心に届いた君の言葉
「───ぇ」
宛もなく振り返った。
その先には、
(嘘……なんで?)
他の誰でもない。
他の誰かなんかでは代用できっこない、
───最愛の彼だった。
目を擦った。
幻覚なんじゃないかと思った。
私が土壇場で創り出した、都合のいい虚像なのでは無いかと疑った。
だが。それが掠れる事は無い。
何度目を擦っても、瞬きを繰り返しても、其の姿が消えゆく事は、1秒たりともありはしなかった。
私が間違えるはずが無い。
彼は、本物の、
正真正銘の、
苅原 禊その人だった。
───暖かな視線。
私が誰よりも知っている、誰よりも優しい目。その眼光に見定められ、私は固まってしまう。
そして、
彼はゆっくりと手を振った。
「───ぁ、あぁぁあ」
視界が曇る。
困ったものだ。ちゃんとに。きちんと。彼という人をこの目に写してやりたいというのに。
それだと言うのに。
泪が出てきて姿が霞む。
繰り返す。
───目から溢れたその液体を、何度も何度も服の裾で拭った。裾はもう完全に濡れている。
でも、やっぱり泪が枯れる事は無い。
すると彼は微笑んで、
1枚のノートを私へと見せる。
その紙には、たった一言、
『メリークリスマス』
とだけ書かれていた。
心の中で、彼に挨拶を返す。
───メリークリスマス。
決して伝わる事の無い、心の言葉。されど彼には、きっと伝わっているのだ───
泪を拭い、何度も目を擦ったせいで、私の目元は真っ赤なのだろう。それはもう本当に、林檎のような純新無垢な赤なのだろう。
それを見てか、彼はペンでノートに奔り書く。
『生きていてくれてありがとう』
私はそっと近づき、
彼からペンを受け取った。
こうして、いつもの会話は始まる。
きっと、ずっとこうだったのだろう。
ペンを受け取った時に触れた、彼の指先。それは確かに震えていた。
『なんで分かったの? 私が此処にいるって』
『何となくね。ただ、今会わないと、取り返しがつかなくなる気がしたんだ』
『何よそれ』
彼が微笑む度、拭いきれない程の量、涙が零れる。
いい加減、目が痛む。でもそれが、不思議と悪い心地はしなかった。
『禊君。前にもこんな事、あったよね』
『前にも?』
『ハナの時だよ』
それは確か、2年程前の事。
飼っていた犬が亡くなって、精神的に辛くなった時の事。
ずっと一緒だった。生まれた時からハナは一緒に居て、どんな時も傍にいたから。
『その時私さ、本当に辛くて、それで、本気で死のうとしたんだけど。君はそれを察して駆けつけてくれた』
『そう言う事もあったね』
『嬉しかったよ』
『そっか』
そう綴り、彼は優しく微笑む。
この状況が心地よくて、知らず心が安らいでゆく。
だが同時、彼の書く文字が、私が綴りたい文字が、涙で滲んで良く見えない。
───彼は改まって、意を決したようにその文体を見せる。
『翡翠。僕は君を愛している。君の力になりたい。
だからさ、聞かせてくれないかな。君の本音を、包み隠さず、思っている事全て、打ち明けてくれないかな』
多分、何度も練習したんだろう。
そう思えてしまいそうな程、やはり彼の声は震えている。
未熟だったかもしれない。少しだけ格好悪かったかもしれない。それでも私は、
彼に言われたら、断ることなんてできっこない。
『分かった。全部話す。長いけど、覚悟してね?』
『分かった』
驚く程の優しい表情。
にこやかという風では無い。言葉で表現するのだとしたら、それは恐らく穏やかに。
私は全てを書き綴った。
今まで思った事。考えた事。その全てを。
『私は、手話なんて、本当は覚えたくない。別に、難しいからとかじゃないの。ただ、手話を覚えてしまったら、手話を完全に日常に溶け込ませてしまったら、もう。以前の私には戻れなくなる気がしたの。
本当はちゃんと言葉で喋りたいし、私は、前みたいにお喋りが大好きな私が好き。
だから、そんな昔の私と、決別するのが怖かったの。
やっぱり、耳が聞こえないって言うのは思ったよりも、ずっと辛くてさ。今まで当たり前にできていた事が、なんにも出来ないの。でも私が何よりも辛かったのはさ、他の患者さんとコミュニケーションをとる機会があるんだけど、初めて"話す"人でさ、私が耳が聞こえないって分かると、少し面倒そうな顔をされるの。
分かってるの、自分でも。耳が聞こえない人と会話するのは疲れるんだって事。面倒なんだって事。そんな事分かってるつもりなんだけどさ、やっぱり、辛いよ。私』
それは、あんまりにも長い独白だった。或いは贖罪だったのかもしれない。
ありったけの不平不満を垂れた、読むだけでも辛くなるような長文。
それでも彼は、行を読むごとに、うんうんと頷いてくれていた。
『禊君。こんな話を読んでくれてあり』
ありがとうって。
───そう書こうとした。けれど、それが叶う事は無かった。
最後まで文字を書いていないのだと言うのに、私の視界は真っ暗だ。
でも、暖かだ。
だって、彼の胸の中だ。
逆に、呆れてしまう程に優しい彼の両腕が、私を包み込む。
私はその後、
ただただ泣いた。
────泣き続けた。
どのくらい泣いたかなんて判らない。
きっとそれほど嬉しかったんだ。安心したんだ。
今覚えている事は、彼の体温だけだった。