───12月11日───
「こんばんは翡翠。今日も来たよ」
───語りかけたって、その声が彼女に届く事が無いと理解している。
それでも、挨拶はなるべく欠かさないようにしている。
彼女の事を特別視して、挨拶という当たり前の行動さえも差別してしまったら、それこそ、僕が彼女を否定する事になってしまうだろう。
僕を見るや否や、彼女は急いで執筆する。
『どうしたの? 寝癖、凄いことになってるよ』
「え!? 嘘!?」
翡翠からの伝言で、慌てて病室内の鏡を眺める。
と、
やはり彼女の言った通りで、あらゆる方向へ髪の毛が逆立っている。
朝イチで、それこそ朝食を食べてすぐに家を飛び出したので、自分の見目に気を使っている暇が無かった。
『今日は随分と早いね、今日はお休み?』
はにかんで笑う翡翠から、ペンを受け取り、
───其の返事を書く。
『今日の仕事は午後からなんだ。まぁ、その代わり今日は夜勤だから今しかここにいられないけどね』
いれる時は一緒にいる。
なるべく、彼女を1人にしないように心がけてはいるものの、僕とて、一般の会社員なのだ。やっぱり毎日ここに来るために早めに帰るってのも会社に迷惑がかかるし、難しいものだ。
『そっか、少しでも一緒にいてくれて、嬉しいよ』
……何故なのだろうか。
今日の翡翠は、なんだか上機嫌だ。
何かいい事でもあったのだろうか。
『翡翠、今日はいい事があったね? 何があったの?』
『なんでわかったの!?』
『何となくね、教えて欲しいな』
彼女は嬉しそうに綴り始める。
奔るペンの速度が、僕を安堵させる。
『実はね、昨日の夜、9時頃かな。病院内でライブがあってね。ミュージシャンの人が来てくれたんだよ』
『ミュージシャン? どんな人だったの?』
『凄くかっこよかったよ! ロックバンドだったんだけどね。パフォーマンスが凄く良かったの!
聞こえてなくても楽しめるくらいに良かったの!』
というのも、僕自身、学生時代はバンドをやっていた。
ギターをもって、至る所でライブをした覚えがある。
『もう1回、君のギターが聞きたかったよ』
少しだけ、悲しい表情を浮かべた翡翠。
耳が聞こえない彼女が、その願いを叶える術はない。
『ごめんね、変な空気にしちゃって』
『いや、いいんだよ』
押し黙った僕の雰囲気から察したのか、彼女は軽く謝罪の文章を見せる。
『耳が聞こえないのは、辛い?』
───酷な事を聞いた。
自分でも、間抜けな質問だと思う。
辛い?だなんて聞き方は野暮だったかもしれない。
辛くない訳が無いのだから───
翡翠は少しだけ驚いて、
『まぁ、辛くないって言ったら、嘘になる、かな。でも大丈夫だよ? 本当に。もう、慣れたからさ』
なるべく僕に心配をかけないためだろう。
大丈夫大丈夫と、いつも彼女は嘘をつく。
それでも、僕は責める気にはなれない。否だ。責めていいはずがない。
その優しい嘘を、
───優しさの嘘を僕のものさしで計ってなどいけない。
『そっか』
互いに黙りほうける。
気まづい時間を作ってしまった。
それでも、やはり聞かずにはいられなかった。
───いや。
聞かなければいけないのだ。あの時、事故の時に隣にいれなかった僕だからこそ、彼女の事を一番に知らなければいけない。
ーー
時間というものは一瞬で、
あっという間に時は来た。
『それじゃあね翡翠。もう、仕事にむかう』
『うん、がんばってね』
毎度の事ながら、彼女の笑顔を脳に刻む。