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六.あやかしの町の喫茶店

 担当者。

 この言葉が彼の口から出るのは二度目だ。

 意味がわからない。でも、確かに間一髪のところで彼は七葉の命を救ってくれたのだ。


(でも待って。この人、わたしの名前を呼んだよね?)


 どうして彼が七葉の名前を知っているのだろう。しかもフルネームで。

 理由を訊かなきゃ、それに命を救ってくれたお礼も言わなきゃ。

 しかし七葉の口をついて出たのは、まったく違う言葉だった。


「余計なことして!」


 自分の大声に自分で驚く。


(え? え? わたし、なに喋ってるの!?)


 心の中では大混乱だ。

 なのに自分の意思に反して、思ってもいない言葉が次々と吐き出されてくる。


「あと少しだったのに! どうしてくれるの? あんたさえ邪魔しなければ、あと少しで!」


 まるで体の中に別の誰かがいて、七葉の声帯を借りて喚いているようだ。

 時刻は午後八時三十分。まだ人通りも多い。道行く人々が好奇の目で振り返るのを感じたが、止められない。


 青年が、すっと目を細める。


「あと少しで、何?」


 問いかけは、ひどく意地悪に聞こえた。

 言い返そうと息を吸った七葉の体が、ぶるぶると震えだす。


(寒い……)


 悪寒は一秒ごとに増していた。いまや真冬の雪原に立っているかのようだ。

 そんなはずはない。まだ九月だ。歩道を歩いているサラリーマンたちの中には、上着を脱いで歩いている人さえいる。

 それでも、寒い。寒くてたまらない。


 ひときわ強い風が吹く。

 膝についた七葉の左手を、青年の大きな手が、ぐっと包み込んだ。温かい。


「ついて来い」


 そのまま振り向きもせずに、七葉の手を引っ張って歩道の上を歩き出す。

 あまりにがっちり手を握られてしまっているため、振りほどくこともできない。ストライドが大きいぶんスピードも速くて、ついていくほうは転びそうになる。


「ちょ、なに、どこへ行く気? あんた誰なのよ!?」

 

 引きずられながら七葉は問いかけた。いや、問いかけたのは七葉の中にいる誰かだ。


 青年が振り向いた。

 そして、ふっと微笑む。


「俺か? 俺は篠森七葉の担当者」


 七葉の手を引く彼が、ひょいと角を曲がった。

 その先は小さな路地だ。いつも通勤の際に横を通る、ビルとビルの間に挟まれた狭い道。

 毎日、横目にちらりと見るだけだが、店はおろかゴミ箱の類さえ置かれておらず、昼でも薄暗い。


 右側の建物の壁に、朱色に塗られた鉄製の扉があった。

 迷いの欠片もない仕草で、青年がその古びた扉を開ける。


 途端に、まばゆい光が溢れ出た。

 思わず目を閉じた七葉が、次に瞼を上げたとき。

 そこに広がっていたのは、あまりにも意外な光景だった。

 

(―――なに、ここ)


 入口から覗いたらときには、たしかに何もなかったはずなのに。


 七葉の目の前に、街があった。

 広い道の両側には、石造りの大きな建物が軒を連ねている。古めかしいのにどこか西洋風の、何やら不思議な光景だ。

 どの窓にも煌々と明かりが灯り、道を照らしているのはガス燈。そして石畳の路上には、表通りに負けない数の通行人の姿があった。


 ……ただ、どうにも様子がおかしい。


 すぐ近くを通り過ぎた男性は、和服にインバネスコートを羽織っていて。

 彼が連れている子供たちも、縞の着物を着ている。

 通りの向こうの柳の木の下では、芸者風の装いの女性二人連れが立ち話をしていたり。

 スーツ姿の紳士と、スカートの後ろを大きく膨らませた貴族のようなドレスを着た女性が連れ立って洋食店に入っていったかと思えば、詰襟の学生服を着た少年が自転車で走りすぎていく。


 大正も昭和も平成も令和も、時代がごちゃまぜの空間に放り込まれた気分だ。


(何なの、ここ……?)


 やがて一軒の店の前で、青年が足を止めた。

 石造りの、こじんまりとした二階建て。一階部分が店舗になっているようだ。

 今時なかなか見ないアンティークな木製扉には、梟を描いたステンドグラスが嵌っている。

 扉の脇にはランタンが吊り下げられ、その下の壁に埋め込まれた真鍮の看板をやわらかく照らしていた。


【純喫茶ひかり】


 看板の文字は、そう読める。


「こんばんは。あなた、はじめて見る顔ね」


 下のほうから、可愛らしい声がした。

 いつのまに寄って来たのか、七葉の足元に一匹の黒猫がいた。

 行儀よく前足を揃え、おすわりの姿勢で見上げている。右目が黄色、左目が銀色のオッドアイだ。


(子供の声で話しかけられた気がしたけど……?)


 小さな子供の姿は見えない。

 代わりに、黒猫の口元が動いた。みゃあ、とでも鳴くかと思いきや、


「あわいまちへようこそ」


「しゃ……ね、猫が喋っ……!」


「そういうの後にしてくれ、小毬こまり。いま取り込み中なんだ」


 迷惑そうな青年に言われ、黒猫は小首を傾げた。


「だって珍しいんだもの。ヨッシーが此岸しがんの子を連れてるなんて」


「その呼び方もやめろって。おれヨッシーじゃないから、義経。ちゃんとした名前があるから」


 どさくさに紛れて青年が名乗る。

 義経。どこからどう見ても今風のカジュアルな若者といった彼の容姿からは想像もつかないクラシカルな名前だ。

 

「ねえねえヨッシー、その子だれ? お嫁さんにするの? だから連れてきたのよね?」


「うるさいな。小鞠、あっち行ってろ、緊急事態なんだよ」


「なによう、つまんないの」


 ふてくされた子供のようにつんと横を向き、小毬と呼ばれた黒猫は立ち上がった。

 体に隠れて見えていなかった尻尾が見える。


 問題は、その本数だった。

 一本、二本……全部で三本。


「尻尾が、三本ある……!?」


「そうよ。すごいでしょう」


 黒猫が、これ見よがしに長い毛の尻尾を三本フワッと持ち上げ、扇のように広げた。その姿は少女歌劇のショーで大きな羽を背負うトップスターを連想させるものがある。


 尻尾が三本ある種類の猫なんて聞いたことがない。少なくとも、現実世界では。


 呆気にとられている七葉に向かってクスッと笑い、ゴージャスな後ろ姿で三本尾の猫は走り去っていく。

 唖然としながら、七葉は子供の頃、祖母が聞かせてくれた話を思い出していた。


『長生きした猫はね、だんだん尻尾の数が増えて、不思議な力が使えるようになるんだって。猫又っていって、人の言葉を話せるようになったりね』


『ほんと、おばあちゃん? なな、ねこちゃんとおしゃべりしたい!』


『ななちゃんは面白い子だねえ。そうだね、もしも尻尾がたくさんある猫に会ったら話しかけてみようかね』


 まさか……あれが猫又!?


「よし、入れ」


 片手で七葉をつかまえたまま、もう片方の手で青年は喫茶店の扉を開く。

 驚きのあまりすっかり抵抗するのを忘れていた七葉の足は、あっけなく店の中へと踏み入ってしまう。


 カランコロン。

 背後で閉じた扉に取り付けられた鐘が、どこか懐かしい音色を奏でた。



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