幕間1
2か月前、彼女は事故にあった。
僕が丁度、会社で仕事をしていた最中に起きたそうだ。
というのも、情けない話、僕自身、その現場に居合わせることが叶わなかった。
本当に、一瞬の出来事だったそうだ。
信号を無視した車が、彼女の元へ突っ込んできたのだという。
それで、彼女の方も、何とか避けようとした事で、轢かれる事は免れたものの、車体と勢いよくぶつかったのだという。
───いつも通りに出勤して、
───いつも通りに同僚や先輩と挨拶をして、
本当、いつも通りに仕事をしている真っ只中、オフィス内の僕に電話がかかった。相手は病院だったのだ。
”翡翠さんが、交通事故に遭いまして───”。
本当、覚えているのはそれくらいで、そこから先は何を言っていたのか思い出せない。
その1件が伝えられたその一瞬の内に、色んな事を考えた。
───交通事故。だなんて言う単語に引っ張られ、あってはいけない最悪な情景まで考えてしまった。同時、翡翠との想い出が刹那の間に蘇ってきて、それも辛かった。
そこから先の事は、あまり覚えてない。
ただ、無我夢中で走った事だけは覚えている。
───彼女が心配だ。
───彼女は大丈夫なのか。
───彼女に会いたい。
ーー
幸い、最悪の事態は免れたという。
両足の骨折と、頭部の打撲。───ちゃんと治療を行っていけば、命に別状は無いのだと言った。
僕の心は晴れなかった。
後遺症で翡翠は、
───聴覚を失った。
頭部打撲によって、聴覚に障害が生じたのだ。
翡翠に与えられた試練は、
ものが聞こえにくい───だなんて甘いものじゃなかった。あらゆる万物が奏でる音の全てが、遮断されたのだ。
医者は、こればかりはどうにもならないと告げた。
正直、───落胆だった。
その医者は東大卒らしく、凄腕の医者だと至る所で褒めちぎられていた。それ故の期待があったのだ。
でも、それでも、どうにもならないのだと。そう、語ったのだ。
勿論、その医者が悪い訳でもあるまい。彼は確かに正しい判断を下したのだ。それでも僕は、心のどこかでその判断を疑った。
否だ。────認めたくなんて無かったのだ。
彼女が、聴覚障害?
音が、何も聞こえなくなるだって…?
そんな訳無いだろう。そんな訳────そんな事、あってたまるものか。
何の罪も無い、正しく物事を判断しただけの医者を、僕は恨んだ。
───恨んだって、何も意味が無い事くらい分かっている。恨んだって、彼女の耳が直る訳でも無い事くらい、分かっているつもりだった。それでも僕は、意味もなく、恨まずにはいられなかった。
僕はきっと、───最低なんだと思う。
それでも彼女は、”大丈夫だよ、君が思っているより、ずっと平気だよ”。と言う。
僕は知っている。ソレが、僕を励ます為に作った、即席の嘘だと言う事を。
やっぱり僕は、彼氏失格だ。
僕よりも、もっともっと辛いはずの彼女に、気を使わせてしまっているのだ。つかなくてもいい嘘を、する必要の無いお節介を焼いているのだ───
ーー
実際、
彼女に起こった不運は、《耳が聞こえない》なので、喋る事が出来ない訳では無い。
喋ろうとさえすれば、言葉を出す事は可能なのだ。
それでも彼女は喋ろうとはしない。
上手く喋る事が出来ないんだとか。
何も聞こえない。というのは僕が考えていたよりもずっと不便で大変なもので、聞こえない、即ち自分が今喋っている"オト"すらも認識出来ないのだ。つまりは、十中八九、発音がおかしくなるのだ。
曰く、舌足らずみたいになるらしく、母音でしか喋れないそうだ。僕としては、それでも彼女には喋って欲しいのだが。
僕は、そんな彼女を支えていきたい。
これまでと同じように、これからも─────