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九.初恋の残骸

『あたし、北海道で生まれたんだ』


 記憶を愛おしむように、愛実が目を細めた。


『農家さんが多い土地でね、知り合いのおじさんやおばさんが自分の畑で作った小豆を分けてくれるの。それを使って、おばあちゃんがいろんなおやつを作ってくれるんだけど、お餅の入った善哉がいちばん好きだった。なつかしいな』


 驚いたのは七葉だ。

 愛実の故郷も、七葉と同じ北海道なのか。


「わたしも……北海道から越してきたんです。札幌だけど」

 

 愛実は七葉のほうを見て、少しばつが悪そうに微笑んだ。


『そうでしょう。あなた、雪のにおいがしたもん』


「雪の……?」


『不思議よね。体がなくなってから、あたし、そういうことがわかるようになったんだ。この子も寒い地方から東京に来たのかなって、懐かしかった。だからあたしに気づいてくれたのかなって。みんなあたしのこと無視するのに……友達になりたいなって、思っちゃったの』


「気づいた? わたしが?」


「おい、まさか無自覚かよ」


 義経が呆れたように口を出す。

 そんなふうに驚かれても、七葉には死者の姿を見るような特殊能力はない。

 霊感があると思ったこともなかった。愛実に気づいたと言われても……。

 ぐるぐると思考を巡らせて、ある記憶に思い当たった。


「あー! 思い出した! 昨日の!」


『ひどーい、忘れてたの?』


 愛実がぷくっと片頬を膨らませる。

 そうだ。七葉は昨日、あの交差点で愛実に会った。雑踏のなかでぶつかりそうになって、謝った相手だ。


 女性が着ていた洋服は確か、こんな桜色のコートだった。

 あれは、幽霊となって彷徨っていた愛実だったのだ。彼女の姿が見えていたのは七葉だけだったということか。


(言われてみれば……愛実さんの服装、ちょっと違和感あるかも)


 人混みの中で、愛実だけが季節外れの厚着だった。

 彼女が命を落としたのが真冬で、そのままの姿で彷徨っていたというなら納得がいく……ような気もする。


「ともかく、愛実さん。お気の毒ですが、あなたの肉体は、もう失われてしまいました。二年も前のことです。魂になったあなたは、こちらにいる七葉さんの体に入り込んで、この店までやってきたのですよ」


『そうなんだね』

 

 玖楼の言葉に、意外なほど素直に愛実は頷いた。


「ずいぶん聞き分けがいいな。さっきまで、あんなにゴネてたのに」


 拍子抜けしたような義経に、愛実の表情がまた翳った。


『だって、知らなかったもん。自分がもう死んでるなんて』


「苦しかったでしょうね。聞き分けていただいて、ありがとうございます」


 玖楼が目を細める。


『うん。きっとあたし、あの交差点で車に撥ねられたんだね。よりによってクリスマスイブの夜に』


 交差点脇の看板に記されていた死亡事故の発生日時は、二年前の十二月二十四日。愛未が魂だけの存在になってしまった日だ。

 どんないきさつがあって、彼女は命を落としたのだろう。故郷から遠く離れた東京で。


「ねえ、愛実さん。その日なにがあっ」


『えっウソ、聞いてくれるっ!?』


 尋ねた七葉が台詞を言い終える前に、愛実がぐっと身を乗り出してきた。


「う、うん」


 想像以上のリアクションに気おされて、こくこくと頷く。


『嬉しい! あのね、ほんっとーにしょぼい話なんだけどねー!』

 

 話し始める愛実は完全にガールズトークのテンションだ。


「うわ、これ絶対長くなるやつ……」


「静かに、義経。聞いてあげましょう」


 天井を向いて呟く義経の唇の前で、玖楼が人差し指を立てる。

 ひと口お茶を飲んで喉を潤し、怒涛の勢いで愛実は続けた。


『北海道で真面目にOLしてたのよね、あたし。そこそこ大きめの保険会社の事務員。でね、そこで初めて彼氏ができたの。東京から転勤してきた男で、これがまあカッコよかったんだ。優しいし、頼りになるし、もうね、運命の人だって思ったの』


 宙を見る愛実の口もとに笑みが浮かんだ。

 終わってしまったその日々が、彼女にとって幸せな時間だったことが伝わって来る。


 ――彼女が恋に落ちたのは、十歳年上の営業担当の男性社員。

 ブランドもののスーツを着こなし、話題も豊富で明るい彼に、ひと目で惹かれた。

 自然豊かな田舎町でのびのび育ち、就職を機に地方都市で一人暮らしをしていた愛実にとって、彼は、はじめて触れた都会の香りのする大人だった。


 憧れにも似た純粋な好意は、相手にも伝わったようだ。ふたりはすぐに深い関係になった。

 男はいつも優しい。まさに理想の恋人だった。

 ある夜、仕事が辛いと愚痴をこぼす愛実に、彼は言った。


「嫌なら辞めて、俺の奥さんになればいいよ」


 いつか結婚したいね。

 会うたびに甘く囁かれるその言葉だけで、愛実は彼を信じられたのだ。


『職場のみんなには内緒でつきあってたの。で、一年経ったくらいかな。彼が東京の本社に戻ることになったんだよね。でもさ』


 ついて来い、と言われなかったことに、愕然とした。

 てっきりプロポーズされると思っていたのに。

 

『……彼、東京に引っ越してからも、しょっちゅう電話もくれるし、好きだって言ってくれた。なのに結婚の話となると煮え切らなくて。離れてるからとか今は無理とか、愛実も仕事があるだろうとか、ぐちゃぐちゃ言ってさ。そんなことないよって、あたし本気だよって、証明してみせようと思ったの』


 半年が経ち、このままでは埒があかないと焦れた愛実は、思い切って仕事を辞めた。

 一人暮らしのアパートも引き払って、東京へ行くことを決めたのだ。誰に相談することもなく、自らの決断で。


『仕事なら東京でも探せるもん。すぐに条件のいい職場は見つからないかもしれないけどさ、どんなきつい仕事をしたっていいと思ってたよ。……彼と一緒に暮らせるなら』


 勝手に退職と転居を決めた愛実に、故郷の両親はカンカンになって激怒した。

 いつも味方をしてくれる祖母も、東京行きには反対だった。


『大丈夫? 愛実ちゃん。相手の人、本当に信用できるの? たったひとりで知らない土地に行くって大変なことなんだよ』


『大丈夫。大丈夫だよ、おばあちゃん。第一、ひとりじゃないもん。彼と一緒に住むんだから』


『だけど、結婚しようって言われてないんでしょ? その人、ちょっと無責任じゃないのかい……』


『彼のこと悪く言わないでよ!』


 大丈夫。大丈夫。

 彼は、あたしを愛してる。

 優しいけど、ちょっと気が弱いところがある人だから、決断できないだけ。

 あたしのほうから胸に飛び込んでいけば、必ず迎えてくれる。

 ちょっと驚いた顔をするかもしれないけど、喜んで受け入れてくれるはずなのーー。


『でね、荷物抱えて東京に来て、すぐに会いに行ったわけ。超ベタなんだけど、クリスマスイブに。その日も彼は仕事のはずだから、会社の外に出てきたところでサプライズ仕掛けようと思って。「お疲れさまー! ビックリした?」とかいうの、やってみたかったんだよね』


「そりゃたしかにベッタベタだな。しかも古……あて!」


 口をはさみかけた義経が、久楼に耳を引っ張られて黙る。

 向かいの席の茶番に構わず、愛実は続けた。


『喜んでもらえるって本気で思ってたの、あたし。お金もないのにクリスマスプレゼントにって、明星百貨店でイタリア製のネクタイ買って。街のイルミネーション、すごく綺麗だった。感動の再会には最高のロケーションだなってわくわくしてた。……バカだよね』


「そんなこと、ないよ」


 今度は七葉が口を挟んでしまった。

 

 嘲笑う気になんて、到底なれない。

 すべてを投げ打って故郷を離れ、好きな人を目指して東京に来た愛実。その決意と行動力には感心さえする。

 恋をしているときのキラキラした気持ちは、誰にだって覚えのあるものだ。そう、七葉にも。

 

 愛実が、ふっと寂しげな笑みを浮かべた。


『彼、意外と早く出てきたんだけど。……女と一緒だった。あたしの知らない、女』

 

 オフィスビルの入り口に現れた恋人の隣には、愛実の知らない人がいた。

 上質そうなコートを着て、高いヒールの靴を履き、高級ブランドのバッグを持った女性が。


 呆然と見つめる愛実に気づいた男は、慌てて目を逸らした。あろうことか、そのまま立ち去ろうとする。


『当然、ガンガンに問い詰めたよね。どういうこと? この女だれ? 遠距離になったからって浮気してたの!? って』


 詰め寄る愛実を無視して、男は隣の女性に向かって必死に弁解した。

 こんな女は知らない、会ったこともない。こいつの言っていることはデタラメだ―――。


『……あいつ、東京に女がいたの。ていうか、あたしが転勤先の現地妻みたいな感じだったっぽいねー。とにかく、あたしは捨てられた。しかも本命の前でバッサリ斬られてさ。もう情けないったら』


 まるで、七葉自身の話を聞いているようだ。

 愛実が男の不実に気づかなかったように、七葉も慶一に二股をかけられているなど想像もしなかった。あとになって考えてみれば、おかしなことはあったのに。

 二人でいるときは優しい慶一は、職場では不自然なほど七葉を避け、目を合わせようともしなかった。

 同僚にバレると冷やかされて恥ずかしいからと彼は言っていたけれど、あれは同じ職場に理華という婚約者がいたからだ。

 

「それで、どうなったの……?」

 

『とりあえず思い切り罵ってやった気はするね。大嫌いって。そんな短時間で嫌いになれるほど、器用じゃないんだけどね』


 ぽつりと愛実は答え、付け足した。

 ――本当に好きだったから、と。


『そのあと、どこをどう歩いたかわかんない。悔しくて腹が立って、なんにも考えられなくて。でも、すごく寒かったことは覚えてる。彼に可愛く見られたくて薄手のコート着てきちゃって、東京の寒さをなめてたなって後悔したことも』


 広いはずの東京に、愛実の行き場はどこにもなかった。

 故郷にも帰れない。親とは大喧嘩をしたままだ。唯一の味方だった祖母にも啖呵を切って出てきてしまった。絶対に彼と結婚すると。


 凍えてゆく体。

 ひび割れた心に、祖母の優しい笑顔が浮かんでは消えた。

 

 帰りたい。

 東京なんて嫌い。

 帰りたい。おばあちゃんに会いたい。

 でも、今さら帰れない。どうしたらいいの……。


『……で。いつのまにか、あの道路まで来てたの。横断歩道を渡り始めたところで急に目の前が暗くなった気がする。……たぶん、信号は赤だったんだね。ずうっと下を向いて歩いてたから、気が付かなかった。あーあ、ほんと最期までしょぼい。あれじゃ自殺みたい。しかもかなりメーワクなやつ。あたしを轢いた人にも謝りたいわー』


 おどけるように言って愛実は上を向き、両手をひらひらさせて顔を仰ぐ。

 彼女の目尻に光るものを見て、七葉の胸が、ズキンと痛んだ。


(この人、わたしに似てるかも……) 


 痛いほどわかる。愛実の気持ち。

 大好きな人に裏切られた惨めさ。まるで自分が食べかすにでもなったような、やるせない気持ち。

 愛実が下ばかり見て歩いていたのは、きっと泣いていたからだ。

 道行く人に泣き顔を見られたくなくて、それで……。


「それからずっと、あの場所にいたの?」


『うん。どうしていいか、わかんなくて。東京の道、知らないもん』


 自分が既に死んでいることにも気づかないまま、二年もの間、愛実はあの場所で立ち尽くしていたのだ。たったひとり、誰にも顧みられることもなく。


 そんなときに声をかけてきた七葉に、思わず縋りついた。

 自分の傍に呼びたくて、七葉の体に入り込み、死者の世界に誘おうとした。

 今までの怪異は、すべて彼女のせいだったのか。


 ――お前は悪霊だ。

 義経が愛実に向けて放った言葉を思い出す。


 たしかに、部屋の窓にこびりついた手の跡や、棚の奥から睨み付けていた目は、恐ろしかった。思い出すと、改めてぞっとしてしまう。 

 でも、どうしても。

 七葉は、目の前にいる愛実を憎めなかった。


 慣れない都会に、ひとりきり。壊れてしまった初恋の残骸を抱いて、故郷にも帰ることができずに立ちすくんでいる。

 彼女は、もうひとりの自分のように思えた。





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