(5)満月
それから恐ろしく平和な五日間があっという間に過ぎていった。
「なあ、ガル」
「あん?」
庭の一角で畑仕事に興じるエヴァリスとルシェル殿下を、ガルヴェインとシンが暇そうに眺めながら会話をしている。
「殿下ともあろうお方が泥だらけになって畑を耕すを見るのは、なんていうか不思議な光景だねぇ」
「確かにな。しかし見てみろよあの顔。ルシェルも随分楽しそうだし、健康的になってきた」
ガルヴェインは、王宮にいた頃には考えられないような不敬な物言いだが、「この屋敷にいる限りは殿下を特別扱いしない」という家主の主張を殿下が呑んだ。それ故に、ガルヴェインまでもここにいる間は殿下ではなく、ただの子供としてルシェルを扱うことを許されている。
「まーねぇ。まずは『心身を鍛える』ってのがエヴァの方針だけど。畑仕事をさせるとは思わなかったな〜」
「お前さんの言う『暇つぶし』のなんだっか、開運?吉凶?よく分からんが、その暦の通りに従って、今は土いじりをするべきなんだってな?まー、ルシェルが楽しそうだからひとまずいいんじゃねーか?」
そんなガルヴェインの言葉にシンがため息をつく。
「アレが次期国王に悪影響を与えねばいいけど…」
今はエヴァリスによると《八専》の期間中らしく、無理に動かないほうがいいらしい。また、次に《土用》の期間がやってくるので、それまでに粗方種まきを終えたいということだった。そして、シンにとってはただの迷信である運勢暦の話を、ルシェルは大真面目によく聞いた。
「《土用》というのは春夏秋冬の季節の境目にそれぞれある18日間だ。陰陽道で土をつかさどる神の支配下にあるとされることから、期間中は農作業や新居の購入、結婚、新しい生活を始めること、引っ越しなどは縁起が悪いと言われている」
エヴァリスが得意な顔で解説する。
「一年に4回ということは72日間もあるの?そんな長期間制限をかけるのは不便なんじゃない?」
ルシェルがさも不思議そうに疑問を口にする。
エヴァリスがルシェルのことを殿下と呼ばず、普通の子供のように扱い始めてからルシェルはとても気楽そうに過ごすようになった。
身体が弱く、魔法も使えず、しかし臣下たちには敬われ、己の責務を暗に示されるのはプレッシャーだったのだろう。今は分からないことはなんでも尋ねることができるし、子供扱いしてくれるのが心地よいようだ。
「友人のヒノモト人曰く、こういった暦は農夫たちの生活と深く関わっているものなのだそうだ」
ヒノモト国において、年中行事、二十四節気という一年を24つに区分し季節を知る手法、また豊作を祈念し収穫を祝う祭日などは、農業をする民にとっては生活に深く根付いた大切な暦なのだという。
それらは陰陽道や民間信仰などの占いや迷信も多く含まれる一方で、生活の知恵や過ごし方、移ろいゆく季節の中での農作業の時期など、彼等の培ってきた「より良く生きる方法」がふんだんに盛り込まれている。
「例えば土用の期間に食べると良いとされるものがあるらしいのだが、それは偏に、季節の変わり目で体調を崩すことのないよう、滋養のあるものが選ばれている。土いじりをしてはならない、とは言われているものの、実際は気温が上下するこの期間に「無理して仕事をこなさず休め」という先人の知恵も入っているのではないだろうか。ついでに、流石に一年で72日間も土に触れないのは農作業がはかどらないから、《間日》を設けて、土用であっても土に触っていい日も定められている」
エヴァリスが目を細めて楽しそうに説明するのを、ルシェルは面白そうに観察した。
「エヴァリスは、そんな民の生活に根ざした暦があるヒノモトの国に行ってみたいんだね」
エヴァリスは頷く。
「ああ。私はヒノモト国について、友人にもらった『星廻草木雑暦書』しか知らないからな。もっと色々なことを見たり体験したい。それに、彼の国の暦は太陰暦なんだ。つまり、月の満ち欠けの周期を元にした暦法なんだが、実は私の魔術と月や星は関係が深く、太陰暦とも相性がいい」
「へぇ〜」
そこで二人はいったん畑から引き揚げた。
「ルシェル。明日は満月なんだぞ」
屋敷に戻りながらエヴァリスが楽しそうに言った。
「そうなの?」
「うん。正確には明日の朝がフルムーンだけど、今晩でも強い月光が浴びれるだろう。というわけで今日はお前の魔力を高める儀式をしよう。そして、明日から本格的に魔法の特訓を開始する!」
「やった!では師範!お願いします!」
「堅苦しいな。エヴァリスでいいよ」
「分かったよ、エヴァリス!」
[月霊の祝福]
満月の夜に、魔術師が月の精霊から力を授かるとされる儀式だ。
漆黒の闇夜に浮かぶ大きな月。
正確には少し欠けているのだが、月光は充分に大地に届く。
エヴァリスは瓶の栓を抜いて聖水を振りまいた。無造作な仕草だったが魔法により制御され、綺麗な真円が描かれる。それを二重、三重に重ねながら魔法陣を描いていった。
続いてぶつぶつと何かを唱えながら聖水を振りまくと、地面には古代文字が円に沿って描かれていった。
魔法陣は俄に輝き始める。月明かりに共鳴するように、淡く、儚く、美しく。
「ルシェル、円の中心に立て」
言われた通りにルシェルが立つ。それを見届けて、エヴァリスは呪文を唱え始めた。いや、それは韻を踏み、メロディーを刻み、唄となって月夜に響く。
セレネ・ヴァセリス・ノクティス、イルメエス・ルリアン、アリス・ヴェル・ルナリア…
月の精霊はお祭り好き。
ルシェルはおとぎ話に出てきた精霊を思い出した。村の祭りに誘われて、満月の夜、地上へ降りる、と。
セレネ・ヴァセリス・ノクティス、イルメエス・ルリアン、アリス・ヴェル・ルナリア…
気がつくと、エヴァリスとともにそのリズムを刻んでいた。
(月の精霊よ。僕、ルシェル・アルヴェリオン・ブランタメイアは、必ずや皆の期待に応えてみせます。だからどうか、お力をお貸しください)
月。
太陰暦で暮らすということは即ち、月とともに生きるということ。月の満ち欠けとともに生きる生物が多くいることが知られているが、それは人間にも当てはまる。
《満月》はエネルギーが最高潮に満ちる時であり、負のエネルギーは解放し、邪気を祓うことで心身を浄化できると言われる。
ルシェルは今までの負の感情をすべてこの闇夜に解き放ち、月光を浴びて新たなる力を手に入れるために一心に祈った。
それからは、ガルヴェイン、シンも交えて本当に一晩中お祭り騒ぎに興じることになった。
盛大に焚き火を組み、呑んで騒いで歌って踊る。ルシェルはこんな楽しい祭りは初めてだった。
「ねぇ、エヴァリス!もし僕が王位に就いたなら、いつか君と一緒にヒノモト国に行きたいな。その頃はエヴァリスはきっとヒノモト国を知り尽くしているだろうから、案内してほしいんだ!」
ルシェルは、王位を継承したときに真っ先にエヴァリスに自由を与えると約束した。そのために、己にできることを、それこそ命を懸けてでも成し遂げてみせる、と心に誓った。