幕間3<続>
無心で屋上へ駆けた。
天から与えられた責務をこなすかのように、階段を駆け上がった。
少し無理をしすぎたせいか、両足は悲鳴を上げている。
───あぁ。痛い。
でも、本当に痛むのは、足なんかじゃないと悟っている。今にも叫び出したいのは、この心なのだと。
下唇を噛み、余計な思考を遮る。
1歩。
また1歩と、ゆっくり前へと歩く。
そこまでの距離は本当にすぐ近くで、本来であれば一瞬の内に移動できてしまうのに、私にとってはこれが永遠のように感じる。
───その足取りが重い。
まるで、近づく度に、それが遠のいていっている気がする。
罪悪感という大きな足枷が、足に纏わりついてしまっていて離れようとしない。
直りかけの足で、拙い足取りで、目的地へと歩む。
───そして。
屋上の端へとたどり着く。
そこは、唯一手すりのない所で、1歩でも踏み外せば真下へ真っ逆さまだ。
それが、───私の目的地。いや、正確にはまだ目的は果たしていない。この先にあるのだ。
なんていい景色なんだろう。
20年生きてきて尚、これ程に心地の良い快晴には出会ったことがない。
陽の光が眩しくて、思わず目を細める。
此処からの俯瞰風景は、私を仇のように見上げる。
───不思議だ。
今日の気温はとても寒い。
それも、今冬最低気温とまで謳われた程だ。
それだと言うのに。
目の当たりにしたその陽の光が、私の全身を包み込んでいて暖かい。
私はなんて優雅なのだろう。
陽向で寝転がる猫のような。
砂浜で日光浴をする好青年のような。
そんな情景を今の自分と重ねる。
少しだけ嬉しいかもしれない。
───こうやって、最後に優雅な過ごし方をするのだから。
この人生に幕を下ろすのに必要な前提条件は、既に出揃っていた。
もう、本当にこれで終わりにしよう。
────今。命という小さな箱に蓋を被せるのだ。
自らの手で、終わらせるのだ。
……。
………。
──────。
(どうしてだ。どうしてなんだ…)
たった1歩、前へその足を踏み出せば終わるというのに。
そのひとつの行動を取るだけで、事は完結するというのに。
だと言うのに。
────その1歩が踏み出せない。
どうしてか、その足は動こうとしない。
覚悟なら、できていたはずなのだ。
今日、目が覚めた時に。
覚めて直ぐに、彼の事を考えた時に。
その覚悟なんて、とっくのとうにできていたはずなのだ。
───あぁ。
今、彼は何をしているのだろうか。
確か、クリスマスパーティだとか、言っていたな。
けれど彼は優しいから、夜にはきっと此処に来てしまう。
───でもごめんね。
その時に私はもう居ない。
溢れ出る罪悪感をぎゅっと抑える。
簡単な事。少し踏み出せばいいだけ。
───どうしてか動かない。
(───なんでなんだ)
……自分で決めたこと。
それすらも私は、
本当は予想っている。
どうして、この足が進まないのか。
自分は、本当はどうしたいのか。
分かっているはずなんだ。
───けれど、決めた事だからと。今更そんな事を思ってしまうのは、認めてしまうのは、逃げた事になるんじゃないのかと。
きっとそんな思考が私を遮っている。
私は、弱い。
─────弱すぎる。
自分で生きるのが辛くて、自分で選択したのに。
自らで用意した断頭台ですら、無駄になってしまう。
だって、
私は、こんなにも。
(───死に、たくない……)
生きる事を諦めた、今死に絶えようとしているこの躰は、この心は、今も尚生きようと足掻いているのだ。
生きたいのだと、内なる感情がそう叫んでやまない。
耳を防ぎたくなる程、五月蝿いその心の叫びが、私へと語りかける。
もう遅いんだ。
今そんな事に気づいたってもう遅い。
だって決めた事だから。
もう戻れないのだから。
「────」
─────もし。
ほんの少しだけ、最後に願いが叶うのだとしたら、
───彼に会いたい。
決して叶う事の無い理想を抱いた。
吐く息が白くなる程凍えたこの屋上で、暖かい幻想を抱いた。
───有り得もしない理想。
───何度も描いたその風景。
いて欲しいだなんて、淡い期待はしなかった。
それでも、
────それでもね、
ほんのちょっとは────
───振り向かずには居られなかった。