八.ほうじ茶と小豆善哉
すぐ横で、玖楼が静かに見下ろしている。
テーブルの向こうには義経。
七葉と目が合うと、諭すように彼は言った。
「なあ、七葉の中にいる、お前……愛実だっけ。いつまでもこんなところでフラフラしてちゃ駄目だろ。ましてや無関係のやつを引っ張っても意味ない。お前の寂しさも苦しみも消えないよ」
『む、り』
即答する。その声は七葉の喉から出たはずなのに、七葉のものではなかった。
もっとトーンの高い、別人の声。
七葉の中にいる、あの雪原の女の子――愛実の声だ。
『無理。ぜったい、無理……帰らない』
「なんでだよ。さっきは帰りたいって言ってたくせに、意地っ張りだなあ」
『あんたになんか、わからないわよっ』
叫んだ途端。
ぐるるるうぅぅぅーーっ、という低い音が、店内に響きわたった。まるで獣の唸り声のような。
(え? 何かいる!?)
怯えてあたりを見回す七葉の耳に、もう一度同じ音が聞こえた。
ぐーうぅぅ。
目を丸くした義経が動きを止め、まじまじと七葉のお腹を見る。
そして堪えきれなくなったように、ぷっと吹きだした。
「吠えてるよ、腹の虫」
「い、言われなくても!」
咄嗟に言い返したのは愛未だったのか、七葉だったのか。半分以上は七葉の意志だっただろう。
人前で、それも異性の前で、空腹のあまり盛大にお腹を鳴らしてしまうというのは、大概の人間にとってなかなかに恥ずかしいものだ。
七葉と愛実のあいだに妙なシンパシーが生まれてしまったことは否定できない。
「だからちゃんと食えって言ったのにー。あー恥ずかしー」
青年が煽るようにクスクス笑う。
ふたたびシャンデリアが点滅し、テーブル上のランプの炎がボウッと暴れた。
『放っておいて! あんたなんか大きらい……』
立ち上がろうとした七葉の前に、すっと何かが差し出された。
『……?』
テーブルの上に置かれたのは、木の盆に載せられた器と茶碗だ。
驚いて見上げると、傍らには店主の玖楼が笑顔を浮かべて立っていた。
「どうぞ、お召し上がりください」
『は?』
茶碗からは、かすかに白い湯気があがっている。
ほんのりと立ちのぼる、お茶の優しい香り。
その隣の白と青が美しい器には、小豆餡と白餅の善哉が盛り付けられていた。
『これって……!?』
「ごらんのとおり、小豆善哉です。喧嘩の続きは食べ終わってからがおすすめです。ほら、腹が減っては戦はできぬというでしょう?」
さらなる満面の笑みで玖楼は食べることをすすめてくる。義経とはベクトルが異なるが、どっちもどっちの強引さだ。
「小豆善哉によく合う温かいお茶もご用意しました。さあ、まずは一口」
(なんなの、この展開?)
戸惑いながらも視線はもう、盆の上に釘付けだった。
飢えと寒さに凍える体が、目の前に提供されたお茶の熱さと小豆の甘さを渇望しているのだ。
両手を伸ばし、震える両手で七葉はカップを包みこんだ。
氷のように冷えた指に、じんわりと熱が伝わる。
カップを持ち上げて唇をつけた。
中身は、ほうじ茶だった。熱いお茶が、凍える体の芯へと染みわたっていく。
カップを置き、小豆善哉の器に添えられた木製の箸をとった。
ふっくらとした小豆の粒を、そっとすくう。
つやつや光餡は、赤みを帯びてみずみずしい。
(……あったかい)
小豆餡の優しい甘さが、舌の上で溶けてゆく。
次に、餅を口へ運んだ。弾力のなかに、ほのかに米の風味が感じられる。
あとひと口、食べたらやめる。
あとひと口、もうひと口だけ……そう思いつつ、七葉は夢中になって匙を動かしていた。
『……美味しい』
知らぬ間につぶやきが零れる。
「美味いだろ」
義経が顎を上げる。善哉を用意してくれたのは玖楼なのに、まるで自分がつくったような得意げな表情だ。
『うん』
その台詞は、左側の席から聞こえた。
はっとして隣を見ると、七葉の隣に若い女性が座っている。
化粧の薄い、まだ幼さの残る顔立ち。セミロングの黒い髪。まだ九月なのに、桜色の冬物コートを着ている。
松倉愛実。おそらく、あの交差点で命を落とした女性。
魂だけになって七葉の中に入り込んでいたのが、体から抜け出してきたのだ。
いつのまにかシャンデリアの点滅は止み、店内には平静が戻っている。
静かに揺れるテーブルランプの炎の前で、愛実はつづけた。
『おばあちゃんの手作りの善哉の味に似てる。ていうか、そっくりだよ。あたしが子供の頃、ご近所さんに貰った小豆を焚いて、おやつによく作ってくれたの。大好きだったんだ』
「そうですか。お気に召していただけてよかった」
愛実の言葉を受けて、玖楼が顔をほころばせた。
落ち着いてよく見ると、玖楼の顔立ちがとても端正であることに気づく。
義経の、ややきつめに整った美貌とは対照的な優しい美貌の持ち主だ。
「この小豆は、北海道のIという町で収穫されたものです。あなたの故郷ですね、愛実さん」
『うん。あたしの、ふるさと』
まるで少女のようなあどけない表情で、愛実は頷いた。