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七.死者の声

 店内に入って最初に目に飛び込んできたのは、天井から吊り下げられたシャンデリアだった。

 シャンデリアといっても、フランスのベルサイユ宮殿にあるようなそれではない。乳白色の鈴蘭型シェードを六つ連ねた、どこか和のテイストを感じさせるタイプのものだ。


 黒光りする木の床は、一歩あゆむごとに僅かに軋む。どこか懐かしい、あたたかみのある音だ。

 無人の店内に並ぶのは重厚感のある焦茶色のマホガニーのテーブルと、背もたれの部分に凝った細工を彫り込んだハイバックチェア。座面には紅い天鵞絨が張られている。

 ひとつひとつのテーブルの上には、石油ランプが置かれていた。油壷は瑠璃色のガラス製。透き通る火屋の中でオレンジ色の炎が揺れている。


 通りに面した窓は優美なアーチ型。入り口の扉と同じように、ステンドグラスで彩られている。

 店の奥にはカウンターがしつらえてあり、その壁一面を陶器のカップやソーサー、それに茶葉の瓶や珈琲豆が入っていると思しき容器が埋めていた。


 まるで――そう、百年前の日本にタイムスリップしたかのような、和洋折衷、アンティークそのものの喫茶店だ。


 窓際のテーブル席に七葉を座らせたところで、ようやく青年は手を離した。自分も向かいの席に勢いよく座る。


 ここへ来て、七葉の怒りの温度が、またふつふつと上昇をはじめていた。

 なんだって見知らぬ青年に、いきなり喫茶店に連れてこられなければならないのか。


『帰る』


 七葉の中にいる「誰か」が憮然と席を立とうとする。

 なぜかはわからないけれど、恐怖を感じていた。ここにいてはいけない、と。

 そのとき、


「いらっしゃいませ」


 真横から急に声がして、振り返った。

 誰もいないと思っていたのに、いつのまにか、すぐ隣に金の把手つきのトレーを持った黒髪の男性が立っていた。


 三十歳手前くらいだろうか。目の前に座る青年ほどではないものの、彼もすらりと背が高い。

 清潔感のある白いシャツに黒いベストをきっちりと着て、やはり黒の細身のスラックスを履いている。喫茶店の主人として、まさに理想の装いだ。


「まあ座れって」


 義経がやんわりと七葉を席に押し戻す。

 勢いをくじかれて、浮かせた腰を渋々椅子に戻した。


「ご来店ありがとうございます。私の名は玖楼くろう。当喫茶の店主です」


 優美な仕草で、彼は水の入ったグラスを置く。昔風情の切子の施された美しいグラスだ。

 食器や内装の古めかしさを考えると、店主の若さは少々意外に思えた。

 銀縁眼鏡のレンズのむこう、奥二重の黒い瞳が七葉の目を覗き込む。


「久楼、頼む。七葉こいつの中にいるやつを引き出してくれ」


 苦い表情で、義経が店主の青年に言う。


(引き出すって、何のこと?)


 彼の言っていることの意味が皆目わからない。

 ピリピリとした空気には不釣り合いなほど優しい笑みを口元に湛えて、九郎と名乗った店主は唐突に問いかけてきた。


「お客様、お名前は?」


『名前?』


 たまたま入った喫茶店の店主が客の名前を尋ねるなんて、ありえない。普通は注文をきくところだ。


「そうです。お名前を教えてください」


 店主の声は深く優しい。なぜか体の奥まで響いていくようだ。

 七葉の唇が、勝手に動いた。


『……アイミ』


(え?)


 自分で自分の耳を疑った。


(なにを言ってるんだろう、わたし)


 名前なら篠森七葉だ。アイミって誰?

 意思に反して、七葉の口は言葉を続ける。


『アイミ。……マツクラアイミ』


「歳は、いくつ?」


二十歳はたち


 まただ。なぜ、こんな答えを返してしまうのか。

 七葉は二十一歳。二十歳じゃない。なのに、すらすらと答えが口をついて出る。


(もしかして……私の中にいる別人が話してる!?)


 ずっと厳しい表情だった金髪の青年の目もとが、少し緩んだ。


「二十歳か、若いな。そりゃ悔しかっただろう。お前の気持ちもわかるけど」


『嘘いわないで!!』

 

 七葉の右手が、ドン、とテーブルを叩き、石油ランプの炎が揺れた。


『あたしの気持ちなんて誰にもわからない。あんたなんて大嫌い、あんたが邪魔しなければ、この子はこっちに、あたしのところに来たのに! あと少し、あと少しだったのに!』


 火照る感情とは裏腹に、悪寒は更に増していた。

 吐いた息が白い。店内がこれほど寒いのに、金髪の青年も店主の九郎も薄着で平然としているのが不思議でならなかった。


『あたし、さみしいんだもん。ずっとひとりぼっちなんだもん。だから、この子にそばにいてほしいの……っ』


 黒い霧がかかったように、七葉の視界が暗くなる。息が苦しい。

 天井のシャンデリアが点滅し、ゆらゆらと揺れ始めた。

 テーブルに置かれたランプの炎が、火屋から噴きだしそうなほど大きく暴れる。

 正面に座る青年の眉間に、ふたたび皺が刻まれた。


「やっぱり、死者か」


(死者?)


 いま彼は、確かにそう言った。

 傍らの久楼も小さく頷く。


「この付近で亡くなった女性のようですね。交通事故ですか。お気の毒に」


亡くなった、という不穏な言葉で、さっき見たばかりの映像が脳裏にフラッシュバックする。

 横断歩道の脇に掲げられた、死亡事故発生現場の看板―――あれは、まさか。

 あの事故で命を落とした人物が、いま七葉の中にいるというのか?


「なるほど、寂しいから仲間が欲しいのか。かわいそうだけど、生者を引きずり込むような真似をするんじゃ、お前は悪霊だ」


『そ……んな……』

 

「そういう言い方はやめなさい、義経よしつね。亡くなってから時間が経ったせいで負の感情だけが増幅されているようですが、もとは悪い人ではなさそうですよ」


 苦しさのあまりテーブルに突っ伏す七葉の耳に、諫めるような久楼の声が聞こえる。そして、


「アイミさん」


 七葉の中にいる「死者」に向かって、彼は呼びかけた。

 

『……なによ』


「彼女が傍にいれば、アイミさんは満たされますか?」


『は……?』


 首をまわして見上げると、思っていたより近くに久楼の顔があった。

彼は床に膝をつき、目線の高さを七葉と合わせているのだ。

 慈愛に満ちた眼差しが、そこにある。

 張りつめた気持ちの糸がふと緩んだところへ、もう一度尋ねられた。


「あなたの本当の願いは、何です?」


 その問いかけは、すとん、と胸の奥に落ちる。

 七葉の中に、ひとつの言葉が浮かび上がってきた。


 ―――カエリタイ。


『かえり、たい……』


「かえりたい? どこへ?」


 七葉の中にいる誰かが、声を振り絞った。


『おばあちゃん……の、ところ……』


 途端に、黒い靄に閉ざされていた七葉の視界が、一気に白く開ける。


(雪……?)


 気が付くと、純白の光景の中に茜は立っていた。

 金髪の青年も、銀縁眼鏡の店主もいない。茶寮もない。一面の雪景色だ。

 目の前には、作りかけの雪だるま。


「……ちゃーん」


 遠くから呼ぶ声に、振り返る。

 降りしきる雪の向こうに、一見の民家があった。初めて見る景色のはずなのに、どこか懐かしい。

 赤い屋根の平屋の横には、錆びの浮いた緑色の灯油タンク。

 その前で、誰かが手を振っている。


「あいみちゃーん」

 

「なーにー、おばあちゃん」


 答える七葉の声は、幼い少女のそれへと変わっていた。

 声だけではない、体もだ。

 雪野原の中で七葉は、小さな子供の姿で佇んでいた。

 両手に嵌めた手袋には、黒いマジックで文字が記されている。大人の文字で書かれた名前は「1年3組 松倉愛実」と読めた。


(これ、わたしの記憶じゃない!?)


 わずかに残る自意識で、七葉は懸命に考える。

 混乱していた。いったい自分は何を見ているのか、これは誰の記憶なのだろう。


「あいみちゃーん、おやつの時間だよ。もう帰っておいでぇ」


「はーい!」


 見知らぬ少女の体で、七葉は家へ向かって走り出す。

 嬉しさで胸が高鳴る。

おうちに帰ったら、甘いおやつが食べられる。あいみの大好きな、おばあちゃんの手作りの。


 ――ああ、と、七葉は思った。

 これはたぶん、愛実の記憶だ。


 なぜかはわからないけれど、七葉の中に松倉愛実という女性の意識が入り込んでいる。

 愛未が過去を思い出しているのだ。そしておそらく、彼女はもうこの世の人ではない。


 七葉の中から出て行ってもらわなくては。このままでは支配されてしまう。


 さっき、車道にさまよい出た七葉が車にはねられそうになったのは、愛未に誘い出されたせいだったのだ。

 ひとりぼっちの彼女が、寂しさを埋めるために「呼んだ」から。

 荒れ狂う感情は、愛未の感情。悔しくて悲しくて寂しい、愛未の心だ。


「ご家族に、会いたいのですね」


 澄み渡る空気の中に久楼の声が響いた。

 一瞬にして雪景色は消え、七葉の意識は喫茶店のテーブルへと引き戻された。



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