エピローグ
あれから、数ヶ月が経った。
長かった冬は終わりを告げ、春の季節へと変わっていた。
───僕と翡翠の間で起きた数ヶ月の事は、忘れる事は無いだろう。いや、忘れる事が出来るはずが無い。頼まれたって、忘れてなんかやるもんか。
それでも今は、その出来事が嘘のように感じる。
デートの終わり、僕は翡翠と近くの公園に来ていた。
ボーリングをしてきた帰りだと言うのに、彼女は元気そのものだった。───運動音痴の僕が言っても眉唾な話にはなるけど、にしたって元気だと思う。
あの後、翡翠は直ぐに退院した。
走ったりなど、激しい運動をしない限りは、もう大丈夫なんだとか。
───医者も言っていたが、やはり翡翠の再生力は異常な気がする。
《禊君。今日の晩御飯は何がいい?》
じんわりと暖かい太陽は、公園全体を照らす。
クラクラと風で揺れている、赤いブランコのすぐ傍のベンチで、僕と翡翠は手話で会話をする。
《何でもいいよ。翡翠の好きなものなら》
《そういうのが、一番困るんですけど?》
あの日以来、彼女と僕はより前向きに手話を勉強した。今じゃあ軽い日常会話をする事が、容易になってきている。
翡翠は、昔の自分を忘れたくないからと、手話を覚えたく無い訳を話した。
───そういう意味では少し寂しい変化かもしれないけれど、きっと良い変化ではあると思う。
だからこれでいいんだ。
《ねぇ禊君。ジャン負けでジュース奢ろうよ》
《あのねぇ、子供じゃないんだから》
彼女は微笑んだ。
その微笑みには、かつてのような闇は存在しない。
偽物、贋作などでは到底無い、正真正銘の笑顔。絵に描いたようなにこやかな笑顔は、自然と僕の心を締め付ける。
───けれど、それは明らかに苦しみでは無かった。良かったのだと。心からの安堵からくる締まりだった。
ふと思いついて、ポケットから1枚の紙を取り出す。
《ちょっと! なんでまだそんなの持ち歩いてるの!?》
翡翠はこれに気づくと、驚き半分嬉しさ半分で怒鳴ってくる。
《これは、僕の宝物だからね。いつだって持ち歩いているさ》
その1枚の紙は、或る手紙だった。
数ヶ月前のあの日、彼女が僕に書いた、1枚の手紙。
「ちょっ────翡翠!?」
気がつけば、押し倒されていた。
翡翠はその手紙を奪い取ろうとして、体制を崩したのだ。
「あ───!翡翠の手紙が────!」
手紙が僕の手から離れる。
結果、その手紙は空へと飛んで行った。
ーー
彼女は今、幸せだと言ってくれている。
耳が聞こえない日常でも、
僕がいる事で、楽しい日々になっている。
───そう、言ってくれている。
あの時、僕は彼女の気持ちが判らなかった。
だからもしかしたら、まだ不安を抱えているかもしれない。
それでも、そう急ぐ必要は無いんだと思う。
これからの日々を───共に歩むのだから。
桜が舞う───
出会いを呼び、別れを生む。そんな季節。
春を象徴するように散る花びら。
それは儚くも美しくて、とても綺麗なものであった。
風が吹く。
その風で、花びらは舞い続ける。
その中で、
舞う桜に紛れて飛ぶ、1枚の紙切れ。
手紙と言うにはあまりにも小さいその紙の真ん中には、柔らかな文字が記載されている。
『大好きだよ』
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