19、温かな熱
職場で感じる視線。気にしすぎかもしれない、無駄に神経を張っている気もした。でも前みたいになんだかのほほんと仕事が出来ない環境になってしまった。
社内を歩くと後ろ指をさされたり、すれ違いざまに背後で自分のことを言われている気がする。気にしだすとよりそれが気になって悪循環、悪い方へ悪い方へと意識が向いて、考えなくてもいい事まで考え出してしまう。
どこまで噂だっているのか、揶揄われているとは違う、疑いの様な疑心の目がどうしても冷たい視線で顔を上げていられない。だからと言って声をあげられるわけではない。直接自分になにかを言ってくる人はいないのだ。ただ、遠巻きに好奇の目に晒される、疑われて、どこか笑われている。それは日に日にストレスに変わっていった。
(しんどい……職場で気持ちが安らぐ場所がない)
そのストレスはわかりやすく食欲に響いてきた。食べる気がしなくて、とりあえず食べないと倒れちゃうよね、そんな意識の中で取る最低限の食事、それはしっかり体重にも影響した。
(え……1.5キロも落ちた?)
痩せたというよりかはこれはやつれたになるのか。体重は落ちているのに体は重怠かった。これも物理的なはなしではなく精神的なものからくるのか。心身状況は良いとは言えない。気づくとため息を溢して心が晴れる日なんかない。
どこにいても誰かに見られているような錯覚。思い込みがそうさせるのか、もう自意識過剰にもなっている気がした。それでもその不安を止められない。そしてその時はまだ気づいていなかった。このどこまで広まっているかわからない噂が、巽さん本人の耳にまで届いているかなんて。
【今週末一緒に歩く?】
ちょうどお昼休みの頃だった。ひろちゃんから届いていたラインに視線を落としてまたため息がこぼれた。
(ひろちゃんももう私に付き合う必要なんかない……あのスタッフさんは、彼女じゃないのかな……)
腕を絡めた彼女とひろちゃんを思い出して胸が勝手にきゅっと絞られる。たとえ彼女じゃなくてもよくお似合いの二人だった。きっとスポーツやアクティブなことが好きそうで、軽々しい細身の体はスポーツウェアが良く似合っていた。並んでいたら本当にお似合いだったのだ、そしてまた椛田さんの声が脳裏にこだまする。
――あの人の横に並ぶのは誰が似合うかなんか考えなくてもわかるでしょ?
わかっている、もうわかったんだ。
私は――誰の隣にも並べない。歩き続けたって……なかなか未来の自分になんか会えない。もう待っていてなんかくれない気がした。私が……会いに行くのをどこかで諦めているのかもしれない。そんな自分を自分自身が待っていてなんかくれない気がするのだ。
【しばらく時間調整が難しいから、自分の歩ける時間に歩く様にするね。今まで付き合ってくれてありがとう!】
ひろちゃんにそうラインを返すとすぐに既読になったけれど返事はなくて、私は携帯を鞄にしまって業務に戻った。定時後にもとくにひろちゃんからの返信はない。自分から断っておいてまだなんの返事を期待しているのか。自分が嫌になるばかり。でもどうしたらいいかわからなかった。ひろちゃんのために、ひろちゃんの生活をもうこれ以上邪魔したくない。そう思われないように、自然にひろちゃんが気を使わなくていい様に距離を開けていきたい。そう思っていただけなのに――。
「ひろちゃん……」
どうしてひろちゃんがアパート前にいるんだ。
「おかえり」
「た、ただいま」
ジッと見つめられて言葉に詰まる。
「ど、どうしたの?」
「どうしたのは俺のセリフなんだけど」
「え?」
「なに?今までありがとうって」
言葉の通りだ、それ以上の言葉がない。
「それは……ありがとう、だから、その……」
「なんかあったの?」
「え……」
「またなんかひとりで抱えて悩んでたりする?」
「……」
「杏はさ、昔からそうだよな。ひとりで抱えて答え探して決めつける。相談とかほんと下手な」
「……」
「前も言ったよな?今度なんかあったらちゃんと声かけろって。また暴食する……「もうしない!」
思わず噛みついた。
「もうしない!そんなバカなことしないし、ひろちゃんに心配だってかけない!私ならもう大丈夫なの!だから本当にもういいの!」
「杏?」
「お礼もちゃんとする!ここまで頑張れたのはひろちゃんのおかげ……本当に感謝してる。ちゃんと十万払う!あれからまた二キロ落ちて……私……」
一気に話したら脳内が酸欠みたいになった。クラッと視界が揺れて、スウッと足元から力が抜けるような感覚が襲ってくる。
「杏!」
ひろちゃんの声がどこか遠くに聞こえた。焦ったような、飛び掛かってくるような勢いで名前を呼ばれた気がする。でもそれを確認できなかった。一瞬で私の思考はそこで止まったから――。
*
目が覚めたら見慣れた天井だった。
(あれ……私……)
「あ、気が付いた?」
ふわっとおでこを撫でられてひろちゃんの掌が前髪をかきあげていく。
「びっくりした……いきなり目の前で倒れるから。杏、最近ちゃんと食べて寝てる?」
「……ちょっと、寝不足」
「気分は?」
「……へいき」
「よかった……」
ホッとしたようなひろちゃんの声に思わず声を掛けた。
「ごめん、私……」
起き上がろうとした体を無理やり抑えられて結局ベッドに寝かされた。
「いい、急に起きるな。多分貧血も起こしてる。もうちょっと落ち着いたら病院いこ」
「え、いい。大丈夫!ひろちゃんにそこまで迷惑かけられない!」
「迷惑?なにそれ」
なにって、それも言葉の通りだ。どうしてさっきからうまく伝わらないんだろう、そんなにわかにくい言葉を使っているつもりはないのに。
「だって……迷惑……かけて」
「なぁ、迷惑ってなに?なにをそんな気にしてるわけ?」
「……」
「迷惑なのは俺がってこと?杏にとって迷惑になってる?」
「ちがっ……」
「だったらなんでそんな言葉が出てくるんだよ、それこそ今さらだし……意味わかんない。俺は迷惑かけられてるなんて思わないし思ったこともないんだけど」
そんな風に言われてもどう答えたらいいのか……言葉に詰まる私にひろちゃんは少し怒った風に言ってくる。
「心配しちゃダメなわけ?」
「……」
「杏を、俺が。心配したら迷惑になるの?」
「……そうじゃなくって……」
そうじゃない、でもこれ以上甘えられない。それをどう言えば伝えられるんだろうか。胸の中で膨らんでいく気持ちが抑えられなくて、目頭が徐々に熱くなってくる。鼻の奥がツンッとしてこめかみが痛くなる。
「俺はさ!」
声を荒げたひろちゃんにびっくりして体がビクリと震えた。
「……俺は……」
言葉に迷ったように困るひろちゃんがいる。気遣って悩ませて――心配させた。ずっとそうやってひろちゃんは私の傍にいてくれたよね。子供の時もそうだった、学校に行けなくなった私の傍に寄り添って、いつも優しい言葉を投げてくれたから。
「わたし……変わらない」
「え?」
こぼれた言葉と一緒に涙も落ちた。
「未来の私は……待っていてなんかくれない」
変われない、たとえ体重が落ちたって、数キロ減ったところで変わっていないのは――きっと。
「私が……変わらないから……」
諦める自分がいる。どうせ私なんか、私になんて……そんな気持ちがずっと心にまとわりついて。気持ちが変わらないんだ、ずっと。そうだよねと受け入れてしまう自分が情けなくて――悔しい。
「どうしたら……変われるのかなぁ」
この――諦めたくない気持ちはなんなんだろう。
「頑張ってるなんか自己満足だってわかってる。なのに……言い返せない自分が、納得する自分が悔しくて悲しい。わかってるよ、わかってる!私なんかデブだし、可愛いわけでもないし、調子に乗ったつもりもない!でもっ……」
――厚かましい。
巽さんと過ごしたあの甘い時間を楽しみにするのはそんなに罪なことだったのか。
ひろちゃんと靴選びから歩き始めた時間は楽しんじゃいけなかった?
「飲み込む自分が――嫌になるっ……」
自分の気持ちを何も言えずに、飲み込んだ自分が情けなくて悔しい。本当に変わらないといけないのは体型の話じゃない、体型なんか言い訳なんだ。
私が――私を結局馬鹿にして生きている。
「杏」
「……私は……自分が嫌い」
ずっと自分が嫌いだった。諦めてそれを当たり前にして言い訳を見つけて納得して逃げていた。そんな自分を本当は変えたかったの。変われると思っていた。
「誰だって嫌いな自分がいるよ」
(え……)
ふわっと温かな熱に包まれて……視界がひろちゃんの広い胸で埋められた。




