痰
酷く乾燥した冬の暮れだった。起きなければならなかった。布団から出たくなかった。頭に靄がかかっているのに、空気はとても澄んでいて、吸うたびに肺が痛かった。その痛みで漸く目を覚ました。十分ほどかかって、上半身を擡げる。そのころには頭もすっかり冴えていて、起きるべき時間から既に半刻ほど過ぎていたことに気が付き、血の気が引いた。急いで、スーツに着替える。寝巻とは違い、自らの体の境界にピッタリと纏わりつくその圧迫感に、鬱屈とした思いと安心感を感じながらネクタイを締めた。天気予報を見ている余裕がなかったが、幸い雨は降っていない。電車まで少し走れば間に合いそうな時間に家を出発した。
電車には間に合った。しかし電車は当然のように満員であり、座る余地などはない。酸素が薄く、直前まで走っていたこともあって、脂汗が額ににじむほど、酸欠であったので、深く息を吸った。一度では足りるはずもなく、もう一度息を深く吸った。咽た。落ち着くまで静かな咳を数回繰り返し、喉に違和感があることに気が付いた。喉に痰が絡まっていた。何度かその違和感を取り除こうと咳をしてみたが、一向に違和感は消えない。気を紛らわそうと、電車広告を眺める。大して興味をそそるものもなかったが、次第に違和感は薄らいでいった。
会社の最寄りの駅に到着したので、人の波とともにホームへと降りる。その後も、ただ波に流されるように歩き、見慣れた、憂鬱の権化たる建物に到着した。出勤予定時刻の五分前に打刻して、型落ちが並ぶデスクに座る。慣れたと思った業務で盛大に失敗し、上司からの大目玉を食らった。普段からよく失敗をしていたのにもかかわらず、慢心してしまった自分の愚かさを痛感し、優しく説教してくれる上司に申し訳なくなる。ただ怒られるしかなかった。
今日は説教の時間がいつもより少し長かった。おかげで昼休憩は三十分もない。説教はどれほど気持ちがこもっていても、長引くと時間のことしか頭に残らないものだなと思う。会社の暖房のせいか、息が詰まりそうだったので、社外に出た。近くの喫茶店で一服しようとでも思っていた。すれ違う人の中に、目を引く者がいた。驚くほどに瘦せこけた、十七ほどの少年だった。肌も白く背も高くないその少年は、見ているのに気が付いたのか、こちらへと寄ってきた。何の迷いもなく近づいてくる少年に少し怖くなり、一歩後ずさる。しかしあっという間に、少年は近づいてきて、スーツの袖を引き、近くにあったビルとビルの間の路地へと、引き込んだ。
突然のことに呆気に取られていたが、我を取り戻して、少年の手を引きはがす。そして、何故こんなことをしたのか、口を開いてそう言おうとすると、少年はその開いた口に舌を入れた。訳の分からない状況に、理性的な思考は停止していた。何も考えられなかった。ただ、少年の舌は甘かった。全身の感覚も麻痺したようになくなった。手足から力が抜け、その場に崩れ落ちた。それでも少年は、口づけをやめなかった。それどころか少年は、次第に首に腕を回し両肩を掴んでいた。ようやく理性が戻ってきたころ、少年も舌をねじ込むのをやめた。
「どういうつもりだ?」
至極まっとうな質問を少年へと投げかけて、彼の真意を探ろうとしていた。質問の答えを待って、十数秒が経ち、少年は晴れやかな笑みを浮かべ、人差し指を立て、唇に当てた。妙にその唇が艶やかに見えた。
その唇に吸い込まれるように少年を眺めていると彼は路地の奥へと走って行ってしまった。それを追いかけて路地の奥へ進むと、道はなく、行き止まりだった。少年の姿は見当たらなく、どう探せばいいのか見当もつかなかったので、会社へと戻った。その不思議な体験が思考に絡みついて、その日から、ただ、世界に違和感を感じるようになった。まるで虫が一匹もいない山のような、全く凪いだ海のような、星一つない夜空のような、そんな気持ちの悪いものになってしまったような気がした。
違和感と過ごして大分経ったある春の日の朝。当たり前のように目が覚めて、洗面台に立つと、痰が出た。