女だ。切れ切れの声の中に、悲壮感を漂わせヨシザワは何度もあたしに言った。いよいよ酒が抜けてきて、より鮮明になってきた感覚の中に、ヨシザワの汗が重く落ち込む。耳介にキスをしながら、死ね、お前なんか、最悪だ、あたしはヨシザワの目を見る。目を細め、あたしの髪に顔を埋め、一つ一つの毛穴に埋め込むように、お前は最悪な人間だ、お前みたいなやつはいつか誰かに殺されればいい。あたしの脳細胞を振動させるように呟く。あたしの頭皮の毛穴から、ヨシザワの精神を侵入させ、あたしが自殺するように仕向けているのだ。
最低、と言われたことがあったが、最悪、はない。最悪なんて、本当にとても悪いもののようだ。ヨシザワは泣きながらあたしに何度も言った。あたしがいつもこうやって、近い男に悪態をつき憎まれるように仕向けるのは、そのうちの誰かに殺されたいという潜在意識のせいかもしれない。じゃあお前が殺してみろよ、と言いかけたが、ヨシザワの殺し方はきっと知性を感じない方法で酷い痛みを伴い、その上急所を外して死ねない気がしたので言うのをやめた。
死に際を選択できるのなら人生で一番の快感を求めている。だから、それが実現できないなら意味がない。ヨシザワのせいで気持ちよく死ねないのならスピリタスを肛門から注入されてアルコール中毒になって死ぬ方がいい。はぁあ、声をしっかり出して溜息をついた。露骨にこの時間に不満足であると相手に思わせる礼を欠いた振る舞い。本当はどんな局面にあっても機知に富み、エレガントでありたいと切望しているというのに、あたしはその一番対極のところでこんなことをしている。
こんな品のない唇の男に股を広げて、あたしは滑稽な格好でこの部屋にいる。
殺し際まで容易に想像できる深みのない男だな、ヨシザワは。どうせ泣きながら自首するんだろうな。なんて、こんなことを考えながら抱かれる女は地球上に果たして何人いるのだろう。あたしはヨシザワをぼんやり見る。
ヨシザワはそんなあたしの態度を見て、意を決したように挿入してきた。ヨシザワの唾液と努力であたしの性器は潤ってはいた。ヨシザワの性器は酷く大きく、最初はあたしの反応を見て気持ち良くさせてくれようとしたのだろう、遠慮がちに動いていたが、相変わらずぼんやりしているあたしの態度を見て急に何かが振り切れたように奥まで突き始めた。
あたしは痛みと恐れから腰を浮かし逃げようとしたが、強く抱きしめられて逃げられなかった。腹部をめがけて大砲を何度も打たれるような恐ろしい衝撃。
長い時間が過ぎ、事が済むとヨシザワは今更ながら自分の狂暴な振る舞いに驚いた様子で和解のような腕枕をしてきた。あたしは興味がなくなって背を向けた。次に長谷川に会ったらどのように切り出そう、あたしはその構想を練ることで頭がいっぱいだった。決して他からバレないように、あたしから伝えるんだ。
ヨシザワはそんなあたしの思考の方向に気付くはずもなく所在なさげに機嫌を窺い続けた。さらさらと万遍なく身体を撫でて愛撫をしてきたが、少しの快感と、それにより発生した切なさが胸腔に砂のように流れ込みあたしはヨシザワを思いっきり傷つけたくなった。ヨシザワの事後の戯れに少しの快感を得た自分がとても下等な生物のような気がして辛かった。
ヨシザワは息を吐くついでに、といった感じであたしのことを可哀想な奴、と言い頭を撫でた。それはあたしの何かを強烈に打ちのめした。目を開けていても貧血のように真っ暗になる。
あたしは寝返りを打ちヨシザワの胸に顔を埋め、ヨシザワはそれに優しく応じたが、あたしは本格的な攻撃のためにヨシザワの三角筋に血が滲むくらいの強さで爪を立てた。
野球をずっとやっていたと言っていたけど、ほとんど武器のような強靭な肉体をもつヨシザワの精神の弱さはどこから来るのだろう。賢くはないだろう。顔つきは愚鈍な牛に似ている。そういえば、あたしはヨシザワのことを何も知らない。下の名前も知らない。興味もない。覚えてなんかやるか、こんなつまらない男。そんな男にあたしは可哀想だなんて言われた。私は満たされていると思っていたのに。しかし、頭に来たということは図星だということだろう。確かに、自分の現状に満足する根拠はない。
ヨシザワはあたしが善がっているのか解りかねているようで頸に舌を這わせそれは少しずつあたしの口に近づいてくる。
あたしは手でヨシザワの顔を引き寄せて思いっきりその厚い下唇をかむ。厚い皮が棘のようにささくれていて、あたしの舌を刺す。その途端、先程うっすら湧いた感情は濃度を増して醜い怒りに変質し、絶対に許せなくなった。犬歯にもっと力を込めて、嵐のような感情の犠牲者に血が滲む。自分ですら、こういう時の衝動をこらえることが出来ない。部屋が暗いことであたしは世間から見逃されている気がする。興奮で目の奥が白く瞬きますます力を入れる。ああ、ヨシザワと比べて長谷川の唇はなんとしっとりして上品なのだろう。
ヨシザワはあたしを突き離し、反射的に平手であたしの頬を打った。ヨシザワの怯えきった目。打った刹那あたしを引き寄せる。震えているのあたしじゃなくてヨシザワだ。こいつは何がそんなに怖いんだろう。あたしは腕をヨシザワの胸に突き立てて距離を置き、次の瞬間ヨシザワの性器を脚で蹴り上げた。あたしの足元で蹲るヨシザワ。勢い余ってベッドからも転落した。びったーんと大げさな音を立てて、大木のような身体は滑稽に床を打った。その音は、実に不快に耳に響き、あたしは何をしているのだろう、と本当に虚しくなった。こいつはあたしを上手く殺せそうもないくせに時間を無駄にした。可能な限り心地よく死にたいという大きな目標に向かって生きているあたしにとってヨシザワの存在意義はもう完全に無い。
長谷川に抱かれさえすれば、こんなことにはならなかったのに。
長谷川ならもっと素敵にあたしを抱くはずなのに。
あたしはヨシザワを無視して自分の一番よくなる処に触れる。ヨシザワは何か言っていたがあたしは集中して目の前の快に没頭する。
ヨシザワはあたしにじりじり近付きゆっくりと下腹部に覆い被さる。
二度とその唇に触れたくなくて、あたしは 右の膝で頭を払い、手を止めて睨み付けた。畜生、後少しで登り詰められたのに。
ヨシザワはさすがに怒ったので何もかも面倒になりあたしは追い返した。何でこんなことをするんだ、という抗議にすら、デリカシーを感じない。一から説明が必要なのだ、この筋肉馬鹿には。そもそも性交をしたくらいで一緒に入眠するだなんてあり得ない。性交なんかより、睡眠を共にすることは尊い。性行為なんて、誰とでもできるのだ。しかし横で眠るのは気を許した人間だけでないといけない。そうでなければ眠れないのだ。ヨシザワを不憫に思うあたしもいた。こんな面倒な女を好きになってしまって。運がない。というより見る目がないのか。しかしあたしが常日頃から想定外な振る舞いをすることはヨシザワも知っていたし、それを認めた上でヨシザワはあたしに惚れていた。
ヨシザワはそれ以降、皆のいる前でも腰や腕に思惑ありげに触るようになり、何度か付き合えと言うようになったが、うんざりして冷たくするようになった。
そして暫くするとヨシザワはあたしに酷いことをされたと吹聴しはじめた。しかし、どう考えても無理やりそんな巨大な男をあたしがどうこうできるはずがなく、明らかにヨシザワの意思も有ってのことだと誰もがわかっていた。
数日後、あたしは食事時醤油を取るついでに長谷川にヨシザワと寝た話をした。ヨシザワと寝たの、と。
長谷川は大きな眼を見開いてあたしを見つめて呆然とした後、なんでだ、わけわからんと頭を抱えて他の部屋へ行ってしまった。あたしは食べかけの御飯をそのままにして長谷川を追いかけ泣きながら謝ったが、それに対して長谷川は良いとも悪いとも言わなかった。
当然のようにその日もあたしに濃厚な愛撫を与えてくれた。いつもより熱い舌があたしにささやかで確実な圧をかける。しかし勿論挿入はない。
あたしは怒り狂う長谷川を見られなかったばかりか、ただ苦悩する長谷川を見ることになったのでとても悲しくなった。その状況を作った自分の立場を完全に忘れて。
そして1週間後にマツオと寝たとき、長谷川に別れてくれと言われた。
今度はこちらから言わなくても長谷川にばれた。
男の匂いがした。また寝たのか?と訊かれた時にあたしはうん、とだけ言った。でもヨシザワじゃないよ、と言おうとしたがやめた。それは、あたしをだらしのない女だと長谷川に告白するようなものだからだと愚かなりにも気づけたからだ。
別れよう。俺から付き合おうと言ったのに、ごめん。
あたしに原因を一切追求せず、長谷川はあたしと別れた。
長谷川はいつもそうやってこの世の不幸の原因を自分に求めた。
だから誰も責めないし、他人を全て許す。
それは長谷川の美徳だと思ったが、今なら少し分かる。長谷川はロマンチストで、自分に酔うのが好きなのだ。
一緒に住むようになった今でも本当の意味で長谷川はあたしを抱かない。
でもあたしはもうどうだって良かった。
平穏な日々が続いていけば、あたしはそれで良かった。
結婚したり出産する友人は確かに羨ましかったけど、自分がそういったものに縁がないことももうわかっていた。
特別に不幸な家庭に育ったわけではなかったが、自分の両親のようにしかなれないとしたらまたあたしみたいな人間が生まれるのかと思うとぞっとした。
そして、あの婚約者とでなければ結婚する意味はなかった。
自分を客観的に見られる余裕はあったが、あたしは変わり者の自分を正常に持っていくことはできなかった。もちろん矯正してみようとはしたのだけれど。
あたしには浮気相手がいた。
それは長谷川と別れる理由となったマツオだった。
マツオはあたしの学生時代からの知り合いだった。
医学生だったマツオと、医療関係のサークルのイベントで出会った。
その時、既に医学に興味がなかったあたしは、友人の誘いで行ったがつまらなかったので、イベントを抜け出すタイミングを探していた。たまたま家庭教師のバイトだから途中で抜けると言ったマツオに駅までついて行った。
マツオはその時名刺をくれて、なんとなく帰りたくなかったあたしは暇だったからバイト終わったら遊ぼうよ、と誘った。その時は帰り道の話がなんとなく面白くて、あたしはただ純粋にもっと話がしたかっただけだった。マツオは分かったと言ってバイトに行き、その三時間後にあたしたちはホテルにいた。
勿論話の続きをするために入ったのではなく、あたしがこの育ちの良い男の行為をみたくなったからだ。
保健体育の教科書に載っているようなシンプルな性交でとても可愛く思った。
その時マツオは彼女がいたようだったが、そのうちに別れたみたいだった。
あたしは結局別の学校に入りなおして卒業するまで、六年のうちに十回程会い、性交をしたりご飯を食べたりした。そのうち長谷川と付き合っていた時に会ったのは一回だった。
長谷川の家に住むようになって暫くしてマツオが研修医となり長谷川の家の近くに来ることになった。
あたしたちはたまに連絡を取っていたし、近くということでなんとなくまた会うようになった。
あたしは全てマツオに話していた。あたしの過去も長谷川があたしを抱かないことも。でもあたしはマツオのことを何も聞かなかった。何も知らない。ただ、凄く酔った時に、一度自殺未遂をしたことがあると話していた。その理由すらあたしからは聞かなかった。興味がなかった。
長谷川があたしを抱かない話をするとマツオは何でなのかな、不思議。と言いつつ、医師である分だけあたしより原因を絞り込めているようだった。
マツオはあたしが言ったどんな些細なことも忘れないで、たまにマツオから教えられる自分の過去の気まぐれな言動にいつも振り回されるが、勿論マツオをも攪乱させていた。
それはあたしという人間を理解されないためにとても役に立った。
あたしを全て理解されるなんて堪らない。あたしはトリッキーという札を貼られていることが嫌いじゃなかった。意識して奇をてらっているわけではないが、あたしは少々普通ではなかった。
マツオと寝ることは寂しいとか、スリルが必要だとか、そんな単純な動機からではなかった。
では何故マツオなのか、と改めて考えてみると特に理由はない。
マツオの性器は恐ろしい程気持ち良かった。
あたしは濡れにくく、あたしたちの性交は毎回処女と童貞のそれのようにもたついた。そして入れる時にお互い痛みを感じた。しかしあたしたちの中に如何なる物も介入させなかった。その時間と痛みの共有こそ、尊いあたしたちの性交の象徴であったから。背徳の感触みたいなものだと。
マツオはあたしの生理周期を把握していたため、安全日にはマツオ次第で中で出した。
あたしの癖を教え込み、とてもいい具合にマツオはあたしに快感を与える道具となった。しかし、マツオとは会っても性交をしない時もあった。というより、しないことがほとんどだった。
マツオは度々あたしの首を締めた。
マツオは自殺を試みた時に首を吊ったらしいが、その時にガツンと強い衝撃の後、鈍い快感が脳を支配して本当に気持ちよかった、と言った。
首を絞められたことはあったがマツオのそれはこれまでの誰よりも絶妙で、皮膚の摩擦や、軟骨を変に圧されると言った不快な感覚を与えず上手に圧迫する。ぎりぎりと音を出しながら。
あたしはその手に酷く興奮する。こめかみが血管に沿って熱を持ち、あたしは堪らなくなる。誰かを治すその指であたしの首を絞めているのだ。苦しみと快感の両方を完璧に与えてくれる素晴らしい指。
その矛盾する存在こそが一番、あたしを快感に導く。
そしてマツオの舌はいつも甘い味がした。
魚を食べた後も、酒を飲んだ後も同じ甘さで、舌の下を舐めるとより甘さが強くなりあたしは離したくなくなる。あたしはマツオの頭を離さずに舌を貪り続ける。少し乱れた歯列は有刺鉄線のように美味な舌を外部から守っているようだった。あたしが夢中でそうしている時、マツオは薄目であたしを見ている。あたしはそれを大きく目を見開いて見ている。
マツオの口はいつも乾いている。
あたしの身体を舐める時も猫の舌のようにざらざらしていて引っかかる。
一族が医師、兄も医師という家庭で育ち、首を吊って自殺未遂した時も自室で椅子を蹴った瞬間、開業医の母親と医学生の兄が駆けつけ、父の同級生が院長をしているという病院に入院し、手厚く看病され無事だった。
誰かに傷つけられたことはなく、常に何かに期待してそれは大概適えられた。
何不自由なく生まれ育ち、のんびりした性格になった。
ある時ふと死んでみたくなった。本当にそれしか思い付かないほど理由もなくそう思った。
ねぇ、死んでみたくなったって、死んだらもう終わりじゃない。と言うと、そうなんだよね、とふんわり笑った。
マツオもきっと、何かが違っているはずだった。だからあたしと同調しているのだ。
あたしはマツオが好きではなかった。勿論嫌いではなかったが、恋焦がれる存在ではなかった。ただ、人間性は知っている。面白い人間だと思ったし今の立場になるまでの努力も知っているので尊敬もしていた。そして何の責任もない気楽な関係だった。もしどちらかに何かあれば、会うことをすぐに辞められる関係だった。そして、あたしたちの関係を知る人間は誰もいなかった。だからあたしたちはどちらかが死んだらそれすら知ることが出来ない。なんと刹那的で儚い関係…!しかしそれだってどうでもいいこと。たまたま漂流して出会った、みたいな感覚。失うことが痛くも痒くもない、マツオはそういう貴重な存在だった。
あたしは最高の日々を送っていると確信していた。
何不自由なく生活できる場所があり、いつまでも夢と情熱を持つ純粋な恋人がいて、性的にも満たされている。
これ以上のことを考えることなど到底出来ない。
長谷川が歯科医になればいいと本心から思っているが、それはあたしたちの生活の変化をもたらすことになるだろう。それを考えると少し憂鬱になった。
そんなある日長谷川は高校の同級生の結婚式に行った。デキ婚だってさ。出会って半年、妊娠4ヶ月って。と少し鼻で笑うような感じで出かけて行った。
しかし帰ってきた長谷川はベロベロに酔っていた。酔った長谷川を見るのは初めてだった。そもそも酒を飲んでいるのを見たことがなく、飲めないとさえ思っていた。
ごめん、俺にはできない、悪いけど、ごめんな。それ以上何も言わずにボロボロ涙を流してソファで寝始めた。完全にあたしを無視して背を向け寝始める。
こんなことは今までなかった。
長谷川があたしより先に寝ることも、服のまま歯も磨かずにいることもあり得なかった。
そしてあたしが浮気をしたって一緒に寝ていたのに。
あたしは戸惑いながら寝室で一人で寝た。
長谷川の家で初めてあたしは自慰をしたが、その時思い出したのはマツオの指だった。あたしって、最低じゃなくてほんとに最悪だな、と思いながらごめんね、長谷川…!とつぶやきながら絶頂に達した。
その時ちらっとヨシザワのことも思い出したけど、少し快感から遠のいて、ヨシザワって本当にどうにもならない男だな、と心の中で罵った。
長谷川はそれからもいつもと少し様子が違い、何かを躊躇っていた。
あたしはそろそろ出ていくべきなのかもしれない。考えてみたらあまりにも身勝手だったし、これからの長谷川のことを考えるとそうするべきだと思った。
曖昧な日々が1週間続き、友達やオーナーに引っ越し話の相談などをし始めた時だった。家に帰ると何かに吹っ切れたようににこやかにしている長谷川がいた。
俺、手術することにしたんだ。
あたしはよくわからなかったが、長谷川の嬉しそうな顔を久々に見たのであたしも嬉しくなった。
長谷川はどこか悪かったのか。
それを言えなくてここのところ思い悩んでいたのか、と納得と共に少しの切なさがあった。
でも何の手術?といって長谷川を見ると小学生が悪戯を告白でもするように少し顔を赤らめ「包茎」と言った。
包茎。
長谷川の感情が伝播しこめかみにぽっと熱が点る。
勿論言葉は知っていたし、どういう状態かということも想像はついた。見たことはなかったけれども。しかし、そんなことであたしは様々な妄想に時間を費やし、ヨシザワという犠牲者まで出したのか。もやもやした不快感が先ほどの熱とともに前頭部に拡がる。
そもそも長谷川は童貞でないはずだった。今までその状態で抱いた女がいたくせに、あたしを抱かなかったのは何故だったのだろう。しかしそれを訊ねるのはあたしのプライドを破壊してしまう可能性を孕んでいたので聞けなかった。彼女たちが長谷川の中であたしより何か魅力的だったと思い知るのが嫌だった。
長谷川はそれ以来、服の上からあたしに触れさせるようになった。
もう少しで、これを入れてやるからな、と何度も強くささやきながら。
長谷川は数日後に手術をして、帰ってきた。
少し興奮しながら手術の話をしてきた。
局所麻酔だから医師と話しながらやったんだけど、その医師がサディステックで猥談ばかりしてきて大きくなってしまってそれをまた医師に嗜められた、と。
でもこんなことも1ヶ月したら笑い話だ、と笑って言った。
あたしは本当にそんな長谷川が大好きだった。
その夜もあたしたちは一緒に寝たが、長谷川が興奮するから何度も痛みで中断した。
あたしたちはその度に幸せな笑いに支配された。
本当に幸せだった。
もう少し、あと少しであたしは長谷川に本当に抱いてもらえるのだ。
長谷川は手術後の疲れもあったのか、一緒に眠りについた。
長谷川の胸の温かみを頬に感じながらだからか、とても満たされた夢を見た。マツオとはもう会う必要がない。
次の日の朝、長谷川の呻き声で起きた。
朝の生理的な反応で激痛が走るようだった。
縫い糸は、数週間で自然に抜けるようになっている。大きくなるたびにその糸が引っ張られて痛みが出るようだった。
長谷川は毎日数回消毒をしなくてはならかったが、なかなかグロテスクなものだそうで変な顔をしながら消毒をする。
そして傷口に薬液が滲みるとまた絶叫する。
背中を丸めて消毒を塗っては悶絶し転げ回る長谷川が可哀想になってあたしは何かできないかと訊いたが、何もしないで黙っててくれ、と言われた。あまりにも傷口を気持ち悪がるので、そんなんじゃ歯科医になって大変じゃない、と茶化していうと、長谷川は不思議そうな顔であたしを見た。まるであたしが突拍子もないことを言ったかのように。そして、明らかに機嫌が悪くなった。長谷川の発した不穏な空気は全ての部屋に蔓延し、あたしと彼との間にカビのような陰をつくった。
糸は緩やかに解けて行った。
ある日、仕事から帰ると長谷川はあたしに糸が取れた、と言った。
しかし、性交は次の診察で医師の了解を得てからにする、と役人のような口調で厳かに言った。性交をするなどと改めて宣言される気恥ずかしさからあたしは冗談の一つでも言いたかったけど、到底許されない空気で神妙に頷いた。
長谷川は寝室の小瓶に糸を入れ、保存するつもりらしかった。
今までと決別するための糸。それはあたしたちを本当に結ぶ糸になる。あたしと長谷川の結束はこの糸に象徴されるようにいっそう固くなり、マツオから完全に切り離すための糸。
長谷川は嬉しそうに糸を眺めている。長谷川は本当にロマンチストで、あたしはそういう人間は嫌いじゃなかった。しかしながら、長谷川の血と尿と分泌物と期待を存分に含んでいるであろうその糸をあたしは気味悪く思い、衛生上もよくないので、いつか事故のふりをして捨てなくては、と考えた。
来週には気持ちよくしてやるから、長谷川は食事の時でさえ何度もそう言ってきた。
あたしは日常にそういった性的なものを露骨に言われるのが嫌だったが、今回だけは仕方ないと大目に見て何も言わなかった。
糸が取れた次の日、マツオと会った。
生理だったので、あたしは話をするだけのつもりだった。
別に会えなくなることを宣言しなくてはいけない相手ではない。
マツオの部屋は居心地がよくあたしは秘密基地のような場所がある安心感がある。
マツオも自然にあたしを招き入れた。
すごく小さな音でクラプトンを流しマツオはいつものように専門書を読んでいた。
あたしはコーヒーを飲もうと立った時だった。マツオがあたしを後ろから抱きしめた。
そういう性交の始まりもあったが、生理だから、とやんわり身体を捩って手を振りほどいた。マツオは知っているはずだと思った。あたしの生理周期を把握しているはずだったから。
マツオはあたしの腕を掴みゆっくりあたしを押し倒した。生理の時に性交をしたことはなかった。あたしは生理の時に性器は勿論、胸や身体でさえ触れられるのが嫌いだった。マツオもそれを知っているので、生理だということを思い出させてさえやればあたしに無理なことをしなかった。
やめてってば。
マツオは少しいつもと違っていた。マツオの左目は少し斜視でその眼をじっと見ていると何を考えているかわからない印象をあたしに与えた。しかしそれはマツオの雰囲気に合っていて、マツオ自身はそれを少し気にかけているところがあったが、あたしはそれこそがマツオの魅力とさえ思っていた。
あたしの上に跨ると落ち着けるように何度も髪を手で梳いた。
いよいよ訳が分からなくなり、あたしは少し警戒した。
習慣化されていること以外の行動はあたしを怖がらせる。マツオのように、サプライズの後に常に喜びのあった人間には死んでもわからないと思うが、幼少期にある日突然ピアノの先生に虐待されるようになった人間としては、他人の非日常の行動パターンは恐怖しか感じられない。
マツオは穏やかな声で、おとなしくして、そうじゃないと、と言って少し間があり、少し縛るから、と控えめに脅迫してきた。
あたしはちょっとしたパニックになっていた。早く帰ろう。どれくらいおとなしくしていたらいいんだろう。何をするんだろう。
マツオは固まったあたしを満足そうに見下ろし、その眼があった瞬間あたしは催眠でもかけられたように動けなくなった。
マツオの目が飛び出しているのがわかったから。
もともと大きな目は明らかに血走って剥き出していた。それは人間とは違う、宇宙人のようだった。
あたしは力が抜け、マツオの動向を見守ることにした。別に、マツオなら殺されてもいい、本当にそう思っていた。ついでに死亡診断書もマツオに書いてもらえばいい記念になるだろう。マツオならヨシザワなんかとは違って無駄な力を振り回すことなくきっと上手いことやってくれる。マツオはあたしが大人しくしていることを何度か確認し何やら準備をし始めた。あたしは動けないまま目の隅でマツオをそれとなく監視する。
喋ってもいい?あたしは声を発したが、思ったより小さい声になってしまった。恐れを感じていると知られるのは癪だった。
あたしはこれも変なプレイの一環のつもりなのだろう、と思うと少し睡魔が来た。
マツオに睡眠薬ある?と訊くと4粒繋がったままで投げてきた。
あたしは3粒飲んで寝たままマツオに水、と言うと口移しで冷たい水を飲ませた。
とろりとする甘い唾液を含んだ水が口のなかに少し残り、それを舌で転がしていると蟻地獄の巣のような睡魔の波が来て、あたしはその波にあっさり吸い込まれた。
あたしは意識がなくなる前にマツオが服を脱がすのを感じ、目を閉じると長谷川に抱かれた感覚と混乱しながら夢を見た。
はっと目を覚ましたら夜中の二時だった。あたしは下半身が露呈している格好で、その足の間にマツオは蹲って何かしている。あたしはマツオの様子を窺った。
マツオの目は引っ込み、普段と同じような顔をしていた。
耳を澄ますと密かに携帯のバイブの音が聞こえる。長谷川からだろう、帰宅がこんなに遅くなったことなどない。
途端に頭が真っ白になった。長谷川になんて言おう。
長谷川はあたしがマツオに会っていることを知らない。あたしは長谷川が好きだ。長谷川を失うなんて有り得ない。そもそも、マツオとは今日で会うのも最後になるはずだったのに。
マツオはあたしが目を覚ましたのに気付いて、時計を見た。二時過ぎたんだね、どうする?
帰らなきゃ。自分の声に力が入らない。
帰らなきゃならないけど力がでない。
今から?長谷川さんになんていうの?
確かに仕事で遅くなった、というわけにはいかない。オーナーが同性愛者なのは長谷川も知っているから変な想像をされても困る。
帰りに事故に遭って、病院に運ばれたことにでもすれば?マツオはへらへらしながら言う。
もう少しなんだけどね、と言ってあたしに何かを見せてきた。
それはあたしの経血で描かれたあたしの下半身だった。鏡のように脚から性器に向かって描かれている。たまに出てくる血塊は赤一色の絵の中に上手い具合に濃淡を生む。
上手いな、と思って感心してしまった。事故に遭ったことにしようかな、あたしが独り言のように言うとマツオはふっと鼻で笑う。
マツオに泊まってもいいかと訊くと、いいよと風のようにつぶやいてまた描き始めた。
おなかが減った、明日は何時にここを出れば仕事に間に合うか、帰ったら長谷川になんて言おう、マツオはいつまでこれを続けているのか、血はシーツに滲みているのではないか、トイレに行きたい気もする、一体世の中の何人くらいの人がこんなことを経験するものなのか、長谷川や今までの彼とこんなことしたことないな、マツオってきっと変わってる。
あたしはぐるぐる思考を巡らせながら再び微睡む。狂っている、マツオは狂っているって、絶対おかしい。つぶやくように言ったつもりだったのにあたしの声は思ったより甲高く響き、思わず笑ってしまった。壁から跳ね返されるその声はあたしの表面を擽りあたしはもっと笑う。
マツオは絵を丁寧に床に置き、あたしを撫でた。
どうしたの?ねえ、おかしくなった?うん、あたし少しおかしいかも、嬉しいの、こんなことされてもね、初めてで。マツオはシャツを脱いであたしを抱きしめ、膝であたしの性器を弄った。膝にあたしの経血が付着し、しばらくするとマツオの熱で赤く乾いて所々剥がれそれは蜘蛛の巣のように見えた。
犬のようにじゃれてくるマツオにあたしは言った。
ねえ、これって変だよね、何?絵のこと?違う、あたしたちのこと。どうでもいいけど。うん、そうかもな。
もう会わなくなる、これが最後だなんてなんか面白い気がした。
あたしはお腹が減ったのでマツオの舌を暫く吸って気が済んでからまた眠りについた。
翌日あたしは同じ服で仕事に行ってレズのオーナーには散々おちょくられたが、車に轢かれて病院から来たんです、というと、真顔になりそんな冗談通じると思う?と言い、あたしは自分の愚かさに恐れを抱いた。長谷川を騙せるわけない。
オーナーは面白がって打ち解けている客にあたしが同じ服で出勤したことと事故に遭ったと言い張っていることを笑い話にしている。
あたしは客の反応を見る度に長谷川に対して考えが甘かったことを思い知る。
電池を使いきった携帯を草むらに置いて事故の時に吹っ飛び見つけられなかったことにした。
実際あたしは長谷川の番号なんて覚えてなかったし、家の番号も知らなかったから連絡が取れなかったことは説明がつく。
あたしは帰りに垣根に二回体当たりをして、少し足や腕に傷を作りくたびれた顔をして家に帰った。
長谷川は酷く心配をしてあたしを労り風呂へ入れた。
風呂に入っていなく、あたしの固まった経血が陰毛に絡まっていた。長谷川はゆっくりあたしを脱がし、菩薩のような顔で体を洗ってくれる。
あたしはたまに痛みを感じるふりをして長谷川の本心を探った。本当に気付かれていないとは思えなかった。どこでどのようにどうやって事故に遭ったのか、昨日はどうしていたのか、聞かれるのを恐れた。
しかし、うまく答えなくてはいけない。
もうマツオには会わないのだから、長谷川を失うわけにはいかない。
長谷川は大げさにあたしを庇いながら布団に寝かしつけ、かいがいしく看病のようなことを始めた。まるで医術を心得た人間にでもなったような顔をして、痛むと言った腕や足を観察したり、撫でて確認したりする。それはどう考えてもマツオのやり方とは違い素人の想像の範囲を越えなかった。あたしはこれまでとは別の視点から長谷川を見ている自分に気付いた。夢だけを追い、現実の社会と切り離されている長谷川。そこにふわっとした違和感を抱いた。勿論それであたしたちの関係が変わるはずはないと思っていたので、突然湧いた自分の気づきをなかったことにした。
長谷川は手術をした辺りから机に向かう時間が明らかに減っていた。
痛みのせいで、というよりも、違うことに気を取られている時間が増えたように思えた。これまで抑えてきたものが解放されるのだからわかる気もしたけど、このままだと今年もまた受からないのだろう。
それは、あたしにとっては何の変化もない一年が更新されるだけの話だった。
長谷川が病院に行くと言った日、あたしは変な緊張とともに帰宅した。
これまでの不完全な関係は今日で終わる。
あたしは顔がにやけるのを抑えながら、早くなり過ぎず、遅くなり過ぎない足取りで玄関を開けた。長谷川はあたしの足音を聞いて駆けつけ、息を整えると恭しく手をあたしの腰に当てて階段を上がった。
そしていつもより丁寧に服を脱がせるとあたしはそれだけでものすごく濡れた。自分でもわかる、もう何かが滴ってくるようだった。
長谷川が好きだった。欲しかった。あたしは前の婚約者がいた時でさえ、長谷川のことを思ったことだってあった。抱かれていなかったからこそ長谷川のことを美化し、切望し続けていたのだから。
欲しかった欲しかった長谷川が欲しかった。
これまでにない程あたしは焦らされ、こんなに近くにいる長谷川を早く取り込んでしまいたいと思った。
長谷川がゆっくり脱いだ。あたしは長谷川の身体を見たことがなかった。
しかし凝視するのも下品だと考えたのであたしは気にしないようなふりをして壁の方を見た。
やがて長谷川がゆっくり布団の中に入ってきて、あたしを後ろから抱きしめる。もう、下に何もない皮膚の感触のみがあたしの背中から大腿まで続いている。あたしは喜びと期待と、これまでの欲情が肺が拡張されそのせいで心臓が圧迫され脈は乱れ頭がくらくらしてくる感覚に陥った。腰椎のあたりから湿った熱を発し続ける感覚がある。
あたしはもう待てなかった。
自分から腰を押し付け、長谷川に懇願した。
長谷川のそれはこれ以上になく滑らかにあたしの中に入ってきて、一つに収まるべきだったのだとあたしは深く理解した。
迫り来る快感に備え深く息を吐く。
街灯の光がカーテンから少し漏れるだけの暗い部屋で目を合わせると、長谷川は唇を耳に近づけ「もう、あの男と会うなよ」と言った。
長谷川は知っていた。
あたしは背中一面にぶわっと不快な汗をかき、長谷川を恐れた。長谷川がどこまで何を知っているのか解らなかった。
本当に、やっとあたしは長谷川をこの身体に収めることが出来たというのに、あたしは初めて長谷川を失うのではないかという不安と恐怖に支配され、長谷川の様子を窺い続けた。
長谷川はそんなあたしの動揺を完全に見抜いていた。放心したあたしの右肩を強く噛みつきあたしを強く揺らした。
肩の靭帯からはミリミリと不快な感触が伝わる。
静かに激しく怒る感情は結合部から流れ込んでくるのが見えるようだった。
あたしは余計なことを何一つ悟られない様に、ぎこちなく喘いだ。没頭してしまったら、あたしはきっと本音を言ってしまうだろう。ごめんなさいと事実を認め叫んでしまう。気持ちよくなんかなかった。長谷川は一人快感の中にいた。
普段穏やかな長谷川と打って変わって、とても狂暴にあたしを扱った。
あたしが少しでもタイミングを外せば、髪の毛を引っ張ってあたしの体位を変えた。
臀部ではなく、あたしの頬を打ち、あたしの口の中に拳を入れあたしを服従させた。
長谷川はあたしを痛めつける様に性交した。長谷川は果てても乱雑にあたしの口を使い、甦っては何度も何度も性交した。もう既にあたしは乾ききっていて、裂けてひりついた痛みが数回あった。いけよ、いかせてやればお前は満足するんだろ。あたしはいけるはずがなかったが、執拗な性交に体力も尽き、ついに絶頂に達したふりをした。世の中のすべての行為の中で最も滑稽でみじめな自分に失望し、もう本当に情けなくてあたしは笑いそうになった。そんなあたしに長谷川は怒り狂い性的な遊びの手段の一つとしてではなく、罰としてあたしを強く拳で殴った。
そして一通り満足するとごみを見るような目であたしを一瞥し背を向けて寝始めた。
朝はもうすぐそこまで来ていたが、あたしは時間が無事に過ぎることを祈った。
長谷川の豹変ぶりはあたしの愚行のせいなのだろうか。それとも、性交ができるようになったことで何か男としての本能のようなものが目覚めてしまったのだろうか。
あたしはこれについていけない。そもそも、長谷川はあたしに好意を持っているのだろうか。わからない。口を切ったのだろう。舌で口内を探るとに傷の感触がある。
あたしは恐ろしかった。早く逃げなくては。でも、刺激せずに上手に離れたい。
長谷川のことを全て嫌いになったわけでは決してなかった。
時間になっても長谷川は起きなかった。
寝たのが遅かったから仕方ない、と思いつつ、あたしは疲労の取れないままで仕事に向かった。避妊具のパッケージは何個か散っていて、歪なシルバーのそれは、小さな悪魔の足跡のようだと思った。
あたしはふらふらとそれを避け部屋を出る。
これが続くようなことがあれば、仕事に支障をきたすことになるだろうが、長谷川だって久しぶりの性交で盛り上がっただけだろう。そのうちに落ち着くはずだ。
あたしは楽観的に考えていた。長谷川を信じていたし。
しかし長谷川はさらにのめりこむようになり、あたしが仕事でいない間にだらだらと寝るようになった。
模試を受けても成績は当然芳しくなく、苛立ちをますます性交にぶつけるようになった。
あたしはそれが当然の報いのような気もしてきた。
これを受け止めるしかないと、疲れたあたしはこの不当な扱いに抗うことを考えられなくなっていた。
そんな日々が2週間も続いたある日だった。
オーナーに顔色が悪いと指摘され、こんなんじゃここに置いておけない。注意力も散漫で仕事が適当になっている、と言われた。この日あたしは客用のカップを落として割ったのだ。それは美しい模様で、あたしも気に入っていた。物が壊れるのは、そうなるものだと判っていても悲しい。
確かに、あたしは最近常に頭がずっとボーっとしていて、酷い時には腕や足に長谷川に打たれた跡があった。
気持ち悪いわ、あんた絶対おかしい。オーナーは歯に衣着せぬ言い方、というより過剰なまでに真っ直ぐな言い方をした。
確かにおかしい。
あたしは久しぶりに、曇った意識の中、マツオの部屋に向かった。眠れなくなることはたまにあった。一度なると数か月は定期的に寝れなくなる日が続く。だから馴れていたのだと思っていたけど、今回は原因が他人からの物理的刺激によるものなのは明白だったから、あたしは少し堪えられなくなっていた。
また車に轢かれたことにしようかな、というかこの際もう本当に轢かれてもいい。帰りたくない。
戸を叩くとマツオは驚いた顔をしてあたしを迎え入れた。
そして顔艶をみて、不健康なのをすぐに見抜きあたしを休ませた。
快適すぎる空気にあたしは深く安堵してベッドの上で意識はすとんと抜け落ちた。
はっと目を覚ますと八時を過ぎたところだった。何か怖い夢を見たせいであたしは寝過ごすことなく起きられた。寝ぼけて一瞬どこか判りかねあたしはひっそり辺りを見回す。
マツオが壁に向かって立っていた。
少し頭を動かしていて、あたしは何をしているのだろう、と上体を起こした。
マツオの前にはあたしの経血で描かれたあの絵が貼られていた。しばらく鈍い意識を脳内に漂わせ、状況の異常さを把握するとあたしは恐れからひっと声を漏らした。
マツオはぐるりと首を回転させるように振り向いた。
その眼はこの前よりも剥き出していて、あたしは夢の続きを見てしまっているのかと混乱した。マツオは自分の性器を弄びながら近寄ってくる。その絵のあたしの性器の部分の色はこの前より薄くなっていた。マツオの口唇が少し赤くなっていたのを見てあたしは胃の奥から恐怖が湧き上がり震えた。どうしたの?あたしが歯をカチカチ言わせるのを見てマツオは優しくあたしの身体に触れて抱きしめようとする。あたしは恐ろしさから後ずさる。数十センチで壁にぶつかるのを知っているのに。
マツオに抱きしめられる。
どうしたの?
ズボンから性器だけ出して間抜けなマツオはあたしの頭を撫でたり髪にキスしたりする。
そして長谷川の作った腕の傷を見つけるとかわいそうに、と深く同情したような顔をして見せる。しかし、宇宙人のマツオだ。あたしのこの瞬間の恐怖はマツオのせいなのに。
マツオはあたしを落ち着かせるようにいつもの方法で抱こうとし始めた。あたしは恐怖で体が固まり動けない。落ち着け、あたしは、マツオに抱かれるわけにはいかない。
帰らなきゃ。しかしマツオは優しくあたしを撫で、あたしの気持ちをよくする。
あたしは恐れからの逃避として目を瞑る。強く瞑ると無秩序にくらくらと小さな宇宙が目に広がる。マツオはここから来たのだ、小さなくるくるの宇宙。あたしはすぐ近くに見える星雲に没頭する。恐怖という感情は報われないから嫌いだ。あたしは星の集まりと快感に意識を集中させる。
マツオはあたしに放出した。あたしの暗い体内に、流星群のようにマツオの体液は走ったのだろう。その星のどれかにマツオは還るのかもしれない。
マツオの太ももにびっしりと鳥肌が立ち、あたしは行為の終了を確認した。マツオは何かを呟いた。それは以前の婚約者の母国の言葉に似ていてあたしは驚いてマツオを見ると、遠くを見て何か違うものに向かって尚も呟いていた。マツオは何を考えているんだろう。マツオの虚無な言葉はどこか違う次元の場所へと飛ばされた電波のようだった。マツオは丁寧にあたしに服を着せて、礼儀正しい紳士のようにあたしを励ました。
しかし帰り際ちらりと盗み見たマツオはやはり宇宙人の眼で、あたしはもうわけがわからなくなった。
マツオは、長谷川さんに何かされたら逃げてきてもいいからね、と言った。
あたしはうん、と言って帰った。
帰ると長谷川は遅い、何していたんだ、とあたしを殴りつけてから抱いた。
もう、ベッドの上の戯れではなく、どこにでもある家庭内暴力となんら変わらなくなっていた。
どうしてこうなったのだろう。
今度は男の匂いがすると言わなかった。あたしの血の染み込んだ舌で愛撫されたからだろうか。それとも自分からも同じ匂いがするから麻痺したのだろうか。
しかしあたしのことを長谷川はむちゃくちゃにするが、避妊具は必ず毎回つけていた。
その几帳面さを残している長谷川にあたしは感心していた。
あたしは家にいるときはどこにいてもいつ性交が始まってもおかしくない状況に置かれていた。長谷川はマツオよりも大きな性器をしていたが、あたしのことを緩いと言っていた。
不思議なことに、マツオはきついと言って満足する。
あたしの身体は宇宙人の方を受け入れるのか。それとも、もうこの地球上では説明のつかない体内の変化があるのだろうか。マツオのものは実は肉眼では長谷川より小さく見えるが、実は別次元で拡張し大きな体積を持っている、だとか。ああ、くだらない。変なことを考えてふっと鼻で笑ってしまった。
久しぶりにこの家で笑った、と思ったら長谷川は目が覚めたような顔をして、あたしにキスをしてきた。以前のような優しい長谷川のキスだった。あたしは嬉しくなって、もう一度、今度は長谷川の頭を自分の手で引き寄せてキスをした。思い出して、長谷川。
あたし、長谷川の頭を引き寄せる自分の指も好きなの。
しかし長谷川はまたあたしを押し倒し、性交を始める。しかも、乱暴に。
挿入さえなければ。それであたしたちの性交は完全であったはずだった。
それはあたしの独りよがりでは決してなかったはずだ。長谷川の挿入がなかったことであたしたちのバランスは取れていたのは長谷川だって判っていたはずだ。実際、この状況は長谷川だって望んでいないはずだ。どうにかしなければ。
あたしはまた長谷川の情欲が収まるまで耐え、その後2時間は穏やかに眠った。
翌日オーナーは開口一番、いい加減にしなさい、とヒステリックに叫んだ。
いやなのよ、あんたちゃんと寝ているの?顔色の悪い子なんていらないって言っているでしょ。
もうほんと、いい加減に長谷川と別れなさいよ。あんたね、それDVよ。
二十分も怒鳴りつけると、オーナーは仕事に入った。
彼女はあれであたしを心配してくれているのだった。彼女に合うスタッフをなかなか見つけられないようだったから重宝してくれているのだ。
あたしはオーナーに簡単にこれまでの事情を話し、これからの方向性について相談し、とりあえずのアパートを借りることにした。オーナーは自分の知り合いの不動産屋を紹介してくれ、あたしは安くてそこそこ立地のいい部屋に住むことにした。
オーナーはもう長谷川の家に帰るな、と言った。プライベートに口出ししたくはないけど、あたしのスタッフが長谷川と揉めたとかでなんかあったら嫌だし。警察沙汰は嫌なのよ、警察って男臭くて大っ嫌いなの、字を見るだけで鳥肌立っちゃうのよ。三日後には入居できるようにしてくれるから、それまではお店で寝なさい。ベッドだってあるし、トイレだってある。
お風呂だけは銭湯に行きなさい。汚い子はいらないから。
あたしはその後オーナーと下着や少しの服を買って、オーナーの恋人と3人でご飯を食べ、別れ際に携帯を渡された。
社用携帯だけど、ほとんど店にいるから必要なくて。プライベートは明日にでも解約しなさいね。もう関わらない方がいいから。
あたしを店に置いて二人は帰った。あたしは銭湯に行き、店の少し狭いエステ用のベッドで寝た。何の夢も見ない程、あたしは朝まで寝続けた。
それからは順調に事が進んだ。
部屋は狭いが、店から徒歩で十分程度のところだった。
オーナーは突然シフトを変えてきたりしてその度無理やり呼び立てられたりしたが、あたしはあまり外出もしていなかったし、大概の場合対応した。
長谷川の事は毎日思い出した。
しかし、あたしがいない方がきっと勉強にも集中できるから都合がいいはずだと思うようにした。それは身勝手な言い訳かもしれないということをあたしは十分に理解してはいたが、そうすることしか出来なかった。
少なくとも長谷川の家族はあたしのことを疎ましく思っていたから、この状況を喜んでいるだろう。
引っ越しの事もありマツオとは会っていなかった。
連絡先が変わったからこちらから連絡しなければもうマツオとも接点がない。
あたしはこれで良かったと思った。あたしはとりあえず自分を立て直すことを始めなくてはならないと思っていた。
そして長谷川があたしを探したりしなければいい、と、常に思っていた。
良くないことが起こるのは想像が出来たから。
部屋を自分好みに作り上げ、仕事をしながら平凡に暮らし始めたところだった。それはとても快適で、誰かに寄り掛からなくても生きていけるという自分にあたしは満足していた。
ふと生理が来ていないことに気付いた。あたしは生理が来ないことなんてなかった。
しかし、二ヶ月来ていない。絶対にマツオの子だ。
検査薬をしてみたら案の定陽性だった。陳腐な小説のような現実に笑えた。うぅ、って吐き気で妊娠に気付く方がもっと陳腐だったかな、とまず思った自分は結構余裕がある人間かもしれない。実際、子供は欲しかった。結婚はしなくても、自分一人で何とかできると思っている。中絶するという選択肢はなかった。
あたしはオーナーに言った。オーナーは複雑そうな顔をした。
父親は長谷川?と訊かれ、違うと思います、と答えると発情期の猫のような絶叫をし、もうなんなのよあんた。次から次へと、いい加減にしてよ。あたしは堕ろせとも産めとも言えないわ。どうすんのよ。と捲し立てた。
産みたいんです、あたしが言うと、じゃあ出産ぎりぎりまで働いて、産んだらすぐに働ける?とオーナーは訊いた。
はい、とあたしが答えると馬鹿な子、と言って舌打ちを残し、いなくなってしまった。
我ながらなんと場当たり的で無責任な返答をしてしまったのだろうと後悔した。身体が大丈夫であるかわからないのに。しかも子供を預ける当てがあるわけでもないのに。
その日あたしは久々にマツオの家に行った。
マツオは、久しぶりだね、と言って部屋に招き入れた。何も変わっていない部屋。あたしの存在の有無は、この部屋に何の影響も及ぼさない。それは、マツオにとってもあたしがいてもいなくてもいい人間であることの何よりもの証拠であった。
一点変化を遂げたのは脚の絵だけで、もうほとんど白くなって脚も膝下が少ししか残っていなかった。
それを見た途端、あの日の光景が甦り、マツオは宇宙人だったことを思い出した。
あれ、今日あたり生理じゃないっけ?マツオは訊いた。失敗したのに気付かなかったのだ。
妊娠したみたいだよ、あたしはいつもの会話の一部であるかのように言った。今日言うつもりもなかったが、別に隠すつもりもなかった。
マツオも流石に動揺したようで大きな目をさらに開いて、マジで、と言いながら妙な翳りが顔を覆った。少し笑ったような、泣いたような複雑な顔をしてこちらを見た。いっそ、見慣れた宇宙人の顔の方がよっぽど免疫ができていた。困惑、という複雑な人間の顔。
あたしは検査薬の事、自分で産もうと思っていること、マツオがいつか結婚した時に子がいることが問題になったりしないか、ということについて話した。マツオはうーん、というだけで大した返答はなく、あたしはお腹が減ったので、またね、と部屋を後にした。マツオは、次はいつ来るのかと訊いたが、今度はあたしがうーんと言った。誰かと会う予定を決めるのは妊娠して明日の体調も分からない今のあたしにとってとてつもなく大きなストレスだった。
あたしはマツオに何も期待していなかった。こんなことで結婚してほしいだなんて言わないし、金だってくれだなんて言わない。自由はそんなつまらないことよりももっとも尊い。
ただ、自分の子供にとってどれが一番の選択肢であるかはわからなかった。
あたしの想像力はなんて乏しいのだろう、と思いながら、しかし、自分の育った家庭環境を考えると、必ずしも両親がいればよいというものでは断固ないと言い切れる結論に達したので、あたしは少し安心した。
子供の名前はどうしよう、とかそんなことを考えていた。そうそう、あたしは魚が嫌いだけど、子供が賢くなるっていうし今日は青魚を食べようかな。この子は大きくなったら何になりたいというのだろう。
あたしは魚が嫌いだけど、好きだったら、違う人生はあったのかな。
ふとそう考えたが、あたしは思わず鼻で笑った。
きっとあたしは魚を食べたって何も変わらず、だらしなく生きて死にたがっていただろう。
ふらふら歩いた。ああ、あたし幸せだ。
夢のように幻想的に、夕方の町に晩御飯の香りが立ち込め、あたしは感情に従い素直に笑った。
子供だって幸せにしてみせる。父は怒るだろうが、孫を可愛がるだろう。本当に嬉しくなってにやにや笑ったままで歩いた。そして、幸せな妄想から醒めると目の前に異様な視線を送る長谷川に気付いた。
少しこけた頬のせいで悲壮感が漂っていた。髭も斑に生え、前より老けて見えたがそれは長谷川の年相応のものであった。
あたしは立ち止った。長谷川も立ち止ってこちらを見ている。あたしの顔は固まったままだ。だから恐ろしく無様なままにやにやした顔を貼り付けていた。
長谷川はゆっくりこちらに向かっている。あたしは自分の腹部から熱をかっと感じ、我に返った。それは恐れからか、母性本能からか判らない。
長谷川は、心配したよ、と擦れた声で言った。ああ、あたしの好きだった上品な唇が滑らかに動いている。あたしは鎖骨周辺から少し疼く身体を自覚する。愚かだ、弱くて恥ずかしい人間だ、あたしは。
2メートルまで近付いた長谷川に、妊娠したんだ、産むつもりなのと言ってみた。
長谷川ははっと目を開き、信じられない、というような顔をした。
その瞬間、顔に喜びが拡がる。それを見届けてしまって、あたしは否定するタイミングを逸してしまっていたと絶望と後悔をした。
長谷川は完全に動揺しきったあたしを上手くエスコートし、結局あの離れに来てしまっていた。
玄関に入った瞬間、長谷川は優しくあたしを抱きしめあたしは久々の懐かしい長谷川の家の香りにくらくらした。あたしはこの香りが好きだった。あたしは長谷川が好きだった。しかしもう戻れない。キスをあたしは露骨にならない様に少しの笑顔で上手く拒んだ。これは長谷川の逆鱗に触れないための、最良の対応だった。
あたしは長谷川に言わなくてはいけない。これはあなたの子供ではないと。
でも言ったらどうなるだろう。あたし一人が暴力を受けるのとはわけが違うのだ。
長谷川はやけにきりっとした顔をして、一定の恭しさを纏わせている。さっきからずっと。
しかし言わなくては。あたしは長谷川を騙したくはない。もうお互いのために決別するべきなのだ。
長谷川、聞いて。
長谷川はゆっくり振り向いて目の前に座った。その顔には健康的な微笑がへばりつき、太陽のような笑顔の名残が垣間見えた。大好きだったその笑顔がまた見られるようになって、あの優しい長谷川に戻るのなら、この子を長谷川の子だと言い張ってみようか。いや、そんなこと上手くいくはずない。長谷川はすっかり非現実的なことを期待してあたしが言うことなんて夢にも思っていないだろう。
あたしは逃げ道を考察した。
あたしの方が出口に近い。判断さえ誤らなければ、あたしは逃げ切れる。外へさえ出ればどうにかなる。鍵はかけていないはずだし、靴は履きなれたヒールの低いパンプスだ。最悪、裸足で逃げるしかない。いける。ただ、あたしと長谷川の距離は近すぎる。手を伸ばされたらすぐに捕まる。
どうした?と言う声で我に返った。あたしは自分のとるべき行動を完全に忘れ頭が真っ白になった。
タイミングを計りかね、あたしはこれ以上この空間に居たくなくて、気が付くと、この子、長谷川の子じゃないの!少しやけくそになって叫ぶように言っていた。
あたしは猫のように飛び出した。
長谷川は一瞬にして憤怒の形相を浮かべたが、あたしはそれを尻目に玄関に体当たりして靴を持って出た。中学では陸上の短距離をしていたものだから、瞬発力はあると思っていたが、脚は自分の思うように進まず脚は何度も縺れた。
しかし門まで走り振り返ると、長谷川は玄関にいたが、追ってくることはなかった。
もうやめよう、と擦れるような声で後退りながら言った。ごめん、あたしが悪かったから、と言いながら、乳酸のせいか既に痛み出した脚を必死に動かし帰った。
身体を屈めて脱げかけた靴をきちんと履き、あたしは長谷川が大好きだった、と声を出して呟いた。
どこから間違っていたんだろう。
ヒールのゴムが割れ、カチっとアスファルトに不快な音を立てる。
手術さえしなければ。あたしは、包茎の長谷川と今も歪な協調をもって付き合い続けていたのだろうか。
あたしは素直で真面目な長谷川と、隔たりをずっと抱えたまま、労わり合って生きていけばよかったのだ。
そもそも他人同士の二つの人間がぴったりと寄り添う事なんて物理的に不可能であたりまえだと言うのに。
そしてマツオと快感に溺れて生きていくべきだったのだ。
ざらざらの思考をかき集めて何とか一つにまとめると前より頭が重くなり頸が軋むようだった。
一人で帰り、ベッドが熱くなるまで眠れなかったからマツオの家に行った。
マツオはあたしを抱き寄せ、母親のような顔をして堕ろしなよ、と優しく言った。
人育てるって大変だよ。病院紹介するよ。何も心配しないでいいから。手続きもこっちでするし、その後しばらく仕事休んでさ旅行とか行こうよ。好きなとこ連れてってあげるから。あたしの髪の毛に風を当てるように息を多めに吐き出して声を漏らすように喋る。それは前儀のようであたしはマツオの意図がどこにあるのか探ろうとした。
何それ、一緒に行くの?
イヤなら一人でいけばいいけど、死にたくなったりしない?
知らないよ妊娠したことないもの。でも、産みたいの。
マツオはほんの数秒、声を出すのを決心するように黙った。
じゃあ結婚でもするか。
マツオはまたしても電波を飛ばすように言葉を発す。意思のない言葉。空気中を浮遊する。
マツオはきっと、交信しているんだ。何万光年も離れた星の誰かに。あたしには届いていない。
あたしは視線を落とした。それはあり得ない。この人のことをあたしは何にも知らない。
返事をしないでいるとあたしが否定したと取ったのか、なら今後の子供の金は出すよと言った。
こう見えて、君のことは人として好きだし、こんなことで終わりは嫌だ、と。
こういう人と出会えたのはそれなりに幸せだと思っていた。関係継続のためそれがあたしたち二人の妥協点だった。
合意のサインを交わすようにあたしはマツオと目が合って、キスをした。
マツオがあたしを持ち上げてベッドの上に載せて、いつものように身体を舐め始めた。
あたしはこれが好きだった。
もっと気持ちよくして。もっと、もっと。
あたしはマツオの顔を引き寄せる。
ああ、あたしの指は相変わらず細くて、マツオの顔を引き寄せる自分の指に深く興奮する。
あたしはマツオの舌を舐め回し、甘い唇をいつものように楽しむ。
いつものように乾くあたしとなかなか硬度を得ないマツオの世界で一番愛しい時間。十分にもたついて性器が入ってきて、あたしたちはまたキスをしながら、何度も接する。まだ妊娠が判明したくらいで、性行為の感触だって何一つ変化がない。しかしもう二人の間に以前とは違う結果の存在が出来たことで、あたしたちの完全に快を求めるだけの性行為に慈しみのような感情が生まれたことは事実だった。少なくともマツオはあたしの中にいる生き物に何かを想っている。
マツオらしくもない、あたしの指の間に指を滑らせて手を握る。指と指しか絡ませられないもどかしさがあたしたちの隙間にもやもやと発生し、それはあたしの身体を侵略した。
あたしは不意にマツオの頸につないでいない方の手をかけ下から首を絞め上げた。マツオは絡めた指を荒く振り払って首を絞めているあたしの手をつかもうとしたが上手くいかなかった。
ぎりぎりと音を立て皮膚を滑るあたしの指はこれまでのどの瞬間よりも野性的で美しかった。頭の後ろに閃光が走ったようにふっと興奮が瞬き、この美しい指がもっと朱く熱を帯びて輝くのを観たいと懇願する本能に逆らう事はできなかった。この指にマツオの命を捧げたい、と考えたし、そうなるべきだとも思った。
マツオはあたしから離れようと仰け反るがあたしはそれを許さないように大腿でマツオの腰をしっかり挟む。マツオは抵抗のために立てていた腕を浮かすとバランスを崩し益々首にかかる圧が増した。
マツオは今更のように両手をばたつかせたが、あたしは少し弱ったマツオを転がし馬乗りになって尚も首を絞め続けた。あたしの意思は熱をもって内臓を爛れさせ、あたしをも苦しめた。指は次第にしびれてきた。
そしてマツオが気を失うまで首を絞めて、この行為の難しさを知る。しん、という無音の音を聞いて、もう何の音も発さないマツオにあたしは上手にできなくてごめんと思った。
あたしは少し滑稽に覗く舌の先端を噛み切り飴のように味わおうとしたが態勢を替えたときに舌を嚙んだのか、大量に溢れる血の味がどうにも不快で諦めた。
突然の重労働で途方もない疲労を被ったとぼやきながらあたしは部屋を出る。腹の我が子は大丈夫なのか。
一階のエントランスのガラスに反射したあたしの眼は飛び出していて、唇にはマツオの血が、女児が母親の口紅で悪戯した時のように滲んでいる。舌で舐めるとあたしはなぜか安心して一呼吸置くことができた。腹部にじんわり熱を感じる。ここにも宇宙人がいる。別に恐れることはない。あたしは当然の事実を認めた。
夜道なのに、やたら視界が鮮明に見える。光はより強く鮮明に目に飛び込んでくる。その光刺激は視神経を稲妻のように走り脳内に星を作る。脳から光が漏れ出て頭のてっぺんから真上に光を放つ。晴れやかで明るい。こんな何でもない夜にあたしは少し興奮しているのかもしれない。
先程から足はどことなく軽い。少し浮いているのかもしれない。
マツオがいなくなった分も身軽になってしまったみたいだ。
さて、子供の名前を考えよう。
あたしの肌に似て少し浅黒い子供になるのだろうか。
魚嫌いになるのだろうか。
癖毛に悩まされたりするのだろうか。
この子が宇宙人なのはわかって居r。
眼は剥き出していて、いつか誰かの血を舐めたりするだろう。
いずれ首を吊ったり、誰かの絞めたりするようになるかもしれないが、あたしはそれを納得して見届けるだろう。
読んでくださった方ありがとうございました。
あなたの健康と幸せをお祈りします。
心からの感謝を。