裏社会の三兄姉弟 2
月曜日の朝。それは社会人も学生も気が重くなる時間である。
ここ、樺根家も例にもれず沈鬱な表情の人物がいた。
「学校だるいよー」
「眠たい…」
「ほら二人とも!遅刻するよ!朝ご飯早く食べて!これお弁当!」
沈鬱な表情に対しては朝から賑やかなことだ。
「唯巫、電車遅れるよ。茉秋それ弁当じゃない空のタッパー!」
志吾はそれぞれ隣町の高校と中学に通う妹と弟を送り出すのに必死だ。志吾も大して朝に強いわけではないが、二人のために早起きして準備をしているため、ストレスが強い時間になる。
「朝から怒鳴らないでよー…」
「お前らがさっさと起きればこんな怒鳴ってないんだよ!」
「はいはい…」
「いってきまーす」
「いってらっしゃい、ほら唯巫、茉秋もう行っちゃったよ。早く早く」
「はぁい。いってきまぁす」
「いってらっしゃい」
二人を送り出すと、志吾は大きなあくびをした。
「二度寝するかな。昼過ぎには起きれるだろ」
「やばいやばい電車来ちゃう!」
「お先にー」
「あっ茉秋待ってよ!」
「やーだね」
茉秋の方が足が速いので、ギリギリに家を出るときの唯巫は毎度追い越されることになる。先を行く弟の背中を見ながら、唯巫は考える。
いつも、こうだ。誰もが自分より先に行く。追いつこうとすればするほど、息が切れて、足が痛くなって、手が届かなくなる。いまはまだ隣り合ってくれる兄弟は、いつ自分から離れてしまうのだろう。
駅の改札を足早に抜けると、電車のホームまで向かう階段が見える。完全に息が上がり切っていて、駆け上がることはできない。
「あー!おい電車行っちまったぞ!遅いんだよー!」
その声の方を見れば、茉秋が階段の上で唯巫を待っていた。
まだ、待ってくれている。いつかは先に行ってしまうかもしれない、絶対に追い越せない存在。だからこそ、少しでも長く待っていてほしいと願ってしまう。
『まもなく、四両編成各駅停車がまいります』
「早く!!」
「はぁい、あー間に合った」
「向こうついても走らないと厳しいけどな…」
「高校の方は近いもーん」
「クッソ、なんで中学遠いんだ」
ホームに二人並んで電車の到着を待つ。朝の通勤通学の時間帯でも、この街ではホームの人影が少ない。駅があるのも街のはずれだ。昔からこの町は治安が良くなかったかららしい。町にある唯一の商業施設は家の前にあるコンビニだけだし、治安の悪さは幼い頃から知っている。ギリギリ徒歩圏内にある小学校に通ったし、茉秋が今通っている一番近い中学校も五駅先にしかない。なんでそんなところに住んでいるのか、唯巫も茉秋も知らない。物心ついたときにはこの街にいたのだ。
到着した電車に乗り込む。さすがに席は空いていないが、空間は十分にある。特に意味もなく近くにある手すりとつり革をそれぞれ掴む。ドアが閉まれば程なくしてゆっくりと電車が動き出す。二駅ほど揺られていれば、それぞれの友人が乗ってくるので、それまで会話もなく思い思いの事をする。
「あ、樺根だー」
「唯巫おはよー」
そんな声がすれば、それぞれ別の方向に顔を向ける。
「唯巫、寝ぐせついてるよー」
「えっ嘘!?ちょ、直してよ鈴ー」
「いいよぉ、唯巫今日寝坊したんでしょー」
「あ、やっぱバレる?」
「うん、だってリボン曲がってるし」
唯巫は友達の鈴と話す。別に話したいことがたくさんあるわけではないが、いれば話す。人見知りが強かった幼少期から、さんざん志吾に言われてつけた癖だった。少なくてもいいから友人を作ること、その友人と仲良くすること。そうした話をされて、ようやく作った友達が鈴だった。
別にそこまで趣味が同じわけではないが、互いになにかと頼りにし合う仲だ。
「今日岡田先生の授業だよね?」
「えー山口先生の方が優しいのにー。岡田先生課題の量多いんだよね」
「それなー」
唯巫がそんな会話をしている反対側で、茉秋は自分の友達と話をしている。学校も違うし、日中の二人はまるで他人のようにふるまう。二人の外見は白髪と茶髪、金目と緑目、可愛い系と美人系と、まあ共通点もない。樺根という珍しい苗字さえなければ、誰もが二人の間に関係性を見出さないだろう。
ただ、この二人は意外と性格は似ている。おおざっぱなところや、友人、家族を大切に思うところは、なぜかそっくりなのだ。兄である志吾がどれくらい似ているかは、唯巫も茉秋もわからないところだ。
唯巫は雑居ビルの地下に向かう。階段を降りてすぐにある扉の鍵ををガチャリと開けると、唯巫は声を出した。
「ただいまー」
そう、ここは三人が暮らす家である。物心ついた時からこの家に住んでいる。玄関、というより扉を開けてすぐには事務所のような簡素な空間が広がっている。事務所の奥にある扉を開けると、そこに靴を脱ぐ場所とリビングがある。さらに奥にある二つの扉のうち、左手にある扉を開けると唯巫の部屋がある。とはいえ広くはない。さらに言えば地下なので窓もない。クローゼットとベッドがあるだけの簡素な部屋だ。明かりをつけなければ真っ暗になる。それでもリビングにはだいたい一つは明かりがついている。今日は志吾が出かけているのか、リビングの豆電球が一つついているだけだった。
壁のライトを手探りで見つけ二回押すと、リビングの明かりは全灯になった。唯巫は鞄を机に置き、宿題を取り出す。そして、宿題の前にと台所の戸棚にあるお菓子を探していると、くぐもった扉を開ける音がした。
「ただいまー」
この声は、茉秋のものだ。志吾はまだ帰らないらしい。
「おかえり茉秋、お菓子食べる?」
「おー、何がある?」
「せんべいと、ようかんと、バウムクーヘン」
「また志吾は和菓子ブームか。バウムクーヘンで」
茉秋は鞄を床に置き、そこから宿題を取り出す。志吾は勉強に関して口うるさい方なので、課題くらいはさっさと終わらせた方がいいのだ。
「はい。そうだ、志吾がいつ帰ってくるか知ってる?」
「いや、聞いてない」
「だよねぇ。毎度のことだけどどこで何やってるんだか」
前聞かされた話では、志吾は闇社会の仕事をしているようだった。それも、かなり深い位置の。
「…宿題、終わらせちゃお」
「ん。わかんないとこ聞いていい?」
「多分わかんないから無理」
「できろよ中学の内容だぞ」
そうして一時間もしないうちに二人が課題を終わらせた頃、扉が開く音がした。
「…ただいま」
扉を開けてから挨拶までに、妙な間があった。
「おかえりー。なんかあった?」
「いや?なんもないよ。お、宿題やってたの?」
「うん。もうおわったよ」
唯巫が出迎えると、志吾はいつもの笑顔で部屋に入ってきた。その手にはなにもない。そしてキッチンで手を洗うと、そのまま料理を始めた。
「あれ、買い物行ってきたんじゃないの?」
「いや、ただの散歩。それに財布忘れちゃってね。買えなかったの」
志吾は笑顔のまま料理をする。唯巫はそんなものかと思い、鞄に宿題をしまった。
志吾の料理は食べ慣れれば普通の味だが、時々味が薄い。志吾が薄い味を好んでいるのか、それとも味音痴なのかはわからない。味が薄いと言うと毎度ごめんねとだけ言っては言い訳をしないのだ。
「…何も知らないんだよねぇ」
唯巫はぼそりとつぶやく。弟は何も隠さない性格だし、自分だって兄弟にはなんでも言えると思ってはいるが、兄はそうではないようなのだ。いつだって遠くにいると感じるけれど、その距離が”いつか追いつく”というものではないとわかっている。道が、違いすぎるのだ。
「はいポテトサラダと野菜炒め。食べてていいよ。あと一品は待ってね。あ、茉秋ちょうどいいやご飯よそっちゃって」
目の前に大皿のおかずが置かれる。唯巫は食器を並べながら、ちょいとポテトサラダをついばんだ。味が薄い。立ったついでにマヨネーズでも取ってこよう。
「あれ、どうしたの?あ、味薄かった?」
「んー、ポテトサラダがね。味見した?」
「ポテトサラダ?したけど…」
「味見してるのに薄いのかよ」
茉秋は唯巫のご飯をずいと差し出して量を確認しながら言う。
「茉秋これもうちょい減らして。まあ志吾ってだいたいそうでしょ」
「ごめんねぇ、大丈夫だと思ったんだけど」
志吾の味付けが薄くなるのには周期がある。その周期が始まったかと思い、唯巫はしばらくスーパーの総菜を買おうと決めた。
「はい、生姜焼きー」
「わーい、いただきまーす」
食卓にはあたたかいご飯と生姜焼き、ポテトサラダと少し冷めた野菜炒めが並ぶ。塩と醤油が机の端に置かれているのはいつものことだ。志吾の味付けに不平たらたらだった二人のために置かれたものだ。
しかし、昔はもう少しまともな料理が出ていたと思う。料理のレパートリーこそ今より少なかったが、五年ほど前までは塩と醤油は食卓になかった。学校の給食は食べていたから、普通の味付けは知っていたと思うが。
「ごちそーさまでした。お風呂先入っていい?」
「いいよ。茉秋寝ないで。寝るなら部屋行きな」
樺根家には朝と打って変わって穏やかな時間が流れていた。