───12月18日───
「失礼します」
…と。
相も変わらずに優しく手を振り返す翡翠。
その顔を見て、何故だか僕は無性に安心した。
特段、何かを心配に思っていた訳じゃない。
ただ、ほんの少しだけ。嫌な夢を見ただけ。
その夢が、絶望に満ちた───地獄を投影したような現実じゃなくて良かったと胸を撫で下ろす。
『やぁ翡翠。今日はどんな事があった?』
こうして、僕らのいつも通りの筆談は始まってゆく。
『どんなって何? 特に何も無かったよ』
『入院生活は退屈じゃない?』
『まぁ、退屈って言えば退屈。言っちゃえば、ずっとここでテレビ見たりするしか無いからね。でも、リハビリをする度に、どんどん歩けるようになっていくのは嬉しいよ』
『そっか、毎日来てあげられればいいんだけど』
『ううん。いいんだよ。こうやって、3日に1回でも来てくれればそれでいいの。君の顔を見られるだけで、私は幸せだよ』
そう綴ると、彼女は不自然に口の端を吊り上げる。
彼女の、その"言葉"が、無理をして言っているという事くらい、僕にだって分かっている。分かっていても、僕には何もしてあげられない。本当、彼氏失格だと思う。
『ほらほら。そんな顔しないで、そうだ。この前言ってたさ、会社のプレゼンの話、聞かせてよ。どうなったの?』
『成功したよ。翡翠がアドバイスしてくれたおかげで、部長に褒められて、昇進が決まったよ。ありがとう』
ふふ。と微かに笑って、頬を掻く翡翠。
それを眺めて僕は、ただただ微笑み返す事しか出来なかった。
『そういえばさ。ツーオクの新曲のCDの売上、予想売上を大幅に超えたんだってね』
ツーオクとは、彼女が以前から、推していたロックバンドである。
僕と彼女が付き合ってから最初のデートが、そのバンドのライブだった為、互いに記憶に残っている。
───少しの沈黙。
何処か悲しそうな顔をした後、返事は綴られる。
『そうなんだ! やっぱり凄いなぁ』
言って、笑顔を浮かべる。
───偽物だ。
誰が見たってそう理解出来る程までに、その微笑みには裏があった。
作り笑い。贋作もいい所。
僕は知らず胸を痛めた。
ーー
もう季節も12月の終盤に差し掛かり、様々な動物は冬眠の準備へと勤しんでいる。
確か、
去年の翡翠は"ちょっと冬眠する〜!"。だなんて言って、コタツに入っていったっけ。
近い、だが遠い、
昔の記憶を脳裏に思い出し、少しだけ頬を緩める。
『手話の授業だけどさ、講師の先生とは、上手くやれている?』
やはり切なそうな顔を浮かべ、彼女は返事を綴る。
『上手くって、何? なんでそんな事聞くの?』
『講師の先生がさ、最近は翡翠が手話の授業に前向きじゃないって言ってたからさ。やっぱり難しかった?』
『ううん。違うの、確かに難しいっていうのはあるけど、もうそういうもんだって割り切った。ほんと、なんでも無いから、心配しないで』
彼女が書き綴った、その"言葉"が心にくる。
精一杯に、僕の為に作った────偽物の笑顔。
それはあんまりにも不出来で、お世辞にも笑えているとは言えなかった。
その後の言葉が口ごもる。
何を綴ったらいいのか、彼女にどういう顔を見せたら良いのかが分からなくなった。
『そろそろ、時間なんじゃない?』
「───あ」
時間に無頓着な僕は、気づかずに時を過ごしている事が多い。
もう既に19:45。
だが驚いたのは、時間だけじゃない。
彼女自身が、そう告げたのが驚きだった。
僕はそんな驚きを隠しつつ文字を綴った。
『そうだね、じゃあ、そろそろ帰るね』