16、未来の自分は…
あれから一週間が経った週末、いきなりひろちゃんがアパートまで訪ねてきた。
「杏……お前、なにやってんの」
「……」
「この一週間、何食ってた?」
テーブル横に裸で置かれるゴミ袋をガサっと広げて中を覗かれた。
「なにやってんの?」
同じことを聞いてくる。
「……」
それにやっぱり何も答えられなくて。ひろちゃんに背を向けたまま黙ったままだ。
「杏」
ひろちゃんの声がどことなく怒っていて。食べた事より黙っている事を怒っているのか、そんな感じがしたからしかたなく言葉を発した。
「食べたかったから」
「……なんで?」
「好きだもん」
「そんなことは知ってんだよ。なんで食った、こんな食い方したらどうなるか今の杏ならわかってんだろ?」
「食べたかったの、分かってるけど食べたかったの、食べようって思ったの!」
「だからなんで!」
ひろちゃんのこんな声、初めて聞いた。それが逆に私にも火をつけたんだ。
「もういい!」
「いいわけあるか!せっかく……」
「もうやめる!」
投げつけた言葉にひろちゃんが黙ってしまった。後悔しても遅い、言葉は一度外に放たれたら意志を無視して独り歩きを始めるんだ。
私の本当の気持ちもなにも伝わらないまま、ひろちゃんにはその言葉だけが届いてしまう。それが言葉を伝えるということだ、それが――思いを伝えるということだ。
「検査……なんかあった?」
心配そうな声色に胸がフルッと震えて……。
首を左右に振ると、ひろちゃんがそっと近くに寄ってきたのが分かる。背中を向けたすぐ後ろにひろちゃんが座ったのが気配で分かった。
「やめて、どうすんの?また腰痛に悩まされて、自分で行きたいところも制限されるような暮らしをしたいわけ?」
嫌だよ、そんな暮らしがしたいわけじゃない。
「おばちゃんたちまた心配させて杏はそれでいいわけ?」
いいわけがない、安心させたいに決まっている。
「……もう……いいの」
「いいわけない」
「ひろちゃんになにがわかるの……」
「なんもわかんねぇよ」
ならどうしてそんなことをいうの、そう思っても何も言い返せない。
「う……っ、ぅ、ぅっ」
「……始めたのは杏だから。止めるのだって杏が決めたらいいんだよ。それに誰も意見する権利ない。当然、俺にだって止める権利ないよ」
「ひっ、うっ……」
「でもな」
ポンッと、温かい手が頭の上に乗ってきた。
「誰かのために始めた事でも、やっぱり頑張り続けてるのは杏の意志なんだよ。杏が頑張ってるからの結果なんだよ。それってもう自分自身のためにやれてるんじゃないの?」
――自分自身?
「自分のために、頑張ったっていいじゃんか。杏のために、杏自身が頑張ればいいじゃん」
「……」
「変わってきた自分が、嬉しかったんじゃないの?」
嬉しかったよ。
我慢もしてつらい日もあったけど。もう無理ってストレス溜めるときだってあったけど。
歩き終わった後の疲労感はいつからか快感になっている。そのあとに飲むドリンクが美味しくて、今まで感じなかった空腹感の中食べるご飯は美味しかった。新しい食事方法を取り入れるのだってやり出したら楽しくて、その中で出会える味にまた感動したり変化をつけたり。今まで食べたいものだけを食べてた暮らしが必要なものや取り入れたいものを考えて食べるようになったら知識も増えてまた食べ物に興味が湧いた。ただ食べることが好きだっただけの私が、食べることを考えるようになれたのは間違いなく生活を変えたから。今ではその暮らし方を楽しめるようになっている。
久しぶりに食べたパンは美味しかった。
甘くて、ふわふわで、いくらでも食べられる、そう思った。でも食べるほど泣きたくなった。美味しいのに、やけくそみたいな気持ちで食べていたからだんだん味なんかどうでもよくなった。美味しいのに味がわからなくなる。食べたいのに自分に情けなくなって罪悪感が生まれた。そんな気持ちで食べたのは初めて。大好きなパンを、ただ胃に収めるだけの行為は我慢している時よりもつらかった。
「バカみたいって……思ったのっ」
自分を――。
「何がバカなの?」
ひろちゃんは聞いてくる。
「変われるなんて、思った自分が……」
「変わってるじゃん」
それでもだ。
「頑張ってる自分を、バカみたいなんて言うな」
くしゃりと髪の毛を撫でられて、その手に思わず振り向いたら、ひろちゃんが困ったように眉をひそめて見つめている。
「すげぇ顔」
「……ティッシュ、取って」
ひろちゃんの足の横に転がっているティッシュ箱を指さしたらフッと笑われて、数枚抜き取ったら私のグズグズの顔に押し付けてきた。
「……箱ごと、ちょうだい」
「それでもう泣き止め」
グズッと鼻をすする私を呆れたように見つめてくるから恥ずかしさが湧いてきた。ひろちゃんには恥ずかしいところをたくさん見せているのにどうしてだろう、今日が一番恥ずかしい。見つめられると居心地が悪くて、目なんか合わせられない。
「あーぁ、どんだけ食ってんだよ」
「気持ち悪くなるほど、食べた……」
「聞くだけで胃が重くなるわ、それ」
「……ごめんね、ひろちゃん」
いっぱい協力させて、巻き込んで。そこに心配までかけて振り回しまくっている。
「俺は――諦めてほしくないよ」
「え?」
ジッと見つめてくるひろちゃんの瞳はどこか憂いを帯びている。いつも優しいひろちゃん、相手を思いやるのが第一みたいな空みたいに広い精神のひろちゃんなのに、そう言った言葉がなんだか切実に聞こえた。
「杏が、頑張ってきたこと、感情的になってやめてほしくないって思う。投げやるみたいに諦めてほしくない」
「ひろちゃん……」
「自分に……後悔させたくない」
その言葉に胸が締め付けられた。もう後悔しかけている私を立ち上がらせようとしてくる。逃げかけている私を、掴まえてくれる。ひろちゃんはやっぱり、私が苦しくて立ち止まってしゃがみこみそうなときに手を差し伸べてくれるんだ――。
「バカなことして……ごめんね、ひろちゃん……」
「ホントにバカだよ、これはバカ」
「ふふ……バカなこと、した。どうしよう」
「一週間でこんだけ食ってろくに歩いてないんだろ?もう二、三キロはリバウンドしてんだろ」
「――え」
「当たり前だろ、マジでバカだわ、大馬鹿だわ。あほ!!」
せっかく落ちた体重はまた戻ってるのか、ガーン。分かっていたけれど、それでいいと思ってのバカな行動だけど、自棄になった一週間前の自分を殴りたくなってきた。
「あーぁ、また頑張らないとなぁー」
「……自分の、ために?」
「そう。杏のために頑張るんだよ。未来の自分のために歩けばいいじゃん」
未来の自分のため――それはなんて希望に満ちた響きなんだろう。
そうだ。私にだって未来がある。
今ばかりに必死だった、今だけがすべてに思っていた、でもそうじゃない。
「今を頑張れば……未来の自分は、喜んでくれるかな」
「頑張った自分に、会いたくない?」
待っていてくれるなら――会いに行きたい。今とは違う、変わった自分に。
「もう一度……頑張れるかな」
自分のために、自分の周りにいる大切なひとのために。
「応援するよ」
ひろちゃんが微笑んでそう言ってくれるから。また目頭が涙で熱くなる。ここ数日ずっと辛くて悲しい涙しか滲まなかった。でもこんなにじんっとなる涙は初めてだ。
「ありがとう、ひろちゃん……」
ごめんねじゃない。ひろちゃんには、ありがとうしか言いたくないや。
「何があったかは詳しく聞かないけどさ。また自棄になりそうなときは連絡しろ。今度は全力で止めてやるから」
「ふふ……そうする」
本当に全力で止めてくれそう、そう思って私は心から笑えるようになったんだ。




