23、私の歩いて行きたい場所
アパート前に見慣れた自転車が置いてあってドキッとした。私では到底乗れそうにもないデザインのお洒落なロードバイク……これの持ち主が誰かなんかその場にいなくてもわかるのだ。自転車車庫にしっかり鍵をかけて置かれている。持ち主は……そう思っていたら頭の上から声が降ってきた。
「おかえりー」
「……ただいま」
「ドアノブに引っかけて帰ろうかと思ってたんだけどさ、会えてよかった。おばちゃんから」
ガサッと持ち上げられたビニール袋がひろちゃんの顔の横で揺れて中身は何かまではわからないがため息をこぼす。
「お母さんってばぁ……すぐひろちゃん足に使うんだからぁ。ごめん」
「いいよ、別に。俺も杏に渡すものあったんだ」
「え?」
「ちょっと上がっていい?」
「……うん」
アパート二階から見下ろしてくるひろちゃんを見上げた。ひろちゃんの背中には夜空の星がキラキラと輝いていた。
「え?!これっ……」
ビニール袋の中にはさらに個包装された包みがあって、それを開けた瞬間に声を上げてしまった。
「ひろちゃんっ……この中身……」
個包装包みは柄はあるものの透明で。よく見れば中身が分かってしまう。
「見てないけど」
その言葉にホッとしたらそれを見たひろちゃんが吹き出した。
「見てないけどおばちゃんから聞いてる」
「お母さんのバカ!」
中身は腹巻だった。ピンク色のもこもこした可愛い感じのものだけれど、よりによって腹巻……恥ずかしいしかない。
「杏は腹出して寝るからこれから冷やさないようにって伝えてくれって」
しかもメッセージ付き、それを伝言させるってなんなの、お母さんはひろちゃんを何だと思っているんだ。
「冷やさないようにな」
「ひろちゃんもうるさいっ!」
思わず噛みついたらフッと笑われて……その笑顔を見てまた胸が締め付けられるんだ。
きゅんっと……胸がきゅんっと鳴った。くすぐったくて、でもどうしようもないほどの切なさがあった。この胸の切なさにもう知らんぷりなんかできるはずがない。だって私は――この切なさを知っているから。
「俺からはこれ」
「え」
渡されたのは小さな紙袋で……クラフトのシンプルな紙袋だけど、持ち手部分に赤色の小さなリボンが付いている。
「これ……なに?」
「杏、来週誕生日だろ?」
「――え」
「えって……忘れてんの?」
呆れたように笑われたが――忘れていた。
(そうだ……26歳の誕生日……)
「いろいろ迷ったんだけど……やっぱり機能性とか考えたら口コミよりも実体験かなって。俺は何個か使ってそれが一番肌に合うし使いやすい……から、お揃いでごめん」
袋の中にはコンパクトな箱があって、それを開いたらそこにあったのはスマートウォッチだった。淡いピンク色のベルトがとても可愛い。
「……いいの?こんなに高そうな時計……」
ひろちゃんは今欲しいものもあって金欠と言っていなかったか。それなのに……そんな思いで問いかけたら照れたように笑うから。
「そんな高いもんじゃないよ。消耗品だし安物。ダメになったら買い換えて?数のうちだよ」
「これ、スマートウォッチ?」
「歩くようになったし、カロリーとかも意識するようになっただろ?データ取れていいよ。日常的に目に止まるって刺激にもなるし、良かったら使って?」
「……あり、がとう」
「ベルトはカスタマイズできるし、好きなのあったらまた変えれるから」
「ピンク、可愛い。これがいい」
「……そう……それなら、良かった」
そう言ったまま変な沈黙。腕にはめた時計を見つめながら胸に込み上がってくる気持ちがあった。切なさをこえた、それよりも溢れてくるもの――。
「ちょっと早いけど……誕生日おめでと」
ひろちゃんが見つめながらそんなセリフを言ってくれるから……。
「ひろちゃん……」
どうしよう。どうしたらいい?
私は……どうやって答えを出せばいいの?
「……杏?」
「ごめ……」
目の前が揺れて、自分の瞳に涙が溜まっているのがわかる。俯くときっと零れる、それが分かるからひろちゃんから顔を背けられない。でもそれは、自分の顔を晒していることになるのだ。
「どうした?また……なんかあった?」
あった。でもこれをひろちゃんに言ってどうなるんだろう。
未来の私は……思い描いていた未来で待っていてくれなかった。今の私は……どこへ歩いて行きたいのか。
「前のままで良かったって、言われた」
「え?」
巽さんは、そう言った。変わった私より、前のままの私で良かった、前の私が好きだったと。
「変わらない方が……良かったの?私は……」
「……好きな、ヤツ?」
ひろちゃんの問いかけに体が固まって、言葉が出ない。
「なんて……言われた?」
「……」
「杏」
「……容姿なんか、気にしなくても、いいって……前の私が好きだったって……」
ぽろり……溢れてくる涙に押し出されるように、一粒零れたら止まらなくなった。
「そっか……良かったじゃん」
(――え)
「そいつはさ、杏自身を見てくれる良いヤツじゃん。バカにしたり、その場だけの発言するようなヤツじゃないんだろ?」
聞かれて考えるものの否定する言葉も見つからず素直に頷くと、ひろちゃんがくしゃっと笑って言った。
「そのままの杏が好きだって……そんな嬉しい言葉、ないだろ?素直に受け止めたらいいんじゃないかな」
ぽろぽろと……涙が溢れて止まらない。この涙はなんなのか……私は……ひろちゃんにそんな言葉を言って欲しかったわけじゃない。
「杏も自分の気持ち、ちゃんと伝えてきな?諦めなくていいんだよ」
頭をぽんぽんと撫でられて……ひろちゃんはそれ以上何も言わずに部屋を出て行ってしまった。
*
何度も何度も心の中で繰り返される言葉があった。何度も何度も投げてくれた言葉に励まされてきた。きっとずっと小さな時から――ひろちゃんの言葉に。そのひろちゃんのくれたたくさんの言葉に包まれながら……先ほど言われた言葉はひどく胸に刺さった。
――良かったじゃん。
そう、良かったのだ。私は巽さんを好きだった。その気持ちは確かにあって、そのために頑張れたのも事実だ。一緒に過ごした甘い時間を大事にしたかった。自分が特別になった、というよりかは巽さんの特別な時間に混ぜてもらえた……その嬉しさがあったから。
同じ食べるものが好きな気持ちを共有できた幸せ、好きな時間を共に楽しめた喜びが……気持ちをいつしか膨らませていた。
でも……いろんな時間があって……ここにくるまでに自分の中で変わる気持ちがあったのも事実で、それは……巽さんへの気持ちにも言えることのような気がした。自分の見たものに勝手に答えを出して、周りの言葉に振り回されて終わらせた恋だった。でも裏を返せば……それだけの気持ちだったんだ。
憧れと恋の狭間で揺れて……恋をしている気になっていた。そんな気がする。
巽さんは素敵な人だ。今でもそう思うし、そんな人に好きだと伝えられて奇跡のような出来事な気がする。嬉しいよりかは驚きと、信じがたい気持ちが勝って何も言葉に出来なかったけれど、時間が経つほど思うのだ。
巽さんは好きだ。巽さんという人を……好きだ。これは恋だったけど、恋に恋していたような恋だった。その気持ちに私はやっと気づくんだ。
私は――巽さんと恋人になりたかったわけじゃない。私だって嬉しかったんだ。お菓子を一人食べてる自分を笑わないでいてくれた巽さんが。好きな物を楽しむ時間に寄り添ってくれた巽さんに。
あの幸せな時間を一緒に過ごしてくれた巽さんとの時間が……何よりも好きだったんだ。




