幕間3
耐え難い光が差し込んで来て、
堪らずに瞼を開いた。
いつも通りの天井。
なんの面白みも無い、同じ景色。
それでもどこか今日は新鮮で、私にとっては少しだけ切なかった。
(そっか、今日。クリスマスか)
カーテンがゆらゆらと揺れている。
開け放たれた窓から肌寒い風が流れている。
無遠慮な色彩に、知らず目を細めてしまう。
今日は一段と寒い。
恐らく、窓が開いているのはあの看護師の仕業だろう。
こちとら寒がりだってのに。と。
毎朝の事ながら、少しだけ苛立つ。
ベッドに腰かけたまま、窓を眺む。
雲ひとつ無いその青空は、まるで私の今の心を表しているようだ。
とは言ったものの、晴れている訳では到底無い。
実際の所は─────何も無いのだ。
絶望も希望も無く、ただ一心に、自らの形を保っている。
その光景を見て、人知れず胸を痛める。
その快晴の真下で季節外れな新緑は密かに生い茂っている。
空気中にある栄養源である二酸化炭素を吸って活きている。
どうしてか、
意味もなくただ漠然とそれを見つめる。
本当に無意味。それで何かが得られるかと言われれば、答えは勿論否定になる。だと言うのに。目が離せない。
───他から見れば気が遠くなる程の虚無。
言われようもない空虚な時を過ごしていると、つい時間を忘れてしまう。
……と。
いきなり病室の扉は開き、女は入ってくる。
その女が誰かは知っている。
私の担当の看護師だった。
本当、私の為によくやってくれていると思う。
看護師は軽く頭を下げると、私のテーブルの上に、ぽん、と朝食を置いた。
───そういえば、もうとっくに朝食の時間は過ぎていた。
今日は私の起きる時間が遅かった故か、看護師は少しだけ不機嫌そうだった。
朝食を届けに来てくれた看護師に感謝を伝えるべく、手を振り、できるだけ愛想の良い笑顔を浮かべた。
特段する事もないので、大人しく朝食を口に運ぶ。
味噌汁をのんだ。
その瞬間に身体中が暖まるのを感じる。
丁度いい塩加減が、私の喉元を満足させる。
ーー
食事を済ますと、直ぐに歯を磨いた。
昔からそうだった。
何かを口にした直後は、歯を磨かないと落ち着かないのだ。
無意識に、テレビの電源を入れる。
それは、1人の男が、ショッピングモールを歩くという番組だった。
各店へ入ってはリアクションを取り、その繰り返し。
テレビを自分からつけて起きながら、自分が嫌になる。こうなるのだと半ば理解っていながら、それを行った。
テレビの中の男は、明らかに何かを喋っている。
───きっとそれは誰にでも分かることで、当然のように人はその言葉を聞き捉えるのだろう。事実、私とてついこの前まではそうだったのだ。一般人と何ら変わりない"人間"だったのだ。
───不快感が募る。
魚のように口をパクパクしているその姿は、私以外には別のもののように見えている。
だからと言って、
私は何も聞こえないから。そうやって諦めてしまうのも癪にさわる。
だが、一つだけ助かるという点はある。
字幕さえついていてくれれば、私も理解出来る。
これがテレビの有難い所なのだろう。
───皮肉なものだ。
大きなモノを失ってやっと気づいたのだ。
その機能の有り難さ。便利さを痛感して理解した。
ーー
時刻は9時を廻った。
朝方よりも暖かくなった気はするが、やはり気の迷い。
少しだけ躰を震わす。
…と、
ガラガラ、と病室のドアは開く。
そうして、男はズカズカと入ってくる。
若い、と言っても、恐らくは30代前半の男。
毎週水曜日に来て、私に手話を教えている男だ。
私は社交辞令でその男に手を振ると、
《こんにちは》
手話で会話を仕掛けてくるときたもんだ。
まるで、頑なに日本語を喋りたがらない英語教師を連想させる勢いで、その男は手話を続ける。
《今日の体調はどう?》
ふぅ。とため息をついて、私も簡単な手話で会話をしようと思う。
《良いです》
多少塩対応にもなってしまうのかもしれないが、私とて完全に手話を網羅している訳でもない。
こういうのはニュアンスが伝われば良いのだ。
《そっか、良かった》
男は続ける。
《それじゃあ、授業を始めていくね》
《お願いします》
授業が始まる。
《そういえば、今日はクリスマスだね。メリークリスマス》
《はい、メリークリスマス》
…と、反射的に彼の手を投影する。
ふむ。
クリスマスか。
クリスマスは、私にとっても感慨深い。
一瞬の内に、昨年の想い出を呼び覚ます。
本当、蘇らそうとすると、その想い出は直ぐに浮かんでくる。
ーー
───彼は覚えているだろうか。
高校3年生の寒い冬────そう、クリスマスの日。
私は彼と共に東京スカイツリーを訪れた。
彼に誘われて、私も満更でもなくついて行った。
私自身、スカイツリーは未知の場所だった。
それこそ、テレビでぐらいしか見た事がないようなモノ。
それはどれだけ高い建物で、どんな迫力があるのだろう。
───様々な疑問が思い至った。
液晶や雑誌で見た事のあるそれは、果たして本当の事なのだろうか。
ワクワクもありつつも、少しだけ不安だった。
高い所は苦手なのだ。
でもそんな私を、彼は優しくなだめてくれた。
一つだけ年下の男の子に頭を撫でられた。
その時私は、”もー、やめてよ”。だなんて言って冗談っぽくそれを否定した。だが本当は嬉しかった。
とっくのとうに彼に惚れていた私にとって、彼のその行動は堪らなく嬉しかったのだ。
その後は、湧き上がってくる高揚感を何とか抑えつつ、エレベーターに乗っていた。
頂上へつくと、私は思わず言葉を失った。
それは自分が思っていたよりもずっと高くて、ずっと怖かったのだ。
けれど。
それは同時に、──────素晴らしい景色だった。
何処を見ても美しい、綺麗だとしか言い表せなかった。
自分でも信じられないくらいに、感動していた。
今までに感じた事の無い心のざわめき。
でも私は、
そんな景色よりも素敵なものを見てしまった。
曇りひとつない眼光で、闇夜の輝きを見定めていて、
緩やかなカーブで微笑んでいる唇を見つめ、唾をのみこんだ。
私が見つけた、素敵な情景は───
それを見ているだけで、あっという間に時は過ぎた。
まるで自分だけが世界に置いていかれたかのようにさえ思えた。
流れゆく時間についていけない私をに、彼は言ってくれた。
───私の事が好きだと。
私は貪欲だから───
期待していた上に、何となくそう言われるのだろうと察してさえいた。だからその時私は、驚いたりはしなかった。
そんな私を、彼は狐につままれたような顔をして見ていた。
で、それがおかしくって、その場で笑いこけたのを覚えている。
彼は不安になっていた。
当たり前だ。
───意を決して、告白をしたというのに、どうしてか驚かれもせず、笑われたのだから。
そうして彼は戸惑った。
どうしていいかも分からずにあたふたしていた。
私はそんな彼の胸に飛び込んだ。
────本当、一瞬の話。彼が瞬きをしたその最中、起きた事。
私の返事に、言葉なんていらなかった。
ーー
それが、数年前のクリスマスの話。
今思い返しても、鮮明に湧き上がってくる記憶。
《とりあえず、今日はここまでだね》
授業は終わり、男は病室を出る。
不思議だ。
音なんて聞こえないのに、
一瞬にして部屋が静まったのが分かる。
人が1人いなくなるだけで、相当なのだろう。
(───よし)
私は机の引き出しから化粧道具を取り出す。
同時に手鏡を置いて、メイクをしだす。
ーー
自然な仕上がりでいて、それなりに可愛くなったと思う。
今の自分に出来る、最大限のおめかしをする。
現在時刻は10時22分。
今、1番重要な事を忘れていた。
───彼に、手紙を書かなくちゃ。
机からペンとノートを取り出す。
と、
自然な動作で、ノートから1ページ分の紙をちぎる。
ビリッ。
という、聞こえないはずの音を聞き…頭で想像し、ペンの筆先を紙に置く。
───さて。何を書いたらいいのだろうか。
こういう、手紙的なものはイマイチ経験がない。
学生の時くらい、ラブレターでも書いとくんだった…。
なんていうほのかな後悔をすると、不思議と胸が痛くなってくる。
学生の時。学生の頃…。思い出す度に、今は涙が出そうになる。
───顎に手を当て思考する。
…。
……。
───。
(これでいいか)
思いついた言葉を綴る。
(あ、こんな事なら、もう少し小さい紙でも事足りたな)
───初めは、もっと書くつもりだった。
本当、それこそ彼が読むのがだるくなり、面倒になるくらい長く。彼に対する気持ちを全部書く気でいた。
けれどそれは難しくて、
いざ手紙を目の前にすると、何も浮かばない。
浮かんできても、きたとしても。その度に、涙で紙が濡れそうになってしまう。
だからこれでいい。
一番伝えたい事が伝われば、
───それでいい。
長々と書いて、変に着飾る必要なんて無い。
シンプルでいいんだ。
ベッドら立ち上がる。
よれよれで不安定な両足で、何とか躰を支える。
───慣れた手つきで鏡を見つめる。
そこには私が写っている。
当たり前の話だけれど、ちゃんとに私。他の誰でも無く、ただ私を写している。
(───酷い顔だな、ほんと)
最後に見る自分の顔だと言うのに、なんて暗い顔をしているんだろうか。
ちゃんとおめかしして、彼の事を思って手紙を綴った直後だって言うのに。なんて顔をしているんだろう。
ーー
今日始めて降りたエントランスはいつも通りの賑わいで、和気あいあいとしていた。
そんな光景を、少しだけ羨ましいなと思いながら横切る。
『すいません、この手紙を禊君に渡してください』
さっき書いた手紙と一緒にその文字をカウンターに置いた。
それでただ、
屋上へと足を運んだ。