(1)開運吉日
こんにちは。
約3〜4万字程度のお話の予定です。
短い間ですがよろしくお願いします。
カーテンの隙間から朝日が差しこみ始めて、エヴァリスは目を覚ました。
深呼吸をすると、冷たく清浄な空気が肺に入り込んでくる。ベッドから起き上がり、実は生地が足りなくて閉まりきらなかったカーテンを大きく開けて、窓を軋ませながら解き放った。
「さあ、今日が始まる」
その顔は、清々しい朝の空気と、芽吹き始めた美しい景色に照らされて晴れやかだ。刻一刻と時が世界を変えてゆく。この変化が何よりも愛おしく、エヴァリスは毎朝胸を躍らせながら景色を心に刻んでいた。
ブランタメイア王国最東端、グラストン地方の小さな村のさらに東の小高い丘に、師匠が昔使っていたという古い屋敷がある、と聞いた時、真っ先に「欲しい」と申し出た。
今は無人となって久しく、手入れもされていないらしいが、正式な手続きを踏んでここをもらい受けることになったとき、エヴァリスは心の中でガッツポーズを獲ったのだった。
(私の理想郷だ)
人里離れ、王の威光すら届かぬような辺境の地だが、それこそ、エヴァリスが行き着くべきユートピアだと確信した。
いや、ここで確信したのは本人だけだと言わねばならない。この話を聞いた同胞、国王までも、「何故」と首をかしげ、あるいはなんとか引き留められぬか考えあぐねた。もちろん、引き留められるほど懐柔しやすい女ではない。
エヴァリスは嬉々としてこの地に隠匿すると決めるや否や、早々と王宮を去って既に五年の年月が経った春のある日から物語は始まる。
さて、では実際に“事”が起こる前にもう少し彼女の身辺を見て回ろう。
エヴァリスの屋敷は、その実四百年は経っているであろう石造りの古いものだ。城というには小さすぎるが、一人で住むにはかなり大きい。一階建ての建物がコの字を描きながら中庭を囲み、納屋が隣接して建てられている。一番目立つのは正面の右角、石を円筒に積み上げられた一角で、屋根もまた円錐型に伸びているのが遠目からでもよく映える。背後には小さな雑木林が茂って屋敷を守っていたが、それ以外には何もない。この辺りは見渡す限り、なだらかな起伏が上下するのみの草原である。
「エヴァリス、今日も朝から掃除するのかい?」
黒に銀の縞模様が入ったキジトラ猫が、ミルクをちるちる飲みながら言った。名はシン。
そうそう、正確には使い魔であるこのシンもいるのだが、まぁ何をするでもなく日がな一日食っちゃ寝生活を送る気ままな猫なので、エヴァリスは実質一人ということにしていいだろう。
「掃除は《天一天上》中に散々やったろ。当分は床を掃くぐらいで十分だ」
言い切り、そしてにやりと顔を歪めて笑う。
「それより今日は天の恩恵を受ける5日間《天恩日》の最中で、しかも《一粒万倍日》と《月徳日》が重なっている吉日だ!つまり、今日は《超開運吉日》!」
まるで何か悪巧みでも思いついたような顔なのだが、これがエヴァリスの通常運転だ。
そして、そんなエヴァリスの様子に呆れたように空を見やるシン。
「はあ。やれやれ、いつまでそれ続けるんだよ。僕はもう飽きちゃった」
シンの言うそれとは即ち、毎日の運を占術や民間信仰、思想から規則的に割り出し、暦に当てはめた開運暦に基づいて生活すること、である。
エヴァリスは現在、東洋の国で使われているというこの「開運暦」に御執心なのだ。
「何を言う、シン。いつまでも続けるぞ!そのためにこんな辺鄙な場所に引っ込んだのだ。王宮では毎日毎日忙しく、事件もなんやかんや起こるからな。そんな喧騒から解き放たれて、暦を体感して生きたいのだ」
そう言ってくるりと回って見せ、見えない何かを抱きしめるような仕草をしたエヴァリスは、毒気のない笑顔で今度こそ笑った。
「日々を噛みしめて生きる。このなんと贅沢なことか」
その顔があまりに美しく、いつも見慣れているはずのシンも思わず文句が喉から出なかった。漆黒の長い艷やかな髪と、エメラルドのように煌めく瞳。
エヴァリスは使い魔が密かに見惚れるほどに美しい人間だった。
その性格があまりにガサツで男勝りなことと、思い込んだら一直線の融通の利かなさと、ある能力に秀でていることに目を瞑れば、エヴァリスは人形のように完璧な形をした人間だ、とシンは思う。
(…開運日だからといって特別良いことなんか何もないくせに。こんな辺鄙な場所でたった一人、物好きな変人魔女だよ、まったく)
それから、エヴァリスは洗濯物をせっせと洗い、真っ青な空の下で干していった。春の風は心地よく、洗濯物がよく乾く。
時折小鳥たちの声に耳を澄まし、その歌声に混ざってハミングしながら庭の草木の手入れをして回る。
春は一段と庭が賑やかで美しい。ハーブをはじめ、花や野菜も育てており、ところ狭しと植物たちが葉を伸ばして成長していた。
家畜小屋にはヤギと鶏、そして馬を2頭飼育している。たまに近隣の村に買い物に行くので馬車を引かせるのだ。彼等の世話も楽しくこなして、今日も穏やかに過ぎていく。なんてこともない、至福の一日だ。
…だが。
夕日が空を赤く染め始めた時、屋敷に戻ろうとしたエヴァリスの視界に妙な影がちらりと映った。
嫌な予感がする。
こんなにも完璧な一日がようやく終わりを迎えようとしている今になって、草原を突っ切る黒い影。
(馬車だ)
この瞬間、エヴァリスの脳裏に忘れていたある単語がつらつらと浮かび上がってきて仰け反りそうになってしまった。
そうだ、今朝は《天恩日》に《一粒万倍日》、《月徳日》に浮かれて忘れていたが、暦には《厄日凶日》というものもあるのだ。もしかしたら、たくさんの吉を打ち消すような凶が重なっているのではなかろうか。
馬車が引き連れてきたように、向こうの空に黒い雨雲が迫って見えた。