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五.担当者ふたたび現る

「……さん。篠森さん!」


 名前を呼ばれて、目を開けた。

 知っている顔が、眉を寄せて七葉を見下ろしている。


「京子、先輩……」


「よかった、意識が戻ったのね」


 七葉が反応したのを見て、京子はわずかにホッとした表情になった。


「篠森さんがなかなか戻ってこないから様子を見にきたのよ。そうしたら倒れてるんだもの、びっくりした」


「わたし……倒れて……?」


 体の下の固く冷たい感触で、自分が床に這いつくばった態勢でいることに気づく。顔の横には、横倒しになったオレンジ色の脚立。

 

「脚立から落ちたのね。大変だわ」


「だい……じょうぶ、です。すぐに売り場に戻ります」

 

 体を起こそうとして、ぐらりと頭痛がした。落下した際に頭を打ったのかもしれない。


「動いちゃだめよ。待ってて、いま救急車を呼んでくる」


「そんなことしたら、休憩時間がずれて皆さんに迷惑が……」


「そういうのは迷惑って言わないの! 無理して大事になったほうが、こっちはやることが増えるんだから」


 厳しい声で叱りつけられる。

 やがて駆けつけた救急隊によって、七葉は慌ただしく病院へと搬送されることになった。


 ・ 

 ・

 ・


 何が起きたのかと、京子にも救急隊員にも、そして医者にも訊かれた。  


「うっかりして、脚立を踏み外しました」


 七葉は全員にそう答え、本当のことは言わなかった。言えなかった。

 信じてもらえるはずがない。

 話したところで、頭がおかしいと思われるのが落ちだ。自分でも、あれは見間違いだったと思いたい。……でも、見た。たしかに見た。


 棚の奥に、人間の目が――目だけが、あって。

 何かを訴えるように、こちらを見つめていたのだ。

 


 

 病院での滞在は予想外に長くなってしまった。

 各種検査や点滴を終えて職場に戻ることができたときには、もう外は暮れかけていた。


「ご迷惑をおかけしてしまって申し訳ありませんでした」


 おでこに大きな絆創膏を貼り付けたまま、ふたたび制服に着替え、先輩社員に向かって深々と頭を下げる。

 縮こまる後輩を無言で見下ろし、真美は大袈裟にため息をついてみせた。


「あー疲れた。誰かさんのおかげで残業になっちゃった」


 そして京子にだけ「お先に」と告げると、わざとヒールの音を強く鳴らすようにして売り場を出ていく。明らかに怒っている。七葉が病院に運ばれたせいで、早番シフトの真美は定時退社できなかったのだ。


「ほんとうにすみません、真美先輩」


 去っていく横顔に重ねて謝る。


「病院から直行で家に帰ってよかったのに。無茶するわね、あなたって」


 通し番で残る京子のほうは、むしろ呆れた様子だ。


「京子先輩、救急車を手配してくださってありがとうございました」


「別にお礼を言われることでもないし」


 言ったきり、京子は売り上げ入力のパソコン作業に戻る。

 既に閉店時間が迫っていた。

 今日の営業終了を告げる音楽が流れるなか、七葉と京子は黙々と締め作業を行う。会話もなく。

 いつものことだ。先輩たちにとっての七葉は、ただの「人員」で、いなければ仕事が増えるから困るけれど、すすんで口をききたい相手ではないのだ。

 店内音楽が終わった頃、「ねえ」と、めずらしく京子が声をかけてきた。


「篠森さん。聞いていい?」


「……は、はい! 何でしょうか」


 ふだん話しかけられることなど滅多にないので、驚きと嬉しさが声に滲みでてしまう。そんな七葉に、表情のない声で京子は問うた。


「あなた、同じ職場の先輩社員の婚約者を横取りしようとしたって聞いたけど。あれ、本当なの?」


 驚いた。直球だった。

 地元での三角関係トラブルは、やはりここでも知られていたのだ。

 そうだろうとは思っていたものの、ここまでストレートに質問をぶつけられたのは初めてだった。


 短い沈黙のあと、七葉は首を縦に振った。


「……はい」


「それが原因で転勤させられたっていうのは?」


「それも、本当です」


 ――弁解したくないかと、もしも問われたら答えはノーだ。

 でも、京子や真美の気持ちもわかる。

 百貨店は女性の多い職場だ。先輩社員の恋人を横取りした(ことになっている)七葉を好意的に迎えろというほうが無理な話だろう。


(……仕方ないんだ。全部)

 

 慶一を好きになったこと。

 彼の恋人を傷つけたこと。

 縁もゆかりもない東京への転勤を受け入れたこと。


 いまの状況は、すべて七葉自身の行動の結果。

 だから言い訳はしない。誰のせいにもできない。失ったものが大きくても、誰にも信用してもらえなくても。

 

「ふうん」


 京子は無表情で七葉を見ていた。そして、


「じゃあね。お疲れさま」


 そっけない声で言うと背中を向け、そのまま行ってしまう。


「お、お疲れさまでした!」


 後ろ姿に頭を下げると同時に、客用のフロア照明が落ちる。

 冷たい沈黙が降りてきた売り場には、七葉ひとりが残された。



 ★ ★ ★ ★ ★



  ロッカールームで私服に着替え、七葉はのろのろと従業員用エレベーターに乗り込んだ。


 これで明日から、京子もいよいよ七葉と言葉を交わさなくなるだろう。

 七葉が「他の女性の恋人を奪おうとした魔女」だと確定したのだから。


 京子の質問に正直に答えれば、自分にとって不利になることはわかっていた。

 でも、自分の気持ちに嘘はつきたくなかったし、過去を捻じ曲げたくもなかった。


 エレベーターが一階に着くまでの間、壁に張られた催事企画の計画表を見るとはなしに眺める。

 婦人服のセール、高級ブランドバッグのオーダー会などと並んで、『北海道うまいもの展』の文字がある。


(北海道……)

 

 百貨店において、七葉のふるさと北海道の食品を集めて販売する催事は「ドル箱企画」と呼ばれるもののひとつだ。

 広大な北海道に点在する人気の特産品やスイーツなどが、催事フロアに一堂に会する。あちこち遠出して買いまわる手間が省けるし、限定品の販売もあるから、美味しいもの好きな人には見逃せない。

 新卒で配属された札幌店でも年に二度ほど企画され、そのたびに大勢の来店客を集めていた。東京で開催する際の集客力は、それ以上だと聞いている。


 教えてくれたのは、慶一だった。


(今度の北海道物産展には、なにを持ってくるのかな)


 うに丼、かにめし、エゾシカ肉のハンバーガーにスープカレー。

 アップルパイにホワイトチョコレート、チーズ味のオムレット。

 ……そして、慶一と出会った老舗喫茶店のフルーツサンド。


 いままでに食べたあれこれが脳裏に甦る。

 どれも美味しくて、幸せな記憶とともに思い出されるものばかりだ。


 とはいえ七葉自身は、今日も何も食べていない。

 食欲が湧かない。もっと言えば、生きる気力が湧いてこない。自分で思う以上にメンタルが弱ってしまっているのかもしれない。


 従業員通用口から外に出れば、生ぬるい風がよどんでいた。


(……あの狐、いないかな)


 目だけで探してみたけれど、見当たらない。

 交通量の多い道路の前で、いつもどおり赤信号につかまる。

 信号待ちを始めたところで、ふと、掃除用具を買い忘れたことを思い出した。


 部屋に帰ったら、窓ガラスに残った気味の悪い手の跡を拭き落とさないといけない。作業に必要な道具を買ってから帰ろうと思っていたのに、昼間いろいろなことがありすぎて、すっかり忘れていた。


 スーパーに寄るには、来た道を引き返す必要がある。そんな元気は残っていなかった。


(……もう、キャパオーバーかも)


 あの手形は、何なんだろう。

 昼間、用度室で見た二つの目は、何だったんだろう。

 もともとオカルトじみたことは信じない性質だ。でも、まさか……。


 ひとりで部屋に帰るのが怖い、と思った。

 だからといって、自宅のほかに行くあてなんてない。

 「幽霊? そんなものいないって!」と笑い飛ばしてくれる友達も、この街にはいない。


(わたし、いま、ひとりぼっちだ)


 じわり、と目頭が熱くなったとき、信号機横に視線が吸い寄せられた。そのこにあるのは、いつも目に入るあの看板だ。


 【注意!! 死亡事故発生現場】


 毎日見ている文字が、涙で歪む。

 ――ふっ、と。

 街の喧騒が遠のいたような気がした。


 道行く人々の足音も、話し声も、車のエンジン音も、すべてがくぐもって聞こえる。まるで水の中に潜ったときのように。


 不思議と違和感は感じなかった。

 生温かい風が過る。足もとから、ぞくぞくする寒気が這い上がって来る。


『かえりたい』


 耳元で誰かが囁いた。


『かえりたい、いますぐ』

 

 いや、呟いたのは七葉か。

 溢れてくるのは抑え込んでいた願いなのか。


 帰りたいよ。今すぐに。

 だって寂しいんだもの。苦しくて、もう、ひとりじゃ立てない。


 東京になんか来なきゃよかった。

 もう、こんなところにいるのは嫌。東京なんて嫌。今すぐここからいなくなりたい。

 おばあちゃんに会いたい。

 仲良しの友達と美味しいものを食べて笑いたい。

 何も知らなかった子供の頃に戻りたい――。


 深く吐いた吐息が白く曇る。

 いつの間にか、七葉はひとり、なにもない空間に立っていた。


(……寒い)


 街並みも人混みも消えて、ほの暗い闇がのしかかってくる。


 寒さに凍える七葉の目の前で、大きな光がいくつも瞬いていた。

 飛び交う光たちは明るく、そして暖かい熱を放って眩く輝いている。


 あの光をつかまえよう。

 そうしたら、この寒さから解放される。何もかも忘れて、また笑えるようになる。きっと……。


 光は目の前に迫っていた。あと少しで指先が届く。


『……きて』

 

 光の中から誰かが呼んでいる。女性の声だ。

 どこかで聞いたことがある、優しくて、どこか寂しげな声。


『こっちに来てよ』


 応えるように手を伸ばす。

光に飛び込もうとした七葉の体を、誰かが突然うしろから抱きすくめた。

 強い力で引きずられる。指の先から光が逃げていく。


「……!?」


 ぱんっ、と耳元で何かが弾けるような音がした。

 途端に、世界に音が戻ってくる。

 けたたましいクラクションの音とともに風圧が鼻先をかすめ、すぐ目の前を銀色の大きな塊が猛スピードで横切って行った。


 ハッと我にかえり、七葉は自分が誰かによって羽交い締めにされていることを理解した。


(誰?)


 首をまわして背後の相手を確かめる。

 おそろしいほど整った顔の青年が、斜め上の角度から見下ろしていた。


(あ、この人……)


 昨夜、橋の上で会った青年だった。


「危ないと思って来てみりゃこれだよ。自分が何しようとしたかわかってんの?」


 青年が言い、七葉が向かっていた方向を指さす。

 羽交い絞めから解放された七葉が立ち尽くしていたのは、ぎりぎり歩道の縁。目の前の四車線道路を、乗用車がビュンビュンと行き交っている。

 無数に輝いていた蛍火は車のヘッドライトへと変わり、乾いた都会の風が七葉の前髪を乱暴に舞い上げた。


 もしもあと一歩、前に踏み出していたら。


(わたし……車に撥ねられてた……!)


 途端にゾッと肌が泡立った。恐怖のあまり足が震えだす。


「お前、呼ばれたな。ちょっとやばいぞ」


「呼ばれた……?」


 青年の言葉にハッとする。

 光の中から呼んでいた声。どこかで聞いたと思ったが、それがいつなのかを思い出したからだ。


『来て』

『こっちに来てよ』

 

 あの声は、七葉のアパートの窓ガラスに手の跡がつけられた昨夜、外から聞こえていたのと同じ声。

 そして、職場の倉庫の棚の奥に潜んでいた「目」と視線が合ったときに聞こえた囁きとも同じ――


「おっ、と」


 その場にへたりこみそうになった七葉を、青年が力強く抱きとめた。

 切れ長の目を片方瞑って見せ、にやり笑う。


「安心しな、篠森七葉。担当者様が助けに来たぜ」



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